Editor's note 2013/6


花の女王「牡丹」

 5月9日に岡田忠彦先生は米寿(88歳の賀)を迎えられた。そこで5月26日(日)午後に楽友三田会のシニアメンバーが日吉の協生館に集い、先生ご夫妻を囲んで和やかな小ぢんまりとした「祝賀会」を催した。残念ながら私は当日出席できなかったので、ここに「楽友」の誌上参加という形でささやかな祝意をお捧げしたい。
 

 先生は国立(音大)ご卒業と同時に塾高の音楽教諭に就任された。それは戦後の学制改革で発足した新制高校創立の年だから1948年、つまり今から65年も前のことになる。時に先生23歳。それが社会人として、また、今日に続く長い楽友会人生へのスタートの時でいらした。

当時は敗戦後の混乱未だ収まらぬ時代ではあったが、塾高には多くの逸材が集まっていた。いち早く演劇部が結成され、英語教師・加藤道夫部長の下に林光・峰岸壮一・日下武史・浅利慶太(日下・浅利両兄は後に「劇団四季」を創設)等の諸兄が集い、やがてそこから林光・峰岸壮一両兄は別れて伊藤毅・小林亜星・小森昭宏といった諸兄と相図って楽友会の前身である音楽愛好会を発足させ、会長に音楽の新任教師・岡田先生を戴いた。こうした偉名の連なる塾高は、あたかも戦後日本の演劇・音楽界を背負って立つ文化人のインキュベーターのようだった。日吉の丘には、意気盛んな若き血が燃えたぎっていたのである。

 その頃の岡田先生について、昨年末他界された中野博詞兄(2期)は次のように記しておられる。

(前略)そう、たしかあの時は僕が愛好会に入って、始めての演奏会(編注:50年5月に女子高校との混声合唱団が結成され、6月18日に合同で初出演した日比谷公会堂での「合唱祭」のこと。上演曲はモーツァルトの「グローリア」とドイツ民謡「走れ駒」)の練習に励んでいた時だった。ともかく入ったばかりなので友人もなく、愛好会のこともよく知っていなかった頃です。発表会も近づいたある日、例のように三田にグローリアの練習に行った時のことです。ひと練習終わってホッと一休みという時に、僕達は息抜きに中等部の体育館で(危ない事とは知りながら)ソフトボールを始めたのです。しかし間もなく愉快なキャッチボールもボクの一球によって悲劇と変じてしまったのです。そう、僕の球が高く外れて後ろの化学室のガラスに運悪くぶつかってしまったのです。あの時のガチャンという音、またそれと共に女生徒の驚きの声!今でも思い出すとゾッとします。私はどうしたらよいか困ってしまいました。しかし親切な上級生は僕と一緒に事務室に行ってくれました。事務の人の答えは簡単で「自分で入れといてください」との事。そこで僕は硝子屋に飛んで行ったのだが「すぐには入れられない」と簡単に断られてしまった。僕は仕方なしに最後の意を決し、岡田先生に全て話すことにした。ふだんから<こわい>と思っている先生の顔がこの日は特にこわいように感じられた。あの眼鏡の中からギョロッとにらむ目が何と云ってもこわかった。が、思い切って話すと先生はチョット考えてから「よしそれなら僕が入れておこう」と云われた。このただの一言が、私にとってはどんなに嬉しかったことか分からなかった。なにか本当の愛好会に接したような気がした。私は愛好会がこんなすばらしい会だということを知らなかった。それと共になにか自分の日々の行動が恥ずかしいようにも感じられた。またいつもはこわい岡田先生も本当によい先生だとも感じた。なんだか本当に人情のある人々のグループに入ったように感じられた。音楽によって心底からとけ合った美しい愛のグループに自分が入っていることを嬉しく感じた。このあたたかいグループの中で後2年間、思い切って仕事ができるかと思うと嬉しくてたまらない。またそれと共に、卒業される方々は、なにか気の毒のようにも感じられる。(「楽友」創刊号/51年3月3日発行より)

 続く「楽友」誌第2号(51年8月25日発行)の「おしらせ」コーナーに、数々の行事予定に並んで次の記事が出た。

岡田先生の御結婚――愛好会々長の岡田先生は去る5月18日、内海茂子さん(自由学園御卒業)と御結婚なさった。混声合唱団一同からは練習の時にお祝いの品を差し上げた。新居は世田谷区北沢・・・。

先生の体形は今も昔もほとんどお変わりない。スマートな長身とハンサムな風貌。それにオシャレな鳥打帽と蝶ネクタイのスタイルがピタリと決まる。そのうえ指揮ぶりがカッコいいから、音大時代からさぞオモテになったに違いない。だが88歳の今日まで、少なくとも口さがない楽友会雀の間で、浮いた噂一つ立ったことがない!もちろんそれは先生の高潔な人格のしからしむるところだが、それに与って力のあったのが茂子賢夫人の存在、と云うことで衆目は一致している。

早婚でいらしたからお二人の新婚時代は楽友会草創期と重なる。その故に奥様の楽友会への思いは先生への思いと共に一入である。一方、特に会友たちにとって「先生」は年齢的にほとんど隔たりがない「兄貴」のような存在だったから、「奥様」は「姐御」である。そこで彼らは事あるごとに一升瓶をぶら下げて先生宅に押しかけ、奥様の手料理に舌鼓を打ちながら、気安く深更まで座談に興じたそうだ。何とも羨ましい、現代では想像もできないおおらかな師弟交歓の風景である。奥様は新婚早々さぞ大変でいらしただろうが、先生がご機嫌で「ワッハッハッハ」と呵々大笑されるお姿も目に浮かぶ。その後ご夫妻はお2人のお子様に恵まれたが、楽友会に注がれる情熱は変わらず、むしろ年々いや増し続けたのである。


初合宿に向かう岡田先生一行(51年夏男声のみ・温海温泉から鶴岡市へ)

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同上(NHK鶴岡放送局から放送・前列は同局女声合唱団・後列左から3番目は担当の小川宏アナ)

★ 上の中野文で、岡田先生が学校で<こわい>と思われていたのはその若さゆえの緊張感が、表情に表れていたからではなかったか。何しろ生徒は思春期、反抗期の真っ盛りで、旧制高校の蛮カラ気風を受け継いだ男子高校生ばかり、その数1学年約900名が相手である。いかに穏健な楽友会生徒といえども羽目を外すと大変だ。例えば「楽友会」の初合宿(編注:52年8月5〜12日の夏休み、男声のみ22名が山形県温海温泉で合宿し、鶴岡市公民館で(NHK)鶴岡放送局(女声)合唱団との合同演奏会に出演した)ではこんなことがあった。

10日の深夜、翌日に演奏会を控えているにもかかわらず学生たちはゲームに打ち興じ、大騒ぎしていた。そこへ「静かにしなきゃ(16分休止)メじゃないか」、と先生の雷が落ちた。(「楽友」新・創刊号/「庄内紀行・1期・長谷川洋也著」/52年11月6日発行より)

その翌年も合宿地に雷鳴が響いた。この年は女子高生の初参加も叶い、総員65名が8月2日から8日迄、静かな猪苗代湖畔・翁島の旧高松宮別邸と小学校で練習に明け暮れ、9日の最終日には会津若松市に移動して公会堂での演奏会に臨んだ。そしてその晩は東山温泉・天亀旅館に宿泊。皆は演奏会の興奮さめやらぬまま湯につかり、たらふくご馳走を頂き、翌日は帰京するだけということで就寝時刻の自主規制も解除し、皆は思う存分羽を伸ばし、歌い、食らい、喋り、麻雀したりで久しぶりに自由を満喫していた(と云っても高校生と女声が多かったので、さすがに飲酒する者はいなかった)。


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― 第2回合宿 ―
(52年夏・女声初参加・翁島の旧高松宮別邸。最終日は会津若松市内で演奏会の後、東山温泉泊)

その内、男声の悪童連が台所から胡椒瓶を持ち出し、部屋にそれを撒き散らし始めたからたまらない。旅館中で大騒ぎが始まった。そこへ「岡田先生が来られる」との情報が伝わり、一同はたちまちタヌキ寝入りを決めこんだ。だが先生はそんなことでは騙されない。「誰だ、悪さをしたのは、みんな、起キィー!!!」と大音声で野郎どもを叩き起こし、こんこんとその非を諭された。しばらくお説教は続いたが、皆は正座して首うなだれるばかりだった。(「楽友」新・第3号/「会津紀行・1期・長谷川洋也著」/53年11月3日発行より)


 この長谷川兄の合宿紀行文は毎回「メデタシ、メデタシ」で終わった。それはつまり、皆が合宿の成果に満足し、無事に帰宅できたことの証しである。そのことを最も喜んでおられたのは岡田先生ご夫妻だったろう。思えば学校教師・課外活動の部長・練習指導者・演奏指揮者という4役兼務は大変な重責であった。しかるに、どの会計報告にも先生への謝礼の記載はなかった。

つまり先生は、何の報酬を期待することなく、楽友会活動に心血を注がれたのだ。大変な持ち出しとなっていたことだろう。現在でも、いかなる会合―演奏会や新年会等々―に先生ご夫妻をご招待しても、必ず奥様から感謝のお言葉と共に金一封がそっと受付に渡される。何という謙虚さ、あたたかいご配慮、そして気高い師の愛なのであろうか。

こうしたご夫妻一如の師恩のお陰で今日の楽友会があり、我々の今日がある。どんな言葉も及ばない位の感謝をお捧げしたい、と思っていた。しかし「米寿祝賀会」の後の電話で、そんな私の思いは、奥様の次のようなお言葉で勢いよく跳ね返されてしまった。

「いいえ、私たちこそ皆様にこんなに祝って頂いて本当に幸せです。楽友の皆様が本当に立派で、確りしていらっしゃるから、楽友会もこんなに発展しました。お蔭様で私たちも元気を頂いています。これからもできるだけ長生きして、皆様と共に喜びを分かちあいたいと思います。よろしくネ」。

先生の人生88年、楽友会創立65年、先生ご夫妻のおしどり夫婦生活62年、楽友三田会最長老会員の年齢82歳・・・お互いにこれからも頑張って行きましょう!!!
(オザサ/6月7日)


Os Cariocas

ブラジルのコーラスブラジル、リオデジャネイロで1942年にOs Cariocasというグループができました。実はそのグループがまだ続いているのです。

このLPジャケットの写真を見て「おー、フォーフレッシュメンだ!」って誰もが思います。

フレッシュメンは1948年に結成ですから、その6年も前に結成されているのです。
 

ところがサウンドを聴いてびっくりします。本当にフレッシュメンとそっくりのアレンジでテンションコードを歌います。ブラジルにはアントニオ・カルロス・ジョビンが新しいリズムとサウンドをもたらしました。「新しい潮流(Bossa Nova)」です。テンションコードを多用するところがそっくりなのです。

結成された頃のレコードのことはわかりません。何時の頃からかモダンなハーモニーで歌うようになったのでしょう。

テンションコードとは9音や11音まで、さらには13音まで重ねます。音が半音や1音でぶつかります。いうまでもなく不協和音です。ですから奇妙な響きがするのです。協和音は音の周波数が簡単な整数比である必要があります。ドミソは周波数比が4:5:6です。


Os Cariocas「われわれは魂で歌います」と書いてあります

これは2011年現在のメンバーです。2010年のいつごろだったか、ある後輩が突然、

「オス・カリオカスって知ってる?ブラジルのグループで凄いんだ」

「知らないなぁ」

わたしは見たことも聴いたこともありません。それで、家に帰ってからCDの棚を見てみたところ、変なものが出てきました。
 

「何だこれは?」・・・ 一度も聴いたことがないCDです。買った記憶もありません。誰かがコーラスのCDだから買って持ってきたのかも。自分で注文して忘れることも度々、そろそろアルツが始まったかと思うことがあります。

たった1曲のために10数曲も入っているCDやらLPを昔の人は何の抵抗もなく買ったものです。 それで、お目当ての曲だけ聴いて他は忘れ去っているのです。今の若い人はそういう趣味はないそうです。ほしい曲だけ買うのだそうです。ネットからダウンロードするのです。彼らは経済性には優れています。
 

われわれのような爺さまは、そういう無駄をして音楽産業に御奉公してきました。お陰さまで、お宝のようなLPやCDがごろごろとあります。何年も何十年も経ってから、いいものを見つけることになるのです。夢があるのです。

では、1曲「イパネマの娘」を聴いてみてください。

⇒ Garota De Ipanema by Os Cariocas
 

Os Cariocasとお友達にポルトガル語ですから俄かに意味は分かりませんが、Verse(前歌)らしきものが歌われています。わからないと余計に知りたくなります。そこで、Os Cariocasに「あれは何ですか?」とメールを書いてやりました。そうしたら3rdボイスを歌うNeil Teixeiraから返事が来ました。

Tom Jobimとはアントニオ・カルロス・ジョビン、Joao Gillbertoはジョビンの歌を歌い広めたボサノバの神様と呼ばれた男、ジョアン・ジルベルト(自分勝手な男だからアメリカからお呼びがかからなくなった。かっぱも同じ理由で人間として認めていない。神様の積もりでいるらしい)。Vinicius de Moraesは原曲のポル語の詞を書いた作詞家ヴィシウス・デモライスです。因みに英語の歌詞を書いたのはNorman Gimbelです。

In 1962, Rio de Janeiro, “Os Cariocas” had an important participation in the memorable show “O Encontro” (The Meeting) with Tom Jobim, Joao Gilberto and Vinicius de Moraes, at the night-club “Au Bon Gourmet” In Copacabana, which marked the real beginning of the bossa-nova style. It was in this show that most of Tom Jobim’s hits were first performed. The girl from Ipanema had this introduction:

<Joao Gilberto>  One of this was The Girl of Ipanema with this introduction.

Tom e se voce fizesse agora uma cancao
Que possa nos dizer, contar o que e o amor

<Tom Jobim>

Olha Joaozinho, eu nao saberia
Sem Vinicius pra fazer a poesia

<Vinicius de Morais>

Para essa cancao se realizar
Quem dera o Joao para cantar

<Joao Gilberto>

Ah! mas quem sou eu
Eu sou mais voces
Melhor se nos cantassemos os tres.

Thanks.
Os Cariocas

という返信です。 

「イパネマの娘」が初めて歌われたBosa Nova誕生の歴史的ライブでのIntroなのです。驚きました。何でも聞いてみると分かるのです。地球の裏側からの返信です。(2013/6/7・かっぱ)