Editor's note 2017/10

 ところで、洋楽といってもポピュラー音楽との出会いは昭和20年のことです。終戦直後にソウルにあった我が家は進駐軍に接収されました。そして、2人の将校がホームステイに来ました。大尉と中尉でした。彼らは2階の2部屋に住みました。

夕方にキャンプから家に帰ってきます。毎晩、4歳半だったチビさんは大尉の膝の上でした。まず、英語を教えられました。それから、電蓄があったのでキャンプから何枚かレコード(当然SP盤)を持ってきて聴かせてくれました。ちんぷんかんぷんですが、軍歌ばかり聞いていた耳には気持ちよかったです。

昭和21年になってから、東京に引き揚げてきましたが、後から考えるとビング・クロスビーとかダイナ・ショアだったような気がします。2,3年後、神田の畜音堂で買ったレコード「ボタンとリボン」の歌詞”East is east and ・・・”は耳から聴いたまま唄っていました。

「一銭シートゥウェッ訓さんさのろんがーめえにっちょー」てな感じです。おかしい?
最後は「・・・
なーもー友ぜん、罰全坊ー」

 71年前の引き揚げ話をご披露します。明瞭に憶えています。我が家の朝鮮からの引き揚げ話は変わっていました。

「ワカヤマさん、汚い格好は駄目です」とはシュレーダー大尉の言葉。

「欧米人は、まず身なりを見ます」と。

いい身なりをしている人には、それなりの対応をします。

お袋は毛皮のコートでした。わたしもカワウソの襟巻き。我が家だけ、よそ行きでめかしこんで引き揚げ!

京城駅、米軍のトラックで引き揚げ列車に横付け。大尉や中尉をはじめアメリカの兵隊が送ってくれました。

寒い時期だったので「コタツ」持ち込み。列車に積み込んでくれる。

布団毛布類も沢山運んでくれました。

引き揚げ列車は、客車ではありません窓のない貨車です。

1両だけはこれで暖房完備となりました。

ランプも持ち込んだので、真っ暗な車内も明るい。至れり尽くせり。

この車両に乗り合わせた人は「助かった」の一言だったと思います。

それで、一晩がかりで京城から釜山まで。

釜山港で「興安丸」に乗り込み。

戦前、戦中の関釜連絡船です。戦後は引き揚げ船です。

釜山港の埠頭には国連軍の兵士が沢山いました。

ベレー帽をかぶった兵隊に話しかけました。

「こんなチビが英語を喋る!」ってんで、大騒ぎに。

兵隊がみんなうちの家族のところに集まってしまった。

そして、お袋の荷物は持ってくれる。ガムなんかお菓子もくれる。

英語を喋ったチビは抱っこして乗船。

しかし、引揚者は船底に入れられるのだ。

この船に1等船室があることをオヤジは知っている。

ボーイにチップを切ると、親子3人は畳の敷いてある広い部屋、窓もあって外が見えるのだ。

地獄の沙汰も○次第とはこのこと。

甲板に出ると、この船の後には鱶(ふか)がたくさん着いて来るのが見える。

船から出た残飯を食べに来るのだ。

上陸したのは山口県仙崎という漁港、下関ではない。

民宿のような農家のような家で泊り、風呂に入れてもらう。

「ここは内地?」と聞いた。全部焼けたと聞いていたのに、何も焼けていない。

こんな田舎は空襲も無かったのだ。

翌日は超満員列車でがったんこがったんこ。内地は3等客車だった。

列車の連結場所の布が破けていて寒気が吹き込む。

一旦、名古屋の親戚の所に寄って何日か休んでから東京に移動した。

恵比寿の駅から馬の引く荷車に乗った記憶がある。タクシー代わりだったのか。

歩いたって10分もかからないところなのに。

渋谷の駅周辺は焼け跡だらけ。古い東横のビルは残っている。

氷川町の家は焼けずに、明治10年生まれのおばあちゃんが疎開もせずに頑張っていた。

東京空襲でもこの一角は焼け残ったのです。

その昔は、東京府下南多摩郡渋谷村という住所。お婆ちゃんに来た古い葉書にそう書いてあった。

その葉書、1銭か2銭だった。いつの物だろう?

幼稚舎には歩いても行ける場所です。中通2丁目、渋谷橋、下通2丁目、天現寺橋。

こうやって極めてめずらしい引き揚げ体験をしたのです。満5歳になったばかりでした。

いまでも耳に残るキャプテンの声、「ワカヤマさ〜ん、リンゴですかぁ?」

「リンゴはありますか?」という意味です。


2009年8月のEditor's Noteに朝鮮時代の話が出てくる。

そこに、「引き揚げてくるときの話も通常の引き揚げ話ではありません。またの機会に話しましょうと書いてあるのを見つけた。

そこで、忘れてしまう前に書いておくことにした。

(2017/10/7・わかやま)


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