リレー随筆コーナー

1987年12月定演 

“Jesu, meine Freude“の思い出


尾高 雄一 (33期)

昨年(2017年6月)、混声六連の演奏会に、現役の時以来、はじめて伺いました。もちろんお目当ては楽友会のステージではあったのですが、当日のプログラムでは何と早混がバッハのモテット3番。しかもあの八尋和美先生がご健在で指揮!私はその名演を聴きながら、無意識のうちにこの曲の楽譜を頭の中でめくり感慨に耽ったのでした。私が4年の時、学生指揮者として振ったのがまさしくこの曲だったからです。

当時の楽友会では、一学年から2名の学生指揮者を出すのが恒例でした。しかし32期の藤田信吾さん、そして私(33期)と、二期続いて学指揮1名という、いわば「学指揮受難の時代」でした。しかし藤田さんが4年の定演で一人で2ステージ振るという離れ業をやってのけたのに対し、翌年4年になった私は「絶対に1ステしか振らない(振れない)」と周囲に公言しておりました。6月の六連を終えて、定演の学指揮ステージの選曲で、私個人としては楽友の偉大な先輩でもある林光さん作曲の「鳥のうた」(今年現役の皆さんが演奏されました)を振りたかったのですが、諸事情で断念。そこで選んだのがJ.S.バッハのこの曲でした。


1987年12月の定期演奏会のプログラムの対談記事より
当時、楽友会会長中野博詞教授と筆者との対談

楽友会の草創期はともかく、当時、定期演奏会のメインでオケ付き宗教曲を演奏するのが恒例であった楽友会としては、学指揮のステージの最低一つは邦人作品(日本語の曲)を演奏するのが通例でした。しかし私としては、この曲のコラールは楽友会の愛唱歌として馴染み深かったこともあり、この全曲をぜひとも演奏してみたいと選び、全団員による選曲での投票も、確か一番人気でした。しかしどうも後から聞いた話では、幹事会メンバーとしては複雑な心境だったようで。邦人曲が入らないと一般受けはしない…つまり定演に客として呼ぶのは学内の友人が多いわけだから、集客面も考えてほしかった…というわけです。私はそんな幹事の心配や苦労もそっちのけで、「宗教曲に長年とりくんできた楽友が、たまには宗教曲オンリーの定期演奏会をやってもよいのではないか」と強硬に押し切ってしまったわけです。私はそれこそ山岐くんと同じで、1年で「モツレク体験」をし、そのモーツァルトが対位法の技法において瞠目したというバッハの作品で学生時代を締めくくれる、とは何と幸せなことか!と思い、この曲に取り組み始めました。しかし、この曲を知れば知るほど、格闘すればするほど、「何とバッハが偉大で、何と難しい曲なのか」と痛感させられました。喩えるなら自分は「ヒマラヤ山脈のエベレストを登ろうとしている小学生」。しかしこの曲に貫かれている深い信仰心に幾度となく助けられ、神の慈愛をも感じながら、何とか定演のステージで演奏しきることができました。定演2ヵ月前に「暗譜」を指示するというこれまた強引な私に当時のパートリーダーはじめ約100名の団員はよくついてきてくれたと思います。今から思えば、まことに若気の至り。若いが故の驕り、もあったと思いますが、近年再会した当時1年だった後輩が、「あの時のバッハは今でも忘れられない」と言ってくれて、少し救われている今の自分がいます。(2018/6/27)

⇒ 対談記事(pdf) 

    

バトンは林(城頭)慶子さん(34期)に渡しました。(2018/9/18)


編集部 リレー随筆の原稿は実に気まぐれと言うか、届かないと一月も届かないこともあり、そういう時は編集部主幹のオザサ爺様は体調が崩れます。かと思えば、次々と送られてきます。均せば、この10年間極めて順調に原稿が集まっています。でも、編集者という人種は、原稿の投稿状況に一喜一憂するものなのです。

慶應義塾各種三田会のホームページも沢山公開されていますが、わが「楽友」は一般のメンバーが、それぞれの生活や体験の話を綴り、文集サイトになっています。原稿を書くことは、一般に面倒くさい話です。忙しい人には迷惑かも知れません。しかし、忙しい人ほど原稿の提出も早いのが現状です。

本文が先に送られてきて、写真ファイルが今日届きました。なんと中野博詞さん(2期・大学楽友会元会長)との対談でした。5年前、ひっそりと亡くなりました。(2018/7/10・かっぱ)


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