Editor's note 2013/12



皇帝ダリア
地上3M)

 年はオッフェンバックの歌劇「ホフマン物語」の当たり年のようだった。今もちょうど新国立劇場で、国内外の一流キャストを集めて5回の公演を開催中である。猛暑の夏場にも東京二期会のダブル・キャストによる4回の公演が、やはり新国立劇場で行われて評判を呼んだ。先月25日真夜中に、その初日(7月31日)組キャストによる演奏がNHKのBSプレミアムで放映された。多くの方が楽しまれたことだろう。私もその番組を録画し、何回も繰り返し見て感激し、老いの目をしばたたかせたものである。
 

 ぜ涙?この歌劇はオペレッタ風のつくりだから、オペラそのものに涙ぐむ要素はない。それでも感傷に陥ったのは、年寄りが自宅のテレビで見たせいである。劇場での観劇だったらこんなことはない。目も耳も舞台に集中して余念がない。ところが自宅でくつろぎながらテレビを見ていると、どうしたって集中力散漫になり、ついつい本筋以外のことまで思い出し、涙腺ゆるみ勝ちの老人はウルウルしてしまう・・・・・。

 えてみると、この「ホフマン物語」は初期の楽友会員にとっては懐かしい曲だ。今は昔、ボクが高校時代のことだからもう半世紀以上も前のことだが、特に「学生の合唱」は男声合唱の粋を集めたような曲で、バスが斜進行で進む中間部の「捧げよこの杯を!讃えよ!青春を!・・・」あたりに無類の快感がある。そこで学生の一人が「この屋の主(あるじ)・・・トラーラララ・・・」と酒場の亭主ルーテルに呼びかける短いソロを歌い出す。他の学生たちの先陣を切って「ビールだ、ワインだ。早く持ってこい!」とオダをあげるわけだが、それを伴さん(有雄・1期・当時大学1年・1985年7月20日没)が歌った。ご当人は真面目そのものだが、力めば力むほど日頃の地が出ておかしかった。伴さんの発音には周知のように強い九州・筑後の訛りがあった。だからffで最初の言葉にアクセントつけて歌うと「の屋のあるじ」と聞こえ、それがいかにも伴さんらしい迫力ある語感をかもし出し、思わず皆でその真似をしたり、替え歌(詞)を作ったりしてオチョクッタ。鬼の伴さんの照れ笑いが今でも目に浮かぶ。

 
学生の合唱

 れと対照的なのが、かの有名な「ホフマンの舟歌」。
その女声合唱用編曲版を美しい女子高生の方々が歌っていらっしゃいましたな。それをニキビ面の塾高生が眺め、聞き惚れている。やがて一人がクッチャン(楠田久泰さん・2期・1989年10月16日没)にそっと囁く。「あの前列左からx番目のお嬢さん、いいでしょ。ボクの初恋です」。

 
ホフマンの舟歌

クッチャン「初恋か。いいね。“Ewige Schönste”(永久の美)だ!」。何だか禅問答のようで誰にもその意味は分かるまい。分かっているのはクッチャンとボクだけだった筈である。

 は一気に跳んで、東西ドイツ統一の直後。ドレスデン国立歌劇場で若杉弘指揮による「ホフマン物語」が上演されていた。私は「バッハ探求の旅」の途中で、色々な予定が詰まっていたから、努めてそのポスターは無視して通り過ぎた。だがその後、市内でご当地の人たちの話を聞くに及び、無性に「若杉ホフマン」を観たくなった。

そもそもオペレッタは若杉さん(弘・3期・2009年7月21日没)、通称ピノちゃん好みのレパートリーではなかった筈で<この機会を逃すと又いつ観られるか分からない>という思いに駆られた。久しぶりに会って事情を聞きたくもなり、種々手を尽くして面会を試みた。が、あまりにも急だったので結局会えず、オペラを見ることもできぬままドイツを後にした。

その後、彼は05年から新国立劇場でタクトを振るうようになり、私も同劇場開設時の顧問として経営の一端に関わったご縁があるので、顔を合わす度に再演をお願いした。だが実現せぬまま遂に他界されてしまった。だから今は<彼ならここはこう演奏するだろう>なんて独り言呟きながら、他人の指揮で自らを慰めるしかない。

⇒ 印刷用フライヤー

 がフト感じた。人生の最円熟期を前に早世されてしまったピノちゃん、クッチャン、伴さんの諸先輩も、今は天国から日本に向かって盛大な拍手を送っておられるに違いない、と。時あたかも二期会は創立60周年、新国立劇場は開場15周年の祝いで大賑わい。オペラ好きだった彼等も、これをどんなにか喜んでいるだろう、と夢想したのだ。実際、日本のオペラ界は往時に比べて目覚ましい進歩を遂げた。特に指揮者と衣装スタッフ以外は全員日本人キャストによる二期会の「ホフマン物語」を観てそう思った。

 幅ったい事を言うようだが歌唱力・演技力共に50〜60年前の比ではない。かつてのように日本人が背伸びして西洋風を模した後進性はもう全く感じられない。曲中、オランピアという機械人形に扮したソプラノが歌うコロラトゥーラの超絶技巧を駆使したアリアを初めとし、独唱者たちの技量は真に見事で、既にして立派な国際水準のヴィルトゥオーソである。専属合唱団やオケの実力も同様で、後は晩年の若杉さんが力を注いだ、日本文化に根差した国産オペラが、次々に誕生するのを待つばかりである。ハード的にも、初台周辺はオペラのメッカとして、あらゆる種類のオペラを上演しうるに足る立派な設備と環境が整っている。 先が楽しみ、と言いたいところだが喜寿を迎えたコチトラにもう先はない。未来を担う楽人たちの活躍に、期待すること大である。(2013年12月7日・オザサ)


バンドネオン

ルゼンチンタンゴ早慶戦:11月1日に世にも珍しい「第1回アルゼンチンタンゴ早慶戦」というコンサートが開かれた。普通部時代から古典のタンゴに熱中し、大学ではKBRタンゴアンサンブルを率いてきた内田 宏という同級生からの案内がきた。「お前の家のそばでやるから聴きにきてくれ」という。そばじゃなくたって聴きに行きますよ。

今の若者たちは「タンゴという単語」を知らない。もちろん音楽も知らない。かろうじてタンゴというダンスがあることぐらいしか知らないという。

そんな具合で、慶應では1980年からタンゴアンサンブルに入ってくる学生はいなくなりました。他の大学も同様ですが早稲田大学だけ唯一の学生バンドが活動しています。部員は男女10名ばかり。ろくにバンドネオンが弾けなかった学生も大事に扱われて演奏できるる曲だけ、変わり番こにのこのこ出てくるといった調子です。

今時になって第1回の早慶ジョイントのタンゴコンサートとは、どういうことなんだろうと驚きます。とっくの昔にやっていて当然の話ではありませんか。ジャズのビッグバンドの世界では、慶應のライトミュージックと早稲田のハイソとが合同演奏会を昔からやっています。メンバーの交流もあります。

慶應は70代のシニアバンドと一世代か二世代若いジュニアバンドが出てきました。早稲田は現役ですから年の差が40年から50年です。何とも不思議な光景でした。


KBR Tango Emsemble(senior)

 
カミニート


KBR Tango Emsemble(junior)


Orchesta De Tango Waseda

 

このコンサートの予告記事を朝日新聞が書きました。それで、200名ばかりのチケットがあっという間に完売してしまいました。慶應のシニアバンドを率いる同級生の内田 宏は「わかやまぁ、早く来てくれないと良い席が・・」と心配しきりでした。ホールの両脇の袖に補助椅子を置いて何とかお客さんは座れました。

さて、このコンサートが終わり、今度は毎日新聞がタンゴ応援の記事を書きました。

 ンゴとの出会い:私たちが普通部生の頃、昭和20年代の後半から30年代の初めの頃です。ラジオではタンゴの番組が流れていました。藤村有弘が流暢なインチキ・スペイン語で「エキサルタンゴポルテーニヤヴェントダリエンセセンチメンタリーノ」なんて言うわけです。アルゼンチンタンゴやアルフレッド・ハウゼのコンチネンタルタンゴのレコードがかけられていました。当時はこのようなディスク・ジョッキーが流行りました。 ラ・クンパルシータを知らないものはいません。

この頃にタンゴに魅せられたのが内田 宏その人です。


Hiroshi Uchida

さて、1987年に私はブエノスアイレスに国際学会のため出かけました。ブエノスアイレスには有名なライブレストランCasa Blancaがありました。この日の出演者は誰だったと思いますか?


Yoshinori Yoneyama with Leopoldo Federico
何とレオポルト・フェデリコ楽団でした。私は生でタンゴを聴いたのは生まれて初めて。ラジオのタンゴは右の耳から入り左の耳から出て行ってしまったのですが、フェデリコ楽団の力強い迫力満点の演奏に、私は興奮してお尻が宙に浮いてしまいました。このバンドには日本人と思しきメンバーがレオポルドの隣でバンドネオンを演奏していました。案内してくれた方に尋ねると「日本人で米山義則という人」とのことです。18歳のときに単身アルゼンチンに渡り、バンドネオンをフリオ・アウマーダのもとで修行したという人でした。この時はレオポルドのバンドで活躍していました。日本にも毎年来ていました。渋谷のパルコホールに聴きに行ったことがあります。
米山さんとレオポルドの演奏している写真を見てください。語り合うようにして演奏します。二人の演奏はまさにセッションなんです。

「これでどうだぁ?」

「おー、そうだ、そうだ!いいぞ!」

感動的な光景でした。タンゴは情熱的と一言で言いますが、この演奏はジャズ好きのおじさんの横っ面を張り倒すような衝撃でした。ポロポロ涙がこぼれました。

米山さんは1955年生まれですが、2006年に若くして亡くなりました。私がブエノスアイレスで見に行ったときは弱冠31歳か32歳の頃だったのです。


議事堂(Buenos Aires)

 れから、90年代の初めに新進タンゴ歌手、ロベルト杉浦に出会いました。芝メルパルクホールでのタンゴコンサートに「間にジャズをはさんで」という主催者のアイディアで、どういうわけか私にお鉢が回ってきました。映画音楽から3曲歌えとのことでコンボであの広いステージでソロで歌いました。20年も前の話です。

ロベルトは名古屋の出身で大谷大学哲学科を卒業するかどうかの頃だったと思います。いまでも変わりませんが、可愛らしくて生意気な坊やでした。「この男はタンゴに命を賭けておるワイ」と思いました。現在は中南米を根城にタンゴとメキシカンボレロを中心にラテンの歌を歌ってテレビにも出演し、あちらの人気者になっています。年に1度は日本ツアーをやっています。今年も11月から12月にかけて帰国します。12月2日に会ってきました。黙ってチケットを取っておいたもので、ロベルトはサプライズでした。

彼の紹介ページがあります。 ⇒ ロベルト杉浦

 さん、最後に音楽はジャンルではありません。超一流の演奏者や歌手の演奏や歌を生で聴いてください。クラシックやジャズだけではありません。オペラやミュージカルだけではありません。タンゴにもラテン音楽にもシャンソンにもジプシー音楽にも人の心をゆさぶるような名曲や名演奏が沢山あります。(かっぱ・13/12/07)


FEST