Editor's note 2014/3


今月の花:ウマノアシガタ(金鳳花)

  このホームページに、かつて筆者は「アコとカクテル」と題する追悼文を書いた(Anthology⇒「追悼文集」)。今回は、そのカクテルこと加来昭子さん(2期/旧姓:今橋)の兄上・今橋朗さんのことになる。

そのキッカケは、つい先日届いた杉原洋子さん(12期/旧姓:小林)からのメールにある。少し長いが、意が尽くされているので、そのまま転載させて頂く。

 ・・・<泰雄さん(編注:楽友会結婚の夫・11期/杉原君のこと。2000年に「くも膜下出血」で倒れたものの一命を取り留め、その後は洋子夫人の献身的サポートで、車椅子に乗って三田会の集まりにも出席できる程に快復された。その光景は、このホームページのLinks⇒「Jazzにまつわる話」⇒「杉作(11期)のうた」に詳しい)の教会青年会時代の恩師に、今橋朗先生という方がいらっしゃいます。

先生は、ご存知の、故・加来昭子(2期)さんと森田道子さん(6期)、(編注:もうお一人・3期の今橋久さん)のお兄様で、泰雄さんの教会青年会時代は神学生でいらしたそうです。慶大卒業後に神学校に入られたそうですが、塾在学中は、高校か大学時代かは分かりませんが、一時期楽友会に在籍されていたようで、先生のお部屋の壁に楽友会のペナントが貼ってあったそうです。泰雄さんはそれを見て「慶應に入学できたら、ここに入ろう」と思ったそうです。


故・今橋 朗師(1932-2014)

その先生が数年前よりガンになり、その後闘病生活をなさっていて、泰雄さんはいつもいつも先生のことを心配していました。その病の中で翻訳された本が発売されたとかで、同じ青年会時代の仲間が泰雄さんの分を注文してくださり、その本が到着した日に、先生の訃報が届きました。

先日(1月27日)そのお仲間たちと一緒に、先生が学校長を務めておられた目白の日本聖書神学校で行われた葬儀に参列しました。その際、参列者に配られたのが先生最後のお仕事になったその本「光射す途へと―教会歴による信仰詩集(ジョン・キーブル著/今橋朗 編・訳/日本キリスト教団出版局/2013年9月刊)」でした。

今日、その1冊をお宅にお送りしました。泰雄さんの代わりに読んでください。先生も、小笹さんに読んで頂ければ喜んでくださることでしょう。>・・・


 

 ということで私は今、その本を手にして感銘を新たにしている。実は、先生とは2回お会いしている:
1回目は随分昔のことだから、少しあやふやな部分もあるが、1980年代の初頭であった事は確かである。泰雄さんの依頼で急遽男声カルテットを組み(杉原泰雄+齋藤成八郎/5期+福井幾/5期+私/4期)、南久が原教会の伝道集会だったか讃美礼拝で奉唱させて頂いた。その時司会をされた牧師先生が今橋朗さんだった。柔和な方で、にわか仕立ての下手なBarbershop StyleのGospel Songを数曲歌っただけにもかかわらず、ご丁寧に何回も私たちの奉仕に感謝の辞を述べてくださった。集会後の懇親会で今橋さんは、ご自分の塾高生時代は林光さん(会友)等と同期で、1〜2年生の時は「音楽愛好会」の活動に熱心に参加された事などを我々に明かされ「一応皆さんの先輩ということになりますかな」、と照れながら自己紹介された。そこで一挙にうちとけて、楽しい想い出話に花を咲かせた覚えがある。

2回目は1999年5月8日の事。楽友会のOBGが中心となって発足した「東京スコラ・カントールム」という宗教音楽専門の合唱団(現代表は市田正英さん/20期)の創立20周年を記念する「第35回定期演奏会」の会場だった。その頃の今橋さんは、日本基督教団・讃美歌委員長という要職にあり、時代を画す「讃美歌21」という新・讃美歌集を刊行されて間もなく、大変お忙しいご様子であった。


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そのご多忙の原因に、新・讃美歌の普及が低迷していることがあると知った我々は、<それなら、東京スコラ・カントールも応援しよう>ということになり、「讃美歌21」に盛られた意義深い曲のあれこれを紹介するプログラムを組み、「讃美歌の四季・春」と題して立教女学院の美しいチャペルで演奏会を開催した。アカペラの混声合唱とパイプ・オルガン伴奏だけの地味な合唱コンサートではあったがなかなかの盛会となり、終演後一同が喜びの興奮に包まれている所へ、人混みをかき分けて今橋さんが現れ、満面に笑みをたたえつつ、先ずは泰雄さんをあたたかくハグし、次いで私たち一人ひとりに感謝の言葉をおかけくださった。この時も私たちは、今橋さんのやさしく謙虚なお人柄に、いたく感じ入ったものであった。

 それやこれやで我々は教会音楽を通じ、今橋朗(1932-2014/享年81歳)先輩と浅からぬご縁があったわけだが、残念ながらご一緒に合唱した事はなかった。しかし今回、奇しくも杉原泰雄・洋子さんのご縁で頂いた、今橋さんの絶筆となったご著書を拝読しつつ、フトその著者と共に讃美歌を唱和しているような感を覚えて心が和んだ。それはこの書によって、古くからの、いわゆる「旧・讃美歌」で親しんだ懐かしい讃美歌2曲の出典を知ったことに一因がある。その2曲とは朝の曲として有名な「くる朝ごとに」と、夕礼拝用の「わが魂の光」のことである。それらはわが若き日々、教会の修養会やキャンプ等の集会で数え切れぬ程歌ってなじんだポピュラーな讃美歌だったが、歌詞の原著者や出典については全く頓着していなかった。それが図らずも今橋さんのご著書によって、“THE CHRISTIAN YEAR by JOHN KEBLE/1827”であることを知り、甚だ唐突ではあるが、その原著者・キーブル師と訳者・今橋朗師に非常な親近感を覚えたのである。

 ここに謹んで故・今橋朗先輩の遺徳を偲び、その「わが魂の光」の歌詞を掲げさせて戴きたい。「楽友」諸兄姉と共に唱和できれば幸いである。本来なら今橋さんの訳詩全文をご紹介したいところだが、非常に長いので、それを要約した形の――今橋さんの思いもこもる「讃美歌21」の歌詞(一部は日本聖公会「聖歌集」による)で代用させて頂くこととした(「讃美歌21(日本基督教団)214番」、「聖歌集(日本聖公会)29番」、「教会讃美歌(ルーテル派教会系)222番」、「聖歌(日本福音連盟)103番」。注:歌詞・曲共に版によって若干の違いはあるが、基本はどれも同じである)。

@ わがたまひかり、救い主イェスよ、近くましまさば よるにあらじ。

A 静けきなよな 夢路につくとき、みそばいこいを 思わしめたまえ。

B も日も離れず 主ともにいまさば、くるも死ぬるも おそるることなし。

C み言葉ことばにそむき さまよえる子らを、今宵こよい主のもとに 呼び返したまえ。

D 貧しきを富ませ、うれいをなぐさめ、む人をとり、安らわせたまえ。

E あした目覚めさめなば、み手にまもられて み国の旅路に 進ましめたまえ。

 (2014年3月7日・オザサ)


プログラム表紙

慶應讃歌グランドコンサート20143月1日(土)サントリーホールにおいて5年ぶりの慶應讃歌グランドコンサートが開催されました。音楽三田会の主催ですが、現在の会長は楽友会会友の小森昭宏氏(作曲家・医師)です。

昨年10月に開いた管理工学科39年卒のクラス会で、このコンサートの宣伝をした人がいました。それは、管理工学科の元教員だった佐久間章行先生です。佐久間さんは我々が学部学生の頃は学科の助手をされていました。その後、青山学院大学に経営工学科が創設されるときに専任講師として赴任され、定年退職するまで教授としてIndustrial Engineeringを専門として教えていました。

佐久間さんは音楽三田会の事務局長をされています。楽友会の中で、このコンサートの話を聞く前に佐久間さんからチラシをもらって、チケットを頼んでおいたものです。
 

16:30頃にサントリー・ホールに着いてしまった。開場が17時で開演が17:30。そこでカラヤン広場の一番隅っこにあるCafeに入り時間をつぶしていたら、チェロを担いだ一団が入ってきた。そうだ、コンサートは14::00からの小ホールでの昼の部と17:30からの夜の部の2つのコンサートから成っているのだ。多分、昼の部の出演者たちだと思いながらコーヒーを飲んでいました。

 第1部 魅惑のクラシック オーケストラと共にアマデウス・ソサイエティ管弦楽団、ワグネルのオケのOBオーケストラに2人の指揮者、藤崎 凡、斎藤純一郎が代わるがわる登場し、知らない人ばかり出てきて歌った。1つも耳に残っていない。それには理由がある。

私にとって唯一つ圧巻だったのは舘野 泉さん(ピアノ)のステージであった。曲目は池辺晋一郎作曲「ピアノ協奏曲第3番”西風に寄せて”」〜左手のために〜であった。舘野さんの感動的な左手一本のピアノに、広いサントリーホールのすべての聴衆はアンコールを要求してしまった。

舘野さんはこれを受けてカッチーニのアヴェマリアを演奏された。私は舘野さんをじっと涙しながら聴いた。これで、今夜は来た甲斐があった。満足だった。よかった。初めて生のステージに出会えた。

かつて、舘野さんが高校生の頃、楽友会の演奏会(1952年)に伴奏者として共演したことがあります。

 第2部 ビッグバンドと共に、懐かしのポピュラー音楽慶應義塾大学には公認のジャズビッグバンドのサークルが2つある。ライト・ミュージック・ソサイエティが誰にでも知られた慶應を代表するビッグバンドだ。ライトにはOBバンドが私が知っているものが3つあるが、一番のシニアバンドがライトの創設者、高濱哲郎さん(Tener Sax)の率いるSwing Esquire Orchestraである。終戦の翌年にライト・ミュージック・ソサイエティを創部し、現在でも矍鑠として演奏を続けられている。

グレンミラーの”In The Mood”で2部の幕が開いたが、その後からは私の耳が聴いてくれなかった。選曲も感心できないし、歌のクオリティも上等ではない方がシンガーとして呼ばれていたようだ。

2部の最後は第1部のクラシックのオーケストラにライトの若手OBバンド、Starlight Orchestraの大編成のスペシャル・オーケストラ、それに小川理子のピアノで”Rhapsody In Blue”が演奏された。理子ちゃん、今回は歌わなかった。あなたはピアノだけの方がよろしい。珍しく1920年代にKing of JazzといわれたPaul Whiteman楽団のスタイルで演奏された。ホワイトマンはシンフォニック・ジャズを始めた音楽家でビング・クロスビーは彼の楽団の専属歌手だった。

 第3部 共に歌おう、伝統の歌、そして新しい歌いよいよ楽友三田会合唱団(MMC)がワグネルOB合唱団、ワグネルOG合唱団と共に歌を歌う番となった。先ずは「塾歌」から、応援指導部のリーダー、リーダーOBが次々と登場し、会場のお客様を巻き込んで大合唱が始まった。

昔々、幼稚舎生の頃、学校の帰りに神宮球場の内野学生席の入り口に行くと、応援指導部のお兄さんは子供たちをタダで入れてくれ、応援リーダーの台の真ん前の席に座らせてくれたものだ。そして、試合が始まる前の時間に腕の振り方を教えてくれたものだった。「若き血」や「我ぞ覇者」は簡単な振りだが、「塾歌」や「丘の上」は振りが難しいのだ。60年も前に習った腕の振りは、今も変わっていない。

懐かしい応援歌の中に「旧塾歌」を聞かせてくれた。明治37年に制定された最初の「塾歌」である。知らない人はMMCの人に歌ってもらうといい。続いて「幼稚舎の歌」「中等部の歌」「普通部の歌」が歌われた。考えてみると「高校の歌」というのは岡忠さんに習った憶えが全くない。

5年前にできたあたらしいカレッジ・ソングが14曲大急ぎで歌われた。ご苦労様です。最後は会場全員で「若き血」を肩を組みながら歌った。ヒップヒップフレーでないシンプル・バージョンです。

この3部の途中で不思議な光景を見ました。ワグネルOBの後列で歌っていた一人の体格のよいメンバーが最上段の出入り口から出て行ってしまいました。体調でもおかしくなったのか?とちょっぴり心配していたら、1,2分後に楽友三田会のユニフォームになって後ろから2段目の1つ空いている席に着きました。

「そうか、彼は亀井君に違いない!」 


フィナーレ


山本邦山(1937-2014)
 山本邦山死去人間国宝、尺八の山本邦山が2014年2月10日に亡くなった。76歳だった。

邦楽という古い枠にとらわれず、ジャズとの融合を図った最初の人物で、Bamboo Fluteの名を世界に知らしめた功績者である。原信夫とシャープス&フラッツとニューポート・ジャズフェスで演奏し、アメリカ人の度肝を抜いてきたという話は有名すぎる話だ。

不思議な縁で1999年にヘレン・メリルのBlue Noteでのライブに誘われて行ったとき、邦山さんも一緒だった。邦山さんは私の学会での仲間の山下家と親しく、山下家の奥方、扶甬子さんはヘレンのプロデュースまでしていた関係でヘレンと邦山さんとの共演が実現されるようになったものである。

ヘレンの楽屋にみんなで押しかけていって、昔話をしたのが懐かしい。

八王子の山下家にはよく呼ばれて行ったものだが、いつぞやは邦山さんの息子さんが遊びに来ていて、音楽談義になったことがある。邦山さんのご冥福を祈ろう。合掌 (2014/3/7・わかやま)


FEST