リレー随筆コーナー

楽 友 会 に 感 謝


太田 武(
11期)


僕の楽友会との縁の始まりは、昭和37年の4月に遡る。4月の初め、経済学部への入学が決まり、さてクラブ活動はどうしようかと、日吉のイチョウ並木のあの緩やかな坂道を上り、左に曲がって直ぐの所に出ていた楽友会の出店(?)に興味を惹かれ、多分10期の女性に声を掛けられたのがきっかけだったと思う。今から思うとその女性は誰だったのだろう。

あれから早や56年。今楽友会に関係する活動は合唱が三田会合唱団、羅漢、OSFの三つ。更にゴルフ会や歩こう会などのアクティビティを入れると、毎週、当時からの仲間たちを顔を合わせては、歌い、呑み、そして懲りずに他愛のない議論を楽しんでいる。最早、楽友会抜きでは考えられない生活が続いている。懲りずに付き合ってくれている仲間に感謝である。

このリレーのバトンを受けてくれと頼まれたのも同期(11期)の池田進君からであった。本心は断りたい所であったが、進さんからのお願いとあらば断わる事も出来ず受けた次第。彼との長い付き合いも貴重な財産といえる。

さて、楽友会に出会ったお陰で、自分の会社生活を通じで役に立ったお話を二つさせて頂く。

  

先ずは最初の話。

僕が当時の三菱重工水島自動車製作所(岡山県倉敷市)に赴任したのは入社直ぐの昭和41年4月初め。ここには小規模ながら混声合唱団があり、既に各種のコンクールにも出ていたが、取り立てていう程の結果は出ていなかったようでした。

入社して三年位たった頃だったと思うが、男子の新入社員で、大学で男声合唱を結構やっていた実力のあるのがテナーとバスにそれぞれ一人ではあったが入って来た。そこで狙いを産業人合唱コンクールの全国大会出場に絞り女声軍大リクルートをやり、その頃から多く入るようになった短大出の女性や高卒の女性を集め何とか30名以上の合唱団に仕立て上げた。これはより競争の少ない大きい団体のグループに入って全国大会出場を狙ったもので、後でこれが奏功する事に。

その時は僕は一応入社早々ながら合唱団の代表を任されていた。ここで大学4年生の時の楽友会での幹事長の経験が役立った。

そしてその年岡山県大会や中国地方大会を勝ち上げって、愈々大阪の厚生年金会館で開かれる産業人合唱コンクール全国大会に出られる事になりました。特に地方予選では大きなグループの出場団体は数が少くなく合唱団を大人数にした結果が上手く行った次第。

当時会社は、運動部には色々と手厚い処遇をしていましたが、文化部は殆ど面倒を見てくれないのが実情で、とても出張扱いにはなりません。それでも総務部長と直談判して何とか往復の交通費だけを出して貰える事になりました。

所でそのコンクールの結果ですが、勿論全くの選外。でも皆さん大阪まで会社の費用で出かけて、大きなホールで歌うことが出来、その上全国レベルの合唱団のコーラスが聞けた訳で、大いに楽しめたと大喜びでした。

このような事が出来たのは、正に楽友会で得ていた経験が大いに役立った訳で「楽友会に感謝」でした。

  

二つ目のお話し。

それは僕の二回目のアメリカ駐在の時のお話し。時は1988年11月。所はアメリカ・イリノイ州の田舎町ブルーミントン・ノーマル市(双子都市)。

このブルーミントンという街はアメリカ中西部にあり、シカゴから車で南に約2時間位の所です。夏は結構暑いのですが、特に冬の厳寒さは相当なもので、所謂体感温度ではー20℃〜30℃位にはなり、冬仕事が終わって駐車場に行くと車は雪にすっぽりと埋まっていて、かじかんだ手で雪かきと凍り付いた氷を取り除くのにたっぷり時間を掛けなくてはならない事がよくありました。

工場の周りは見渡す限りのトウモロコシ畑で、特に冬の夕方に西の地平線に沈んで行く夕日が大変綺麗な田舎町でした。

でもここにはイリノイ州立大学(ISU)や、大手損保会社のステート・ファームの本社があり、人口も二つの市を合わせると当時でも約10万人位にもなり、北海道の旭川市とは昭和37年から姉妹都市になっています。

ここに三菱自動車は、当時では世界最新新鋭のロボットや自働機械を多数備えた自動車組み立て工場を作りましたが、その初代生産管理部長として赴任していた時のことです。

この会社は当時三菱自動車が提携していたアメリカのクライスラー社との合弁で、新規開発の2ドア・クーペを年間18万台生産するために作ったもので、その名もダイヤモンド・スター・モータース。(ダイヤは三菱、スターはクライスラーの社標のペンター・スターに由来。略称DSM社)

工場建設が始まったのが1986年でしたが、1988年の秋にはグランド・オープニング・セレモニーが出来るまでになっておりました。

このセレモニーで何とか自前の合唱団で、日米両国国歌が披露できないかというアイディアが当時の三菱派遣の初代社長からあり、僕が慶応で混声合唱をやっていたのが知られていた事もあって、白羽の矢が立った次第。この社長も学生時代は名古屋大学で男声合唱をやり、その後も東海メールクワーヤで歌った事のある人で、一応コーラスにはそれなりの造詣の深かった人でした。

その話があったのが確かセレモニィーの数カ月前だったと記憶しています。

言われて慌てて米人中心の合唱団を立ち上げ、両国国歌の他数曲を歌う事にしました。メンバーはそれでも各部門から集まって、その数は何と60名以上にもなりました。


オープニング・セレモニーで歌うDSM合唱団

それを予感していた訳ではありませんが、自分の担当する生産管理部の現地人採用に当たっては、出来るだけ履歴書に書かれている趣味や得意とする分野に音楽とあると、面接時に特に詳しく聞いて、これと思った人物を優先的に採用していたのが役立ったのでした。

指揮者は同じ生産管理部で採用していたホルン吹きの男と、大学時代に女声トリオをやっていたという女性(この女性大学出とはいえ、何と仕事は工場現場でのフォークリフトの運転手でした)にやってもらいました。


C社アイア・コッカ社長を製造担当副社長と共に工場案内する筆者

これが結構うまく行き、日本から来ていた主賓の三菱自動車の社長もびっくり。同じく主賓として出席していた当時のクライラーのアイア・コッカ社長(*)も目を白黒(いや目を白茶色?)していました。

(*)この人、元々はビッグ3の一つフォードの社長を長らくやっていましたが、オーナーのフォード家と意見が合わずくびになり、乞われて当時倒産寸前だったクライスラー社再建のため年俸たったの$1でクライスラーにやって来た仁。後には大統領候補の一人にもなりました。

余談ながら、地元の大学ISUには、当時チェロの岩崎洸さん(ピアノの岩崎淑さんの弟で、現在桐朋の教授)が教授として来ておられまして、我々のグランド・オープニング・セレモニーでもチェロの演奏をやって頂きました。

このように短期間の間に合唱団を立ち上げて、やや怪しげながらも混声合唱を皆さんの前で披露できたのも大学時代に楽友会にのめり込んでいた経験が大いに役立ったようで、ここでも「楽友会に感謝」です。

序ながら、このDSM社駐在中に地元の大学ISUの音楽専攻の学生や、教授を中心にしたオーケストラと合唱団に、街の市民合唱団が加わってヴェルディのレククイエムをやるというので、幸いにもこれに家内と一緒に参加させて貰うことが出来、寒い真冬の練習のために3ケ月ほど州立大のキャンパスに通い現地の人たちとも交流が出来ました。これも楽友会のお陰です。

楽友会での4年間が無ければこのようにコーラスにのめり込む事は無かったと思えますし、海外でも色々な形でのコーラスを通じての人生体験もできなかったと思います。

会社生活を終えて、毎日が日曜日といわれるような生活になった今でも、長い付き合いの仲間たちと繋がりを持ち続けられる事は素晴らしい事であり、これも全て楽友会での経験があっての事。何度も申し上げますが「楽友会に感謝」です。

現在76歳の僕は両親(父98歳まで、母93歳まで存命でした)の長寿系のDNAを引き継いでいるようで、更に20年は健康長寿を全うする積りでおり、毎日の食生活には特に気を遣っております。果して楽友会の仲間とのこの付き合いは何処まで続けられるでしょうか。11期の同期の面々、頑張れ!おわり

(2018/9/18)

バトンは、井上雅雄君(15期)に渡りました。

    


編集部 太田 武君は嫌でもバトンが回ってきたから断らずに頑張って書いたと言っている。それでよい、回ってきたバトンを受けずに余所に回してホッとするような人間はろくなもんじゃない。太田はそれが分かっている。

皆さん、太田武を見倣ってください。バトンが回ってきたら喜んで受けてください。何年後か、何十年後かにこの「楽友」を孫が読んだら喜ぶと思いませんか?「わー、お爺ちゃんのだ!」

イリノイの大都市シカゴに真冬に訪れた時、毎日、零下20度でした。革靴の底が凍ってしまうので、デパートに行ってオーバーシューズを買いました。それで、次に飛んだところが2000Km南のロサンゼルス、何と+20度です。1日のうちに40度の気温差というのは珍しいことだと思いませんか。ワイシャツでOK。(2018/9/18・かっぱ)


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