Editor's note 2014/2


ローズマリー

 正月のテレビは音楽で溢れる。中でも私はテレビ朝日の番組を注視する。数あるテレビ局の中でここが一番熱心に、好みの番組を提供してくれるからだ。世界でも最長寿番組の一つ、といわれている「題名のない音楽会」も面白いが、正月はやはり特番に限る。昨年活躍した人たちの名演奏が、長時間番組でまとめて視聴できる。それこそテレビにしか期待できない、まさに正月だけのお楽しみである。

 元旦の夜は9時から約2時間、辻井伸之のピアノを堪能した。この人が「ヴァン・クライバーン国際ピアノ・コンクール」で優勝したのは今から5年前で、当人はまだ20歳の学生だった。だから現在は、普通なら社会人になりたてのヒヨッコである。だが、彼は既に一躍日本を代表する著名なピアニストとなり、国内はもとより世界各地のコンサート会場を席巻する国際的ヴィルトゥオーソとなっている。

 
 その端緒となったコンクールの主宰者ヴァン・クライバーン(1934〜2013)は、その演奏を評して“Miracle!”と叫んだそうだが、確かにその映像を見聞きしていると思わず胸の奥から熱いものがこみあげてきて「奇跡!」としかいいようのない感動に包まれる。

音楽は会場に行き、生の演奏に接するのが一番だが、ピアノ演奏に関しては奏者の手や指の動きが見たいのに見えないのが残念だった。だがテレビ時代になり、つぶさにその動きがみられるようになったのが嬉しい。

辻井の左右の手指が柔軟に、瞬時も休むことなく鍵盤上を乱舞して美しい音を紡ぎ出していく。それが音楽+αの感動を惹起してくれる。どちらかといえば小さな辻井の手が、人一倍大きな手の持ち主だったと伝わるF.リストやラフマニノフの超絶技巧の難曲を、少しの危うさも感じさせずに弾きこなす。その巧みさは、スポーツで強敵を倒した後に感じるような爽快な喜びさえ与えてくれる。

 それが生まれつき全盲という過酷なハンディを負った人の技と知れば、感無量となる。もとより「盲人なのに・・・」といった意識は毛頭ない。かつて江東区で視覚障害者たちと一緒にコーラスを楽しんだことがあり、その時のメンバーがどんなに苦心して練習に集い、晴眼者の何倍、何十倍もの苦労を重ねて曲を仕上げていくかを知る仲間の一人として、私は辻井というコンサート・ピアニストの誕生に、ご両親をはじめどれだけ多くの人々の深い愛情や献身的な助力が注がれたかを察し、それだけでも胸が熱くなるのである。

 もちろん当人自身の筆舌に尽くしがたい苦労があっただろう。だが幸か不幸か本人は、それを晴眼者が思うほど苦にしなかったのではないかと思う。アマチュアながら巧みにキーボードを奏するある全盲の友人はこう教えてくれた。「幼児期からの全盲者は物が見えないのが普通の状態で育った。だから晴眼者の有利―逆にいえば自分の不利など一々気にしない。ただひたすら音楽が好きで、楽器を弾いたり歌ったりすることに熱中する。やる以上は誰よりもうまくなりたい。その為に苦労し努力を重ねるのは、当たり前じゃないか」。

だから、と云っていいのか身勝手な憶測と言われるかもしれないが、私の存じあげている全盲の演奏家(下記)の奏でる音は、辻井さんのピアノをはじめ、何れもえもいわれぬほどに明るく輝いて聞こえるのである。

 Helmut Walcha(1907〜1981)J. S. Bachの約千曲におよぶ鍵盤曲(オルガン、チェンバロ曲等)を全て暗譜し、K. リヒターと共にバッハの鍵盤音楽再興に努めた。戦後LPの全盛期に2度にわたって「バッハ・オルガン曲全集」をリリース。未だに模範演奏として尊敬されている。/和波 孝禧(1945〜):9歳の時、全日本盲学生音楽コンクールのヴァイオリン部門で第1位特賞を受賞。以後国内外のコンクールに度々出場して上位入賞。各地オーケストラとの共演、室内楽、リサイタル、CD録音、東京芸大・桐朋学園大などの非常勤講師を務めるなど幅広い活動を続けている。/武久 源造(1957〜):幼い頃からチェンバロの音に魅せられ、コンクールには見向きもせず、学究の道を邁進した。東京芸大・同大学院で楽理・音楽学を専攻。長らくハインリッヒ・シュッツ合唱団の通奏低音楽器の担当もして同合唱団を支えた。もちろんオリジナル楽器によるソロ演奏や組織的演奏活動にも熱心で、バロック音楽を中心に広範なレパートリーをこなしている。/梯 剛之(1977〜):幼少の頃から音楽的環境豊かに育ち、小学校卒業と同時にウィーンに留学。94年には早くもウィーン・ムジカ・ユーベントゥティースで優勝して頭角を現し、その後も欧米各地のコンクールで上位入賞を続け、遂に98年には名だたるロン・ティボー国際コンクール(パリ・ピアノ部門)の第2位受賞の栄に浴した。以後世界を股に広範な演奏活動を展開したが、2000年を境に軸足を日本に移し、本来の演奏活動の他、CDや図書の刊行、さらにはマス・メディアにも出演し、積極的にクラシック音楽の普及と社会貢献活動を行っている。

 今をときめく辻井 伸之(1988〜)については今さら喋喋ちょうちょうするまでもない。TVやNetや雑誌等で夥しい情報が流れている。だが、もし未だその音楽をお聞きになったことがない方は、下の動画をご覧あれ。そのすばらしい演奏の一端に触れることができるだろう。

 

(文中敬称略/オザサ/2014年2月7日)

 Little MANUELAのコンサートマヌエラのお客さんにフルバンドで歌わせるという贅沢な企画を立てました。昨年の初夏にライトのOBバンドの申し出で「僕ら伴奏するから、プロデュースを頼みます」という。フルバンドで歌う機会は普通の人にはありません。2012年の暮にはクインテットのコンボをバックに歌うというコンサートを開きましたが、コーラスも交えて35組の出演者が集まりました。大成功だったわけです。そんな伏線があって今度はフルバンドで歌いませんか?という企画です。

リトル・マヌエラは赤坂で30年以上続くジャズのピアノバーです。オーナーは塾員で学生時代はKMPでピアノを弾いていました。帝国ホテルの犬丸一郎さんの協力を得て1982年に赤坂一ツ木通りにLittle MANUELAを開店しました。そんなわけでジャズの好きな人たちの集まる上品なお店です。

 

フルバンドで歌う人20名+コンボで歌う人10名位の規模で募集したところ、フルバンド希望者18組、コンボ希望者18組と36組が申し込んできました。その中にはFJS女声ジャズ合唱団も参加します。

会場費を安くするように区民ホールを2箇所申し込んだのですが抽選ではずれてしまいました。そこで、建て替えて新しくなった銀座のヤマハホールに話を聞きに行って、その場で2014年1月18日(土)を1日押さえてきました。素人の歌好きな方たち、ヤマハホールで歌えるとなるとやはり嬉しいらしいです。

ライトOBバンド Lighthouse Orchestra

フルバンドで歌うには伴奏の譜面がないと演奏できません。譜面を持っていない人は譜面を書いてもらうか調達しなければなりません。新たに編曲を申し込んだのはごくわずかでした。フルバンドの編曲には最低5万円程度のお金が必要です。フルバンド用の譜面を持っている人の方が多いのです。近頃の素人さんには驚きます。それに華やかなものです。この中にお1人楽友会出身の後輩がいます。

コンサートの出演者

 ModernairesのPaula Kelly Jr.死去モダネアーズは昭和10年に結成されて、昭和14年にGlenn Miller楽団に雇われました。今年も三田のアートセンター主催のジャズの研究会で2月4日に講義をしてきました。今回は「スイング時代とビッグバンド」がテーマです。当然のようにグレン・ミラー楽団の話が出てきます。そこで、久し振りに、本当に久し振りにモダネアーズのサイトを開いたところ、Paulaが2012年の4月に亡くなっていました。

モダネアーズの創設メンバーのHal Dickinsonの奥さんだったPaula Kellyが加わり5人の厚いハーモニーはいろいろな名盤を吹き込んでいました。HalとPaulaには3人の娘がいましたが、1978年にPaulaが引退し次女のPaula Jr.が後を継ぎ、ついこの間まで2世代目のモダネアーズを引っ張ってきました。4年前に昔プラターズで歌っていたElmer Hopperというコーラス男から「クニサン、ポーラ・ケリーを知っているだろ?お前さんに紹介したい」とメールが来ました。

Paula Kelly Jr.(1944-2012)

知っているに決まっています。それじゃモダネアーズのページは英訳しておかないといけません。すぐに英語のページが出来ました。それをPaulaは見てくれて、喜んでメールをくれました。「日本に来る機会はないのか?」というと「行きたいに決まってるじゃない」と返事が来ました。彼女はカッパの3つ下です。会えないうちに死んでしまいました。まことに残念です。

 

モダネアーズの2010年のプロモーションビデオです。(2014/2/7・わかやま)


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