リレー随筆コーナー



岡田先生・仲間・音楽への感謝

 

篠原 初子(3期)


 今、ある日の音楽会のプログラムを出して見ているところです。昭和251950年11月10日/主催:中等部/後援:男子高・女子高/於:読売ホールとなっています。この音楽会は当時、男子高のみならず、中等部の音楽教諭もなさっていらした岡田忠彦先生が、プロデューサーとしてご尽力されて実現したものです。先生の指揮により、中等部生の合唱に始まり、最後は高校生の混声合唱による天地創造でしめくくられました当時、女子高は開設されたばかりで一期生の一年生のみでした

この音楽会には現在音楽家として第一線で活躍していらっしゃる幾人もの男子校生徒のうちの何人かが賛助出演なさいました。チェロ:伊東 毅さん/フルート:峰岸 壮一さん/ピアノ:林 光さんによるそれぞれの独奏、合唱・・・は、中等部生の私たちにとってはまぶしいものでした。

先生の授業に用いられた音楽の教科書は楽しい曲がいっぱい詰まっていました。各パートの難しい所を強調して弾いて下さるピアノでの音とり、そして先生の指揮のもと、元気な合唱が響いた充実した授業だった事など、このプログラムを見ていると懐かしく思い出されます。(「クロニクル」「前史(4)」参照)

 女子高に進学した時は、もちろん、かねてからの希望だった音楽愛好会に入部しました。音楽室から流れてくる天地創造のコーラスを聴いたりして早く入部したいと思っていました。多感な高校時代に、最も深い音楽の美しさをたたえた数々の大曲と取り組めたのは幸せな事だったと、改めて先生に感謝申しあげます。あの頃の部活動の思い出は、心の宝石として大事にしまっています。

 楽友のホームページに載っている池田先生の随筆も懐かしく拝見いたしました。私は中等部時代の国語教諭・西村先生池田先生と、折口信夫門下の兄弟弟子ひきいる仲間たちと共に、10年以上も池田先生のお墓参りをつづけていましたが、3年ほど前、その墓前で皆に混声合唱団ができるにあたっては、池田先生のご尽力が大きかったと岡田先生がおっしゃっていたと話したものです。

その池田先生から賜った三田育ちは私の大事な本ですが、その中には、ダークダックスの喜早さんが書かれた「(池田先生は音程がしっかりしていて、記憶力がいいなどという一文も載っています。一中節の名取でいらっしゃる一方、西洋音楽も愛された幅広い先生のご趣味がうかがわれます。

 普通部からいらした若杉弘さんも懐かしい仲間の一人です。彼は塾高時代からバリトンとして、また部員の指揮者の一人として、その溢れる才能を発揮し、さらに学外の音楽活動にも参加していらっしゃいました。3年位前の岡田先生を囲む会に、若杉さんがいらっしゃったのは本当に久しぶりの事でした。そして皆と歓談なさった時の事を詠んだのが次の句です(このホームページの編集者が、短歌でも俳句でも何でもいいから書くように、とおっしゃるので載せさせていただきます)。

 卒業後、私の音楽との関わりといえば、近所で合唱活動を楽しみ、その後、個人レッスンでドイツ・リートや日本の歌曲等を歌ったりすることです。合唱団の一員として、神奈川県立音楽堂での安田祥子・由紀さおりのコンサートに、バック・コーラスで出た時に詠んだのが次の句です。

 ここ15年間位、近所のデイ・サービスでささやかながらボランティアをしており、ア・カペラの曲を歌ったりもしております。脳梗塞の術後の方が赤とんぼの歌に強い感動を受け、顔がくしゃくしゃになり、暫く元に戻らなかったことがあります。また、ヘンデルの“Lascia ch'io pianga涙あふるる)”を歌った時は、認知症のとても音楽好きの方が、さめざめと泣いていらっしゃいました。そのような方たちを見ていると、音楽の力の大きさを実感させられます。皆さんと昔の日本の歌を歌い、あらためてその頃の歌の良さを感じてもいます。いつまで続けられるか分かりませんが、聴いていただく喜びを経験できる、ありがたい時間です。

 いろいろ話が飛び、読みづらい文で申し訳なく思います。書き終わってホームページ楽友を見たら、またまた新しい記事が目にとまりました。なんと、私が懐かしく思ってここに書いた音楽会の事を始めとし、当時のフレッシュな教諭として、夢一杯の先生のご活躍ぶりを称えたすばらしい記事でした。びっくりしながらも、大変楽しく拝見いたしました。

バトンは同じ3期のザザ佐々木高さんにお渡しします。(08年8月31日)


訃 報 

既に楽友三田会会報70号(2015/11)でお知らせの通り、2015年7月19日にご逝去されました。謹んで本ページにご遺影を掲載し、ご冥福をお祈りいたします。

後日、追悼文が届きましたら別途「追悼文集」に掲載いたします。

(2015/12/7・編集部)