リレー随筆コーナー

あの日、あの人、あの音楽


佐々木 高(3期)

篠原初子さんよりバトンを受けてから6カ月もかかり申し訳ございません。音楽を趣味として約60年。結構よい趣味をもったと自画自賛しております。興味をもった始まりは中等部2年の時、芥川也寸志先生という方が着任され、我々の音楽の授業を受けもってくださったからです。その第1回目の授業は戦争体験の話で、ニューギニア(多分?)で悲惨な状態に置かれ、ウジ虫を飯盒で泥水とゆでて食べたなど、すごい話を淡々とユーモアたっぷりになさいました。そして2回目の授業から音楽鑑賞となりました。

最初に聴かせてくださったのが何とブリテンの「青少年のための管弦楽入門」。全く予想もしない(できない)音楽でした。そして2曲目がまた当時としては普通ではない、プロコフィエフの「ピーターと狼」。当時、日本語の語りのある盤がまだ無かったので、先生が語りをしてくださいました。軍歌、東京ブギウギ、リンゴの唄で育った私には全く衝撃的でした。期末試験では先生の作曲された「中等部の歌」を、ご自身のオルガン伴奏で、一人ずつ歌いました。この先生が天才的な作曲家と分かったのは、かなり後でした。

3年の時、同級の桂という友人が「合唱部というのができて、かわいい子がいるから入らない?」と誘うので、何も考えずに入部しました。彼が「かわいい子」といったのが山口順子(旧姓:西田)さんでした。小川京子先生とおっしゃる先生のもとで、生まれて初めて合唱を経験しました。殆どがユニゾンと2部合唱だったと記憶しています。この時から合唱にはまってしまいました。

この年正規の音楽の授業は、芥川先生が退任され、その後を急きょ岡田忠彦先生が高校とかけもちで担当されました。50(昭和25)年のことです。和声学の講義で、難解で困りました。その上すごく怖かったです。しかし高校に進学しても、迷うことなく音楽愛好会に入会しました。この時から7年間はただ岡田先生に付いていくだけでした。

当時の普通高校の音楽部では考えられない多くの名曲を歌うことができました。思い出すままに記してみます。「ヘンデル:メサイア/アーメン・コーラス」「ハイドン:四季および天地創造より数曲」「モーツァルト:レクィエムと戴冠ミサ曲」「ベートーヴェン:第9交響曲/合唱幻想曲」「フランク:荘厳ミサ曲」「フォーレ:レクィエム」「ケルビーニ:レクィエム」「ドヴォルジャーク:スターバト・マーテル」「マスカーニ:歌劇カヴァッレリア・ルスティカーナより」「ボロディン:歌劇イーゴリ公より」「ワーグナー:タンホイザーより」、また、先輩の指揮で「メンデルスゾーン:エリアより」「信時潔:合唱曲」「岡本敏明:合唱曲集から『錠前屋の弟子』他小曲多数」。

そして私の高校時代の一番のハイライトは下記の演奏会に参加できたことです。それは:
☆ 第335回 N響定期演奏会「ベートーヴェン:荘厳ミサ曲:指揮/クルト ヴェス/独唱/三宅春恵・佐々木成子・柴田睦陸・中山悌一:合唱/国立音楽大学:52年3月20、21日:日比谷公会堂」
☆ 第344回 N響定期演奏会「バッハ:マタイ受難曲:指揮/クルト ヴェス/独唱/伊藤京子・佐々木成子・柴田睦陸・園田誠一(エヴァンゲリスト)・栗本正・ヨゼフ モルナール(イエス):合唱/国立音楽大学:Vn:パウル クリング:53年2月19、20日:日比谷公会堂」

これは岡田先生の母校の関係で参加できた大変貴重な経験でした。筑紫、伴(故人)、長谷川、川島、楠田の諸先輩に、同期の村上と私などの希望者が参加しました(他にどなたがいらしたか記憶にありません)。この参加が男性だけとのことで、井上(旧姓:重本)アキ子先輩が不公平だと激怒され、大変困りました。

とにかく、このような日本の最高峰の演奏会に、普通高校の生徒が参加するというのは破天荒なことで、最初で最後だったかもしれません。また、高2の時のNHKの唱歌コンクールで神奈川県代表になれたのも楽しかったです。この時の課題曲が「青春讃歌」だったような気がします。「燦爛の空、くれないに・・・」とかいう歌詞で、伴奏が舘野泉君(当時高1)でした。自由曲は「リーダー・シャッツ」より”Der Jaeger Abschied(狩人の別れ)”でした。

10年間の塾での生活は本当に充実していました。よい先生とよい音楽に恵まれ、よい先輩とよい後輩にも恵まれ、また、現在その人たちと再び共に歌うことができるのは本当に幸福です。楽友会、楽友三田会の設立に、メンバーの一人として参加できたことも忘れる事のできない思い出です。逝去された先輩、後輩の方々にも、いろいろ思い出やゴシップがあります。次の機会にぜひ投稿させていただきます。

バトンは14期の日高好男君に渡します。彼なら私の遅れを取り戻してくれるはずです。(2月12日)