Editor's note 2016/1


水仙も頭を垂れ
  「楽友」旧臘きゅうろう3日に他界された岡田忠彦先生を偲んで服喪中。年賀の辞は失礼しています。とはいえ皆が揃ってクシュンとしている情景なんか、先生が喜ばれるはずはない。何と言ったって先生は合唱指導者で、我々はその団員でした。だから皆<クシュンとしていたら歌にならない、楽友会らしくない>ことは百も承知です。その意味で、現在「楽友三田会」が音楽葬ともいうべき会を別途検討・企画中という事は何ともありがたいことです。その際は思いの限りを、精魂こめてしっかりと歌い上げましょう。

 れにしても岡田先生の存在は大きかった! 何しろ先生は1948年に楽友会の母体となった塾高の音楽愛好会創設当初から、1991年に同校を定年退職なさるまでの足かけ44年間、全楽友会の責任者また指揮者であり続けてくださいました。もちろんご退任後もつい最近まで、事あるごとに茂子令夫人と連れ立ってお出かけくださり、ある時は熱心に演奏に耳傾け、またある時は歓談の輪に加わって、常に皆とにこやかに交わってくださっていたのです。さればこそ総員約1500名に発展した高校・大学の現役とOB・OG各組織の楽友会が一つにまとまりのある集団として機能し得たのだ、と思っています。

 のように大きな存在を欠いた今、我々は何をなすべきなのでしょう。一番大切なことは早期に、一体感の喪失を食い止める措置を講ずることです。今の楽友会には、塾高(現役)・女子高(現役)・大学(現役)・忠友会(高校OBG会)・岡忠会(会友の集い)・三田会(大学OBG会)という六つの関連組織がありますが、その全体を統括する組織がありません。楽友三田会がその任に当たっていると思う方が多いようですがそうではなく、規約上にもその規定はありません。ただ、大学(現役)の運営に一半の責任を負っているだけなのです。このままでよいのでしょうか?

 が最も懸念するのは高校楽友会(塾校・女子高・忠友会)の遊離であり、次いで共演レパートリーの喪失です。もし高校楽友会が離れてしまったら、大学楽友会が大きな人材供給源を失うばかりでなく、幼稚舎から大学院までの一貫校所属クラブとしての良さも失ってしまうでしょう。高校・大学と7年間を通じて得た幅広い年代の同好の士との交わりだけでも、その後の人生に、単に音楽面ばかりではない彩をどんなに豊かに添えてくれたことか・・・そう思っている人がたくさんいるはずです。そうした、他では得られない貴重な機会が失われてしまうのです! その上、全楽友会員が共演できるレパートリーが無くなってしまったら、例え同じ名称を冠する団体がいくつあろうとも、もう共同体とは言えません。オケ付きの大曲に共同で挑むといった行事も、夢と消えるでしょう。

 えば「50周年記念演奏会」のラストステージで上演された「モーツアルト・レクィエム」。あれは岡田先生が「いつでも、誰でも各自のパートを暗譜でも歌えるように、4年に一度は演奏曲目に採り上げていく」と決断され、かなり長期にわたってそれを実行してこられた曲でした。その実績があればこそ、かなり容易に現役と幅広い年代のOBGが、揃って立派な演奏を披露することができたのだと思います。しかし残念ながら、この曲は先生のご退任後は歌われなくなり、同時に楽友会の伝統的レパートリーであった曲、すなわち合唱音楽のルーツともいえる古典的な宗教曲は忘れ去られてしまいました。小林亜星先輩の「青春讃歌」が多くの楽友会員に愛唱されていますが、これは残念ながら定演プログラム用のレパートリーとしては小曲に過ぎるでしょう。

 れ等のことを考え合わせると、岡田先生は多くの宿題を残して旅立たれたように思います。ここは一番、全楽友会員が知恵と力を結集し、この難題の解を明かさねばなりません。今までの伝統を回顧・評価し、あるべき今後の方向性に関する合意を形成し、それを実行するための具体的方策を講じる必要があるのではないでしょうか。幸い塾にはマンクラやワグネルや野球部といった伝統あるクラブが多数ありますので、それら先達の事例を参考にさせてもらいつつ、楽友会も総体としての連携を強め・高めていくことができるものと思っています。しかし、楽観はできません。現在の状態のままだと、今ある組織の崩壊は近いと危惧する向きもあるのです。速やかに、前向きな対策を実施する必要があるのです。皆さんのご意見を、ぜひ当ホームページにお寄せください。岡田先生への恩返しの意味でも、楽友会をますます発展させていこうではありませんか!

(2016/1/7・オザサ)


岡田先生最後のお写真(2014/11/3・楽友三田会合唱団第22回定期演奏会)

田先生最後の楽友会イベント参加:これは2014年11月のお写真である。MMCの定演で第一生命ホールでの撮影である。これが最後の写真になるなどとは夢にも思っていなかった。虫が知らせたわけでも何でもないのだが、この時はお席まで行って先生ご夫妻にご挨拶の時に「先生、一枚」と言って撮ったたった一枚の写真だ。

「アンコールまで聴いて帰る」と仰った。

「来年の新年会は、私が送迎をしますからね」と約束をした。

しかし、2015年の新年会前に自宅を出て転ばれて、ちょっとした怪我をされて脚も弱り元気が無くなり、岡田先生ご欠席の新年会となってしまった。我々の期が幹事団だったが、歯の抜けたような新年会だった。その後の楽友会関連の行事には参加されないままになった。

慶應高校にも大勢の先生方が居られましたが、岡田先生ほど幸せな教師生活を送られた先生を知りません。定年退職後も楽友会の弟子たちに囲まれ「嬉しい楽友会人生」をどれだけ楽しまれたことでしょう。

2016年4月10日には「偲ぶ会」の開催が段取りされることになっている。そのための臨時代表幹事会が1月9日に召集されている。 

 頭の一枚:毎年、一枚の絵を描き続けてきた。最近は国外に出かけることはほとんどなくなってしまった。私の場合は観光旅行ではなく、視察団とか学会関連のイベントに出かけたものだった。若い頃からそういう機会が多かったので、知り合った有名人の学者たちは年々亡くなったり、年取って出られなくなったりして、出かけて行っても会える先生が段々減ってついには誰もいなくなった。

そんな海外出張で各地の印象的な風景をスケッチしたいのだが、そんなゆっくりと描いている時間がない。そこで、アングルまで考えながら当時のフイルム写真を撮ってきて、日本に帰ってから年に一枚だけ絵を描く習慣になった。

これをハガキに印刷して年賀状として皆さんに送った。ところが、年の暮に送られてくる喪中欠礼ハガキに「お前の年賀状は絵が楽しみだから構わず送ってくれ」というのが何通も来た。そこで、「おめでとう」という意味の言葉は捨て去り、ただの絵葉書として送ることにした。それが「年頭の一枚」となった。

今年は、珍しく東南アジアから初の題材を選んだ。シンガポールの中華寺院「万福宮」である。最近知り合ったシンガポールに住むヒッキーさんという日本女性がいる。私がシンガポールの絵を描いたのでびっくりしている。「よく、あんな狭い道の奥の万福宮に行ったわね」と言う。シンガポールに行った人でもあまり行っていないらしい。

 
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(2016/1/7・かっぱ)


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