Editor's note 2016/4


やまぶき(「季節の花 300」より)
  をとると涙もろくなる>と人は言う。ご他聞にもれず、私にもその現象が起きてきたようで困っている。もうすぐよわい80歳となる後期高齢者だから「年のせい」と言われればそれ迄だが、幼少年期を戦時下に過ごし「男なら泣くな!」としつけられ、少しでも泣けば「みっともない!!!」とどやされてきたから、泣くことを恥とする文化に染まっている。だから、できるだけ人に涙をみせないよう努めてきたのだが・・・。
 

 近は急に物故者が増え、半世紀以上も親しくしてきた友・知人が一人、二人と姿を消していく・・・明日はオレの番だと思うと、無性に淋しくなる。すると自然に涙がこみ上げてくるのだ。いやはや、湿っぽい話で申し訳ない。桜咲く「4月」はおめでたい月。時期的にふさわしくないとは思ったものの、やはり「岡田先生」の「偲ぶ会」が近づき、昔のこと等思い出していたら、ついついこんな書き出しになってしまった。


墨堤 桜

 生は塾校新設とほぼ同時にスタートした楽友会の前身「音楽愛好会」の発足当初(1948年)から、ご本業の他に当会の部長兼常任指揮者の役割をになわれ、その後定年退職(1991年)までの実に43年間、そしてその後もご逝去までの約24年間を名誉指揮者として、休む間もなく「楽友会員とその音楽」に深い愛と熱情を注ぎ続けて下さった・・・誰が涙なくしてその事績を語れようか。


読売新聞取材班著(中央公論社刊)

 が、事はそんな身近な話題だけに限らない。昨年は「戦後70年」という節目だったから、特に刺激が多かったのかもしれないが、涙はとめどなく流れた。1945年の敗戦時に9歳だった私にも<かなり深い心の傷が残っていたのだなー>と思うと同時に<やはり加齢現象には逆らえない!>との思いを深くした。

 んな思いに駆られた数々の資料の中で、最も印象に残ったのは「戦後70年 にっぽんの記憶(読売新聞取材班著/中央公論新社‘15年12月初版/¥1800+税)」と題した本である。内容は現役のベテラン新聞記者たちが全国に散在する、数少なくなった戦時体験者約70名にインタビューしてまとめ上げた貴重な証言記録と、随所に当時の写真や数値データを配した簡単に言えば史書なのだが、その体験記を読んでいて、フト涙ぐんでいる自分に気づくこと、一再ではなかった。史書を読みながら涙するなんてことはかつて無かったことなので、単純な私は<あゝ、この書は名著だ!>と思ったのである。

 の中に小泉信三元塾長の次女で、昨年米寿(88歳)を迎えられた小泉妙さんの「小泉信三は息子の戦死を贖罪しょくざいと受け止めた」という感銘深い一文が交じっており、「学徒動員」で出征した塾生らが戦地でどんな体験をし、生還後どんな生涯を送ったかを調べる目的で発足した「慶應義塾と戦争」というアーカイブ・プロジェクトのURLが表記されていた。http://project.fmc.keio.ac.jp 。残念ながら、このWeb中にある「戦争の時代と大学」と題する大阪での特別企画展は終了済だが、プロジェクトそのものは継続しているようなので、できたら皆でその活動を知り、支援してあげられればと思ってご紹介した。

                   (2016年4月7日/オザサ)


サンローゼ代官山B1

 ンローゼ代官山の地下1階にTableauxというDining RestaurantとTableaux Loungeというシガー・バーがある。 タブローズ・ラウンジにはグランドピアノがドカンとおいてあり、4年前から春先の3ヵ月間、ニューヨークからのDaryl Shermanという弾き語りが月曜日から土曜日まで毎夜、ニューヨークの香りを聴かせてくれる。

初来日の時に聴きに行って、ころりと参りました。家に帰って何の気なしに引き出しを開けると、名刺の束の中にタブローズの支配人の名刺を見つけました。記憶をたどると、20年前に娘が一緒にディナーをと言って連れて行ってくれた時にもらった名刺らしいのです。

2016年3月に、ヒッキーさん夫妻と出かけました。ヒッキーさんはシンガポールに住むイギリス人のご主人をもつ奥さんで、彼女は東京とシンガポールを行ったり来たりの生活です。
 

丁度、ご主人がこの1週間はEasterでお休み、東京に来ていたので一緒に連れて行きました。

そこで、ディナーをタブローズのダイニングで食べてからダリちゃんのところに行こうと、本当に20年ぶりにレストランに入りました。20年前に何を食べたのか何も憶えていません。いや、とてもユニークな料理を食べさせてくれました。料理を運んでくれたアシスタントマネージャーの羽田野君という若者に、「20年前にもらった支配人の名刺がある」と話をすると、「その頃だったら、新川支配人ですか?」と言う。「そうだ、新川さんだ」に彼は大喜びして、従業員のアルバムを抱えて来て「新川さんです」と当時の写真を見せてくれた。


タブローズ・レストラン

そんな時代には羽田野君はまだタブローズの従業員ではない頃だ。それにも拘らず、古い支配人のことを知っているというので爺ちゃんはびっくり。ここの従業員の教育をまざまざと見た思いだった。

食事が終わって、ラウンジに移動するのに、まだ飲み切れていないシャンペンのグラスを運んでくれて「チェックも後で結構です」と至れり尽くせりのサービスだった。

3月に赤坂のカナユニが閉店となった。2月には最後のライブをやらせてもらった。独特のメニュー、美味しいものが食べれなくなると寂しい思いをしていたのだが、図らずもタブローズがお気に入りの店となってくれた。世の中って面白いものだと思い、この店の紹介を書く気になった。

以前にも紹介したDaryl Shermanです。前の晩に「明日行くよ」とメールしておきましたので、ダリちゃんは大喜びで迎えてくれました。
 


喜早 哲 (1930-2016)

 ークダックス喜早 哲 85歳で死去 ダークのゲタさんが2016年3月26日に急性肺炎で亡くなりました。85歳でした。1951年にダークダーックスが結成されてから65年目です。

パクさんが5年前の正月に77歳で亡くなりましたが、ひとり、ふたりと消えていきます。不動のメンバーで続いたダークはギネスブックに長寿記録で掲載されていますが、この記録は永遠に破られることはないでしょう。

4月2日(日)の夕方にOZSONSの練習が組まれていました。小島が「ゲタさんのお通夜が6時からあるから5時には終わりたい」と言ってきました。

小島には不動前から桐ケ谷斎場への地図を書いて持たせて送り出しました。

ゲタさんのご冥福をお祈りいたします。

Frank Sinatra Jr. 客死フランク・シナトラの長男、Frank Sinatra Jr.がフロリダにツアー中、重度の心臓発作を起こし、2016年3月16日にDaytona Beachの病院で急死しました。72歳でした。1963年に歌手デビューはしたのですが、誘拐身代金事件が起こったり、ろくなことが起きません。偉大な父親の名声と実力を息子は超えることはおろか、並ぶことも出来ません。出藍の誉れとは無縁の息子でした。


Frank Sinatra Jr.(1944-2016)

父親がそれを一番よく知っていたのではないでしょうか。そこで、自分のオフィスのマネージャーをやらせたり、TV番組のプロデュースとか作曲などをやらせてきました。したがって、日本ではJr.の名前は出て来ません。地味に育てられました。お姉ちゃんのナンシー(1940年生まれ)はポップ・シンガーとして華々しくデビューし有名人になりました。 

父親が亡くなってから、タガが外れたのか表向きに歌手生活を始めたようでした。2010年2月には日本に来ました。シナトラ協会の仲良しのおば様が、Blue Noteに予約をしてくれていました。一番前のど真ん中の席で、手を伸ばせばSinatra Jr.に届きそうなところです。

お父さんと姿や声質はそっくりです。でも、歌い方も英語の発音も違います。生まれはニュージャージーですが育ちはカリフォルニアで、父親の綺麗な発音には遠く及びません。それでいながら、父親と同じ歌ばかり歌うので余計に粗が見えてしまいます。でも、大衆にはそんなことはどうでもいいことで、シナトラJr.がシナトラの歌を歌ってくれれば、それで嬉しいらしいです。My WayとかNew York New Yorkなんてヒット曲が出てくると一段と拍手が高まるのです。
 

もう6年前なんですね。どこか身体に不具合でもあったのか、椅子に座って歌っていました。まだ、66歳ですから、そんな歳ではありません。それに足元がおかしいのです。シューズを履いていないのです。うす茶色のムートンの防寒ブーツを履いているのです。靴を忘れてきたのかと思いました。

何日か後、私のチケットを予約してくれたおばさんからメールが来てシナトラJr.との写真が添付されていました。

そして、「あのムートンのブーツはJr.のお気に入りなんですって」とのことでした。


Frank Sinatra Jr. in Tokyo, 2010

 アトル在住の歌手といえばErnestine Andersonと言われて久しい。90年代中頃にシアトルのロッキードの工場を見学に行ったときに、彼女の歌を聴いて来いと言われた。シアトルのホテルで何処に行けば彼女の歌が聴けるかを調べてもらった。

最近までは、自分の店で歌っていたが店を畳んでしまって、人の店でたまにしか歌っていません。

それで、他のお婆ちゃんのライブを聴きに行ってきたが、アーネスティンの生のライブは聴けずじまいで帰ってきた。


Ernestine Anderson(1928-2016)

The Seattle NewsのInternet Newsに、

Jazz great Ernestine Anderson dies
published March 11, 2016 at 4:52 pm

The celebrated singer, once described by Quincy Jones as having the sound of “honey at dusk,” died Thursday, March 10, in the Seattle area. She was 87.

と出ている。R.I.P.

今度の日曜日は岡田先生の追悼会の日だ。(2016/4/7・かっぱ)


FEST