Editor's note 2015/11


なでしこ
  塾高以来の友だから、もう60年以上ものつきあいになる。そのA君が最近フトもらした「いやー参った。出版不況でな!」という嘆きを読書週間で思い出した。出版不況は今に始まったことではない。昔はどこの繁華街にもあった本屋がいつの間にか姿を消したのは確か前世紀末―1990年代の事である。それをマスコミが「出版不況」と称し、印刷・製本・出版・書店等の衰微の状況をつぶさに伝えた。だが当時のA君は出版社の社長でありながら平然としており、いささかの動揺も感じさせなかった。

それを私は、A君が親から受け継いだ出版社が学術図書に特化した専門書のみを取り扱っており、元もと街の本屋で売り買いするような本ではなかったから、不況の影響が無いのだろうと思っていた。ところが21世紀も早15年。「出版」不況はいよいよA君の会社にも及んできたようなのである。

 私は幼い頃からの本好き。長じて母から「活字中毒?!」と言われたほど本を手放さない、いわば「本の虫」である。だから「出版不況」は他人ごとではなく<もし本が無くなったらどうしよう>と心配になり、読みたい本はとりあえず買い置きしておくことにした。未読の本が山積した。だが古稀(70歳)で隠居し「毎日が日曜日」となると、その山はドンドン低くなり、喜寿(77歳)の頃にはほぼ姿を消した。そして傘寿(80歳)目前の現在は、主に図書館の本が頼りとなっている。だが、何ともこれが気に染まない。他人の手垢で汚れているし、時にはマナー違反の書き込みがあってガッカリする。そこでやはり本は新品を買うに限ると思うのだが、旧式人間は通販が苦手。どうしても実物を手に取って、パラパラとページをめくってみないと買う気にならない。

そこで八重洲ブック・センターあたりに出向くのだが、店が大き過ぎるし売り場も広過ぎ、目的の書物にたどり着くまでが容易でない。他の本に目移りするし疲れるしでヨレヨレになる。それで心ならずも、新刊書とは縁遠くなるのだが・・・・・。

 つい先日、好い本を見つけた。7月に新潮社から出た「山崎豊子スペシャル・ガイドブック」という、一昨年の9月に89歳で他界した山崎女史の作家人生を、要領よくまとめた総覧である。私はかつて「白い巨塔」が本や映画で大きな反響を呼んだ時、この作家に強い興味をもった。新卒で毎日新聞社(大阪)に入り、井上靖氏が上司で、その感化と指導を受けて記者から作家への道を歩んだ人と知り、そういうバックグラウンドをもつ人の書いた小説を読んでみたいと思ったのだ。だが、何故か―たぶんその長大さの故に―その著書を手にしたことはなかった。

そこへこの本との出会いである。<よーし今度こそ!>と思い定め、最もジャーナリスティックな話題をはらんだ「運命の人」全4巻から読み始めた。そして今その第2巻に進んで、今更ながらに著者の旺盛な文章力に圧倒されている。

何せこの本と「不毛地帯」は全4巻で「沈まぬ太陽」に至っては全5巻、「白い巨塔」、「華麗なる一族」、「二つの祖国」、「大地の子」の4作が全3巻で、「ぼんち」、「女の勲章」、「女系家族」は全2巻、といった大作ぞろいなので目がくらむ。よくもこんなに書けたものだと驚嘆するが、その情熱を支えたのが著者ならではの新聞記者魂だったと思える。師である井上靖文学の格調の高さはないが、山崎文学には葛藤に満ちた社会現象を克明にえぐる独特の迫真力がある。

 「運命の人」が誰を指すかは今(第2巻)のところ定かでない。だが、おそらくそれは小説で弓成亮太ゆみなりりょうたと名づけられた「外務省機密漏洩事件(別名:西山事件)」で有罪となった元毎日新聞社政治部記者・西山太吉氏を指すものと思われる。

その事件は1971年に締結された「沖縄返還協定」に絡むもので、西山記者はその協定に含まれた日米間裏取引に関する秘密事項をあばいた人である。氏はそれを新聞に公表する一方、野党議員に資料を渡して政府(外務省)の施策を追及・批判するよう工作した。しかし、その過程で秘密情報の入手経路がバレ、当人と外務省女性事務官の不倫問題が発覚。世論はたちまち国民の知る権利や報道の自由に関する問題よりも、不倫関係の方を重視した。そこで西山氏の立場は一転、責める立場から責められる立場に転落したのである。その事は、昨年末強引に施行された「特定秘密保護法」がらみで再度取りざたされたが、ほとんど話題にならなかったようである。

 ・・・・・さて著者はこの事件を「運命の人」の後半(第3,4巻)でどう展開し結ぶのだろうか。それを読むのが楽しみなので、今年の読書週間にちなんだ編集ノートはこの辺で筆を置かせていただこう。

・ なお、この事件に興味のある方は、ノンフィクション作家・澤地久枝さんの「密約―外務省機密漏洩事件」をお読みになるとよい。こちらは大部な小説ではなく、事実関係が要領よくまとめられた単行本なので読みやすい(岩波現代文庫・定価1,188円)。

・ それはそれとして、数日前の朝日新聞にAmazonが本拠地のアメリカで、新規に本屋を開店したという記事が載っていた。今後も新しい店舗の開発に力を注ぐようだ。やはりネット等の通販だけでは本の売れ行きが伸びないのだろう。早く日本でも開店してほしいものだ。ついては皆さん、毎日、本を読もう! そして「楽友」に毎月投稿を!!!

(2015年11月7日/オザサ)


作間 毅(1904-1987)


菊地滋弥(1903-1976)

大正時代に学生ジャズバンド本で最古の学生ジャズバンドは法政大学の「ラッカンサン・ジャズバンド(Luck and Sun Jazz Band)」だと言われている。法政大学には、「軍艦マーチ」の作曲で有名な瀬戸口藤吉の指導による法政シンフォニー・オーケストラがあり、このメンバーの中から目新しいものをやりたい若者たちがブラスバンドからジャズへと興味を広げ、作間 毅をリーダーに「サンセット・ランド」というコンボバンドが作られ、間もなく「ラッカンサン・ジャズバンド」が結成された。

作間 毅はもともとはヴァイオリンを弾いていたが、ドラムス・ボーカル兼アレンジャーという忙しい人で、1925年(大正14年)、1926年と日本橋三越劇場でコンサートを行い、そのサウンドは1928年(昭和3年)から1929年にかけて、日本Victorで9曲のレコーディングが行われ、ラジオで放送されたのだという。後のレコードでは、マスクをかぶり鉄仮面という別名で吹き込みをしている。

同じく大正末期、1925年ごろ、慶應大学には幼稚舎からのKOボーイ、菊地滋弥(pf)の6人編成のグループがあり、実業家で名高い益田太郎男爵の息子たちがジャズの研究をしていたという。日系2世のジャズメン堂本誉次(tp)が帰国して、益田家と親しかった関係から、ジャズバンドを作るように益田兄弟に促し、集まった慶大生が古賀郁夫(sax)、紙 恭輔(sax)、福井孝太郎(vln)、高橋宣光(dr)らであった。彼らは「カレッジアンズ・ジャズバンド」と名乗った。
 

1927年頃、高橋宣光が「本格的なジャズバンドを作ろう」と菊地滋弥に提案し「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド(Red and Blue Jazz Band)」が始まった。高橋がマネージャー格となった。堂本は家業の貿易商が多忙となり、菊地滋弥を中心に活動するようになった。1928年に三越劇場で第1回のコンサートを開き大成功を収めた。「レッド・エンド・ブルー・ジャズバンド」は1928年から1929年にかけて、ニッポノホンとコロムビアに18面のレコード録音を行った。

ラッカンサンとレッド・エンド・ブルーは親しく交流していて、菊地滋弥はラッカンサンのコンサートやレコード録音には応援メンバーとして演奏している。ラッカンサンのピアノ、山下一郎が早くに病歿し、菊地に要請が来たものである。

2人の生まれた1903年(明治36)、1904年(明治37)というのは、ビング・クロスビー(1903年生まれ)ファッツ・ワラー(1904年生まれ)と同じなのです。驚きませんか?シナトラは1915年(大正4)生まれ。

大正時代の日本に、明治生まれの学生によるジャズバンドがあったという話は本当に感動的である。

さらに驚いたのは、ラッカンサンのレコードで作間 毅が英語の歌も歌っているのだが、素人の歌ながら個性のあるジャズ向きの声でフェイクしているような歌を聴かせる。昭和初期のプロ・ジャズ歌手、二村定一や天野喜久代などの声楽上がりの歌手は発声がクラシックそのもの。ジャズを歌うには不向きなのだ。それが、作間は声楽家でないのが幸いしている。面白いことです。

 

更に、さらに、レコードの中でデュエットでコーラスを付けているのが赤羽武夫という慈恵会医科大学の学生だった。赤羽さんは慈恵医大男声合唱団の創設者で、後に同大学名誉教授、私の20年来の音楽友達の赤羽紀武さん(慈恵医大出身の外科医)のお父さまだった。

 Phil Woods死去 Just The Way We Were


Phil Woods(1931-2015)

Jazzman Phil Woods dies at 83;
defined the sounds of bebop

By the time Phil Woods stepped into the studio with Billy Joel, the saxophonist was already considered a legend among his contemporaries, a towering figure in bebop jazz.

But the pop song “Just the Way You Are,” with Woods’ piercing alto saxophone solo, made his sound instantly recognizable to the millions who listened to Top 40 music.(Los Angels Timesより)

チャーリー・パーカーの後継者と言われたフィル・ウッズが2015年9月29日に83歳で死去した。実際、チャーリー・パーカーが34歳の若さで死去した後、残された未亡人と結婚し、子供たちの継父となった。文字通りの後継者だった。

バップの奏者なのだが、彼の名前を広めたのはPopsのレコードにも名演奏を残したからであろう。上記の”Just The Way You Are”では、ビリー・ジョエルのバックと間奏を吹いている。これで、ジャズを聴かない人にもフィル・ウッズの名前を知らしめたのである。(2015/11/7・かっぱ)


FEST