リレー随筆コーナー

月並みな題名ですが「楽友会有難う!」



井上 雅雄(15期)



私は楽友会年次15期の井上です。
昨年70歳代に突入した団塊の世代を代表する年代で、今では遠くなった昭和22年、23年が我々の生まれた年です。

先日、太田 武 先輩から 「今度、楽友に寄稿するのだが、次、書いてね」と優しく(ある意味では遠回しの強制ではありますが)依頼されました。我々の年代の特徴であまり強く『NO』といえない人間がそろっているので、例外でない私も、深慮せずにお引き受けいたしました。

とはいうものの、何を書くのだ!….と自問したところ、やはり楽友会との縁が一番良いと思い、書いてみることにしました。

前述したように我々の代は第一次ベビ−ブ−ムで後に『団塊の世代』と呼ばれた世代です。
同世代がたくさんいて、変な観点からですが、戦争の悲惨さを乗り越え自由になった親たちの心情が表れているのであると、物心がついたころ理解しました。
私自身は姉が3人で末っ子の長男という恵まれた環境(?)で育ちました。
それはそうです。やっとできた跡取りですので。
とはいうものの、どこへ行っても競争競争!

幼児期、心臓弁膜症と診断され運動を避けることと、元々競争心の欠落からか中々、競争をしようという気すらおきませんでした。就学前の写真を見ると近所の女の子と『おままごと』をしているのがあり、我ながら情けなく感じたものです。そんな状態なのですが 幼稚舎を受験しました。雪がコンコンと降りまだ自家用車など所有していない時期です。一緒に住んでいた叔父が家の前の国道を走っていた乗用車を止め事情を説明したら、わざわざ試験場迄送って行ってくれ、途中、魚籃坂でスリップしながら越えていったことを覚えています。もちろん試験場も試験も覚えていませんが、妙に親切で試験場まで乗せてってくれた自動車の面影は65年たっても何となく脳裏に残っております。
試験の結果は残念ながら、この親切な方のご厚意に報いることはできませんでした。

この時期の写真の中にミカン箱をひっくり返し、その上で歌を歌っている自分の姿を見たことがあります。記憶にあるのはその頃人気歌手だった、灰田勝彦の『野球小僧』を皆に乗せられて歌ったことです。(ごく一部の方々にしかわからない内容ですが)こんな調子で小学校、中学校と進みます。

前述のように、体が弱かった(と親は思っていました)ということで夏は転地療養が必要であるというから、葉山の森戸海岸に家を借りて療養に行きました。療養とはいうものの朝から晩まで海に行き遊んでいただけなのですが、夜になると海岸にある遊技場に遊びに行きました。丁度、石原慎太郎、裕次郎の作り上げた『太陽族』が横行していた時代です。小学生の私には妙ににぎやかな人たちという具合にしか感じませんでしたが、『菊水』という甘味どころがその頃の中心地で、当時のアメリカンポップスを聴きそれが普通のように思っていました。なぜか、印象的だったのはハリ−ベラフォンテのバナナボ−トや『Just walking in the rain』などがあります。

このような背景で育ちようやく慶応高校に入りました。昭和38年の事です。
一年の時同じクラスの隣の席にお公家さんみたいな姓のN君がおりました。高校からでしたので色々な話をするうちに彼がすでに楽友会に入っており、2階の部室に誘われ一緒に行ったところ、何となく入部希望者になっておりました。丁度、高校と大学が一緒に活動している時で、若杉さんが「Esdur」をお振りなった3週間前の事です。

以前から音楽は好きなものの、ポップスなどしか聞いてません。 後の事ですが同期の連中は皆その演奏会の事を私にいかに良かったかを説明してくれ出演できず残念だったことをよく覚えています。

いつも出遅れ感のある私です。高校二年の時も同期で同じ組の現在、医師のS君が勉学のため休部(退部?)するということになり、何もしていない私が彼に代わり副代表(副責任者)をすることとなりました。副という文字が付くポジションは往々にして何かなければ、気楽なものですから、気楽に考えていたところ『なにか』が起こりました。

責任者の『賢い方の井上君』(当時、井上が二名いて彼にはその形容詞がつき、私には形容詞が付きませんでした。)が病に倒れこちらも休部(退部?)、突然、藪から棒に責任者となってしまいました。全然、意識も高くなく心構えもなく、途方にくれましたが、ここで友達が一気に増えたのです。やはり、よっぽど頼りなかったのでしょう。

何とか夏の合宿も終わり、秋の試験後の日吉祭が済んだころから責任者の自覚が出てきました。というのも日吉祭がおわって気持ちが昂揚してるときに、ご苦労さん会をしようという時です。

今ですと大人ですので「一献」ということになるのですが高校生です。まして女子高も一緒ですので喫茶店くらいしかありません。日吉には20名くらいが一同に入れるような喫茶店もなく同期のK君が自由が丘の行きつけのところがあるからというので、自由が丘まで行きました。結構、生演奏などあり多少賑やかだなと感じたくらいでしたが、翌日、岡田先生から呼び出されました。我々が行ったところは当時ファイブスポットというライブのきける店でどちらかというと高校生の行くところではないと叱責されました。そんなこと言われても困るよ...というのが実感でしたが、皆にそのことを話すと、やはり始末書を出すべきだということになり、書くこととなりました。

とはいうもの、生まれてこのかた、人に後ろ指を指されないようにと育てられていたもので、始末書など書いたことありません。同期で指揮者のK君が色々説得力のある、始末書を書いてくれ事なきを得ました。この事件で責任者というものの自覚を否応なく学ばされたわけです。11月から3月までの間は高校生だけの第二回の演奏会に向け一心不乱でした。

勿論、生まれて初めての「一心不乱」でした。楽友会が本当に自分の時間の大半を占めた時期でした。演奏会場の手配はすでに終えてあり、当時としては高校生にしては贅沢すぎる上野の文化会館小ホ−ルで行いました。入場券を税務署に持って行き、入場税を払いに行くなどはまるでそれまでにない経験でした。紆余曲折を経て演奏会も無事に終え、虚脱状態で大学に行ったのですが初めから楽友会に行くことは考えもしませんでした。

大学では二年生の時のみ、参加いたしました。それから20年くらいのブランクの後、同期H君が先輩に楽友三田会合唱団に誘われたが一人で行くと断れないから一緒に行こうということになりその席に同席。案の定、断りきれずに入会。そのうち誘ったH君は多忙という理由で退会。又も出遅れた私は継続。なぜか楽友会関連で紹介してくれた友人は私より先にやめてしまった例が多いようです。

長々と駄文を記しましたが、今、私はMMC,OSF、羅漢と3つも参加してます。
子供のころポップス、歌謡曲しか知らなかった少年がひょんなことで宗教曲、日本歌曲に触れ、その素晴らしさ、美しさを感じることができたのも楽友会に参加したからであり、素晴らしい先輩や後輩の教えで、できたことに他ならないと思っています。声の出る限り、又皆さんから受け入れられる限り歌を歌っていきたいと思うのと同時にこの楽友会をベ−スとした合唱団が末永く続くことを願っております。

リレーのバトンは同期の角谷君に回しました。覚悟しています。

(2018/11/7)

    


編集部 一番若くして爺さん合唱団(OSF)のメンバーになったのが井上雅雄君でした。OSFは御承知の通りOver Sixty FiveのOSFです。65歳以上でないとメンバー資格がありません。ところが、親切なOSF爺さん達は彼を64歳の時にメンバーに入れました。それが、「もう70」と言います。月日の経つのは早いものですね。(2018/11/7・かっぱ)


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