Editor's note 2015/1


門 松
 「1年の計は元旦にあり」。正月は家族が全員集まったり、年賀状で友人や知人の動向を知ったり、旧友相集ったりで、その都度うまい酒が飲めるからこんな嬉しい月はない。だが私は心臓に爆弾を抱えており、ガン患者でいえば末期ガンの状態らしい。だからもし再爆発したら、きっともうこの世とはおさらばだから、まだまだ未練のある身としてはもう大酒は飲めない。せいぜい酒2合くらいをチビリ、チビリと味わう程度である。飲み仲間がいない時には、杯片手に年間計画を練る。
 

 若い時からやってきたことだが、計画は大別して仕事・家族・自分のことの3種に分かれる。もちろん年代順に入り繰りがあるが、先ずは仕事関係、次いで家族との計画が減り、喜寿を過ぎた今(78歳)となってはもっぱら自分の事だけになった。家人とは来年金婚式を迎えるが、ずっと「君は君、我は我也、されど仲良き」ということで、人づきあいや趣味については互いに干渉しない主義できたから、子供たちが独立した今となっては、殆ど共通の計画がない。例えば家人は「青木洋也氏リサイタル」とか「5月・椿姫:新国立劇場」等を予定しているらしいが、私はそれ等に無関心で、勝手に<abc全集を10月までに読破>とか、<7月:江戸文化歴史検定1級合格>といった計画を立てている。

 さて楽友会関係だが、やはり当ホームページ(以下HPと略記する)の充実と発展に最大の意を用いる。先ずは寄稿数の増加を期す。皆さんご承知のように「楽友」の「最新更新記録」のページには記事を更新した日付とそのタイトルが載っている。その公開当時から昨年末までの実績を表にしてみたのでご覧いただきたい。この数値は、比較対照できる他の同種クラブや合唱団のデータが何も無いので客観的評価は下し得ない。従って主観的判断によるしかないが、初公開以来7年間(74ヶ月)、どの月の値を見ても0が無いのは最大の誇りである。

月/年
2008
2009
2010
2011
2012
2013
2014

 
13
6
8
6
4
44
 
11
12

8

10

19
17
77
 
22

6

12
3
10
13
66
 
32
10
12
12
7
8
81
 
6
9
5
7
6
15
48
 
12
11
11
10
8
16

68

-
21
7
17
7
8
7
57
-
13
13
8
9
7
7
57
-
5
4
6
3
5
3
26
10
-
5
11
16
8
12
9
61
11
4
8
5
9
5
8
10
49
12

15

7
13
8
7
9
11
69
年合計
19
155
107
118
89
105
120
713
月平均
9.5
12.9
8.9
9.8
7.4
8.8
10.0
9.6
注:  @青字は年間最多・赤字は同最小回数を示す
A 「計」の月平均値は「年合計」数を総月数74で除した値
B 当HPは2008年7月創刊。10月まではCountしていない

これには若山技師長(9期・以下愛称の「カッパ」で略記)のたゆまざる貢献が大だ。寄稿者は勝手なもので、原稿を書き上げるまでは編集者をさんざん待たせておきながら、いざ出来あがると直ぐに公開しないと怒る人さえいる。だが、編集という仕事は目立たないところで大変厄介な細かい仕事があり、文章の推敲に始まり誤字・脱字の校正や清書、それに関係事項の確認やリンク張り、サーバーへの転送等々意外に面倒で時間がかかるものなのだ。しかもカッパは2011年3月までは現役の大学教授であったから、本業も相当に忙しかった筈である。それにもかかわらず嫌な顔一つせず、原稿を送れば即応するスタンスと早技で対処してくれた。そのサービス精神こそ、カッパならではの人柄と特技の賜物である。

一方寄稿してくれる人が絶えなかったのも幸いだった。さすが塾生・塾員の集団であると思った。もちろんメールを出しても返事一つ寄こさない唐変木もいる。だがそんな奴はどこの集団にもいて、説得するだけ時間のムダと分かっているから無視することにした。と鷹揚に構えていられるのも、大半の仲間は、編集部の依頼に気持ちよく対応してくれたからなのである。感謝に耐えない。

 しかし、もちろん寄稿者の数は多ければ多い程好い。アクセス人員も比例して増え、このHPが楽友人コミュニケーションの欠くべからざる媒体として広く活用されることになると思うからである。その為にはどうすればいいのか。一番即効性のある大切なことは各期の代表幹事に協力して貰うことである。このHPは当初私個人が趣味的に開設したものだが、その後カッパの協力を得て内容・体裁共に充実してきた。それを見て時の楽友三田会会長の清水康昭君(12期)から「会のHPとして使わせて貰いたい」との依頼があり、2009年からは公式HPとした。

とはいうものの、その後公的に活用された実績は全くない。たまに代表幹事会議事録等を送ってくるから掲載するが、それ等は機関誌「楽友三田会報」にも掲載されるので、殆ど意味の無い重複だし、HPをそのような官報的情報伝達だけに用いるのはもったいないと思う。公式化した意義を、再考する時期に来ているのではなかろうか。

 ちょうど会長が若い山本一吉君(24期)に引き継がれたことでもあるし、どうだろう、この際HP「楽友」のあり方や編集方針、それに各役員や代表幹事の関わり方について、真剣に考え直して頂けないだろうか。そしてもし存続すると決めたなら、ぜひ学年代表幹事諸君に、少なくとも同期会員の消息や原稿集めに、積極的にご協力頂くことをお願いしたい。今はそうした事をカッパと私だけ、たった二人の爺さんコンビでやっているが、いくら有能?といっても、80歳代の会友からハイティーンの現役まで、1500名になんなんとする全楽友人とコンタクトするのは物理的に不可能なのだ。だからぜひ組織としての対応策を実現していただきたい。HPの公式化を決めた時の代表幹事会で、浅海直之君(13期)は「それでは我々もHP発行者の一員として、皆で責務を担うべく、頑張りましょう」と発言されたと聞いている。言やよし!どうかその宣言を今年こそ、全三田会役員と学年代表幹事の諸兄姉に水平展開し、実行に移されんことを!!!

(2015年1月7日/オザサ)
 


 もう1つの楽友会(日本楽友会):戦前、戦中そして進駐軍時代にジャズや軽音楽を演奏してきた楽士たちが組織した親睦団体の1つに「日本楽友会」がある。その起源は定かではないが、日本楽友会は礒部桂之助氏を初代会長として結成された。

日本のジャズの創成期は古い。明治末期・大正初めに「船の楽団」と呼ばれたアメリカ航路の客船のバンドがジャズの楽譜をもたらしたとある。1917年にOriginal Dixieland Jass Bandがジャズのレコードを初めて吹き込んだのだが、その1,2年後には日本に入って来ている。

最後の「船のバンド」は昭和16年開戦直前の北米客船龍田丸に乗り込んだ礒部桂之助楽団で、アメリカ船に拿捕される寸前に、危うく逃げ帰ったという話が伝わっている。


龍田丸

近まで、日本楽友会関西のホームページが開設されていたが、2014年11月現在、そのトップページが削除され、ばらばらになった何ページかの残骸がそのままになっているだけだ。以前は関西での親睦会に東京から役員が代表で参加していたが、組織そのものも解散したらしい。

長年のジャズファンの私に、何年か前から日本楽友会の親睦会の案内が届き、出席するようになった。会長の原田イサムさん、副会長の瀬川昌久さん、理事長の清水万紀夫さん、事務局の奥山五月男さんら、懇意にしてきた方々が役員をされている。というわけで、珍しくも2つの「楽友会」に所属している人間が私だ。


船のバンド

とりあえず、日本楽友会のホームページを立ち上げて、散逸している資料や情報を集めて、日本のジャズ文化を多くの人と共有したいという思いだ。先日、奥山さんが名簿などの資料と最近の懇親会のビデオを持ってきてくれた。日本楽友会で検索してみればすぐに出てくる。まだ、緒に着いたばかり、いわば表紙だけのホームページである。

 年頭の一枚:年賀用にペン画を描き始めて満20年になった。昔は余白に「年賀の言葉」を添えたりしていた。それが、90年代の終わりごろ、喪中のはがきに「おまえの年賀状は必ず送ってくれ。手描きの絵が楽しみなのだ」という。そんな喪中はがきが複数枚来た。それ以来、わたしの年頭の挨拶には「おめでとう」の文字は使わない。「正月なんて別に目出度かない」と思っていた自分にはいいとこ幸いだった。歯の浮くような決まり文句「おめでとう」が消えた。

喪中の家には年賀はがきは使わず、普通はがきにプリントして送る習慣となった。ただ、今年も元気に「一枚の絵」を描きましたということで、「年頭の一枚」という呼称ができた。


Parthenon(=Hall of Virgin God)

1990年の学会出張のアルバムからアクロポリスの写真がごろごろ出てきた。アテナの処女神を祀ったパルテノン神殿は紀元前480年にペルシャ戦争で破壊され再建された。その後、6世紀にキリスト教に取り込まれ、15世紀にはオスマン帝国のモスクになった。その後、火薬庫になっていた1686年にヴェネツィア共和国軍の砲撃で火薬が爆発しひどい損傷をうけて現代の姿になっている。

われわれが見に行った1990年頃は、神殿の再建・復元のために神殿の内部外部に足場が組まれて写真を撮ってもまことに邪魔なものだった。この角度から見上げた神殿はほとんど足場は目立たない。絵の中では左側2本目と3本目の柱の間に足場が組まれているのが見えている。

午前中の早い時間帯で、右のほうから太陽が照らしている。

 教え子からの便り:DVから逃れるため子供も置いたまま家を出て約10年、傷心を癒せぬまま音信もなく1人でひっそりと暮らしていた1993年卒の教え子からメールが来た。旧姓と同じ苗字の男と結婚し子供ができた頃までは便りがあった。それが途絶えて本当に10年ぶりの便りだった。すぐに家に呼んだ。飛んできた。学生時代に新宿の中華料理屋で食べた「トマトラーメン」が懐かしいという。そこで、20年ぶりのトマトラーメンを食べに行った。

彼女はこの絵をプリントして部屋に飾ったと写真を送ってきた。今年のOBG会には出てくると言っている。同級生に会って元気になって欲しい。

(2015/1/7・わかやま)


FEST