Editor's note 2016/3


白木蓮(「季節の花 300」より)
 月寄稿された博多信子さん(22期)の「楽友会と二人のピアニスト」という随筆は面白かった。約40年前、著者の現役時代にピアノ伴奏者として活躍された花岡千春さんと金井信さんというお二人の思い出と、今日の夫々のご活躍ぶりを紹介した一文である。楽友会に限らず、合唱団にとってピアノ伴奏者は欠かすことのできない重要な存在だが、あまりその人が話題に上ることはなく、いつしか忘れ去られてしまうのが常である。その意味で、この人たちの場合は稀有な存在といえよう。
 
 想的にはピアノの達者な楽友会員が、必要に応じて伴奏を担当してくれればいいのだが、なかなかそうはいかない。私の知る同期前後の約10年間の会員の中では唯一、9期の川上真澄さんが該当者だったと思う。が、それはそれで問題があった。彼女はいつも「歌いたいから合唱団に入ったのに、ピアノばかりでつまらない」と愚痴をこぼしていた。確かに一度引き受けたが最後、うまければ上手うまいほど頼りにされる。真澄さんの場合がまさにそれで、6期の学生指揮者・日比野君(故人)なんぞは「彼女がいなけりゃ練習にならない」と絶賛していたから、彼女はほとんど歌わせてもらえなかったようだった。
 
 んな事を考えると、伴奏者はやはり外部の人に頼んだ方が好いのかもしれない。僕らの頃は同期(4期)の館野泉君が、素晴らしいピアニズムで合唱を引き立ててくれていた。だが彼は楽友会員ではないから練習のすべてには参加できず、皆と親しく交わることもなかった。あくまでも独立したピアニストに徹していたと思う。事実彼は、既にして立派な芸術家であった。僕は休憩時間中に彼の弾くシューマンの「交響的練習曲」を間近で聞いたことがあるが、その時の感激は未だに忘れられない。もっともっと彼のピアノと接していたかったが大学で芸大に転じてからは交流が途絶えた。そして、彼はやがて遠くフィンランドに定住して一家をなし、今は高名な「左手のピアニスト」として世界各地で活発な演奏活動を展開している。もう傘寿を迎える高齢者となったが、その演奏意欲は<老いてますます盛ん>で<80歳へのプロジェクト>と題する新たな挑戦を始めている。詳しくは当HPにリンクしてある彼の公式HPをご覧あれ!

館野 泉(CD Cover)

 は高校生時代から館野君と同年齢の今日まで、ほとんど休みなく合唱活動を続けてきたから、その間に出会った合唱伴奏者は数知れない。今回この原稿を書くにあたってそのお一人一人の事を思い出してみたのだが、この約半世紀の間に伴奏者の質もずいぶん変わってきたように思う・・・昔は失礼ながら「でも・しか伴奏者」で御の字だったのだが、今日では単に楽譜通りにピアノが弾けるだけの人では務まらない仕事になっている。それだけ日本の音楽界が高度に多様化し専門化してきたという事でもあるし、ピアノ人口(ピアノ等の鍵盤楽器演奏可能者数とその楽器所有者数)の増大がもたらした競合の成果ともいえるだろう。

 単に言えば、例えばバッハの教会カンタータのスコアーを用いて、初見で合唱伴奏してくれるピア二ストあるいはオルガニストは、少なくともアマチュア合唱団には殆ど居なかったと思う。しかし今は、そうしたスコア・リーディングをこなす人は決して珍しい存在ではない。他に、昔は特定の調で書かれた楽譜を見ながら移調演奏してくれる人も稀だったが、今ではそれをこなす人は激増している。そうした伴奏者なら、例えばバロック時代の曲のG durの現代譜を見ながら、すらすらとFis durに移調して弾いてくれる。それが有難いのは、いつでも「バロック・ピッチ(A=415Hz)」で練習ができるという事である。

 リジナル楽器を用いた純正な響きをもたらす曲が盛んに演奏されるようになった今日、こうした進化はアマチュア音楽家にとっても大変興味ある、楽しみな動向といえる。その大きな変化の渦中にあって、伴奏者の能力は合唱団の質を左右する、ますます重要なファクターとなってきた。合唱団は改めてその存在の大切さを認識し、団員ともども相互に研鑽を積み、より良い合唱に仕上げていく必要があろう。特に、楽友会伝統の宗教音楽は大きな変容の嵐にさらされている。私も「年とったなー」なんてぼやいていられない気がしてきました(笑)。

(2016年3月7日/オザサ)


イグアスの滝(Cataratas do Iguazu) 1987

30年前のイグアス滝古い写真が出てきました。今も滝がゴーゴーと落ち濁流となって流れているのでしょう。世界には3大瀑布があります。誰もが知っている「ナイヤガラの滝」、殆どの人はなかなか行けない「ビクトリアの滝」、そして「イグアスの滝」です。しかし、ギアナ高地から2000mの崖を落ちるベネズエラの「エンゼル滝」は、その高さでは世界一である。

しかし、イグアスの滝の広さ、水量は桁違いに大きいのです。

この16年前、ニューヨークからナイヤガラの滝を真冬の凍りつく時期の日曜日に、視察団の希望者を募って日帰りで行ったことがある。滝の上流をクルーズしたり、滝壺見物をボートの中からしたり感動したものだった。この時から「イグアスの滝を見る」のがかっぱの夢となった。

丁度、南米で初めて我々の専門分野の国際学会がブエノスアイレスで開かれることになった。何年か前にフォークランド紛争が起こって開催が延期されていた大会だった。この学会への日本代表団の計画を私が引き受けていた。この機会にイグアスの滝を見に行こうとひそかに旅行日程を計画した。

丁度、ブラジル・サンパウロには普通部の同期生2人がいた。一人は私の義理の従兄弟で商社勤めでサンパウロ駐在中だった。もう一人は柔道部出身で、サンパウロで農園を持ち無農薬の野菜を作って主に日系の家庭に供給していた。そこで、サンパウロ大学訪問とフォルクスワーゲンの工場の見学をアレンジしてもらった。

ブラジルは石油が出ない。しかし、サトウキビはいくらでも育つ。サトウキビから油は取れないがアルコールの原料になる。そこで、ブラジルではアルコールで自動車を走らせている。サンパウロの街を歩くと朝から酔っぱらいの匂いがした。それは、車がアルコールの排気ガスをまき散らすからだった。

アルゼンチンでの国際学会の帰りにはリオ・デジャネイロに寄って皆さんを遊ばせるだけでなく電力会社の見学と講演も旅程に入れてある。リオからイグアスに飛び日曜日に「イグアスの滝」を見せることになっている。日曜日なので「どこどこ見学」なんて日程表には書いておかなかった。

ある大学の事務から「イグアスには何をしに行くのですか?」という質問が届いた。「大学の出張費を使ってイグアス観光なんて、一体、OR学会はどういう旅程を組んでいるのだ」と言っている姿が目に浮かぶ。


イタイプ・ダム

「イグアスにはイタイプ・ダムという世界一の規模のロックフィル・ダムがある。あわせてブラジル、アルゼンチン、パラグアイに電力を送る発電所を見学に行きます」と答えたら、「何の文句も出なかった」とその大学の教授から報告してきた。

その野暮な大学はどこかって?教えましょう。○しゅう大学です。意地悪い事務員より、こちらは一枚上手だったということです。

この話を聞いた東京工業大学学長で我々の団長だった松田大先生が「若山君に任せておけば、抜かりはない」と言って笑っておられた。長い間、松田先生の鞄持ちをやらせてもらった。我ながらこんなすごいダムがあることなんて初めから知っていたわけではありません。

この人口湖は300km上流までという途方もない大きさなのだ。

 しげな国際学会旅行70年代から90年代後半までの間に、私が関わった8回の国際学会と日本OR学会主催の2回のテーマ別海外視察団派遣(会計情報システム、コーポレート・プラニング)があった。その後は団体旅行の企画を考える者はなくなり、個人ベースで学会だけに参加するだけの寂しいものとなった。

私が後継ぎになるような人間を育てられなかったことに責任を感じています。実は1人半くらいはいて、その積りで手伝い要員としてアメリカにも連れて行ったり教育をしていたのだが、学会の別の仕事で一寸した事件を起こして学会の幹事や役員に就かせることが出来なくなってしまったのだった。

80年代の日本経済は右肩上がりの時代。私の企画は学会の賛助会社から視察旅行団に参加者を出してもらい、彼らのお世話をする代わりに参加費を沢山もらい、団の看板となる団長の費用や報告書の編集・印刷費用などもそれで賄った。さらに余った金は国際関係の費用に充てる目的で貯金した。こんな学会参加視察旅行が出来たのはいい時代だったことと、私の好奇心と面倒見の良さの産物だったのです。

(2016/3/7・かっぱ)


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