Editor's note 2013/3

梅にめじろ

 このところ立て続けにTVでいい映画を観る。今回は「フラガール」。06年9月公開の作品だが、内容は50年代に始まる石炭不況で76年に閉山する常磐炭鉱(現・福島県いわき市)と、その厳しい現実に立ち向かい「常磐ハワイアンセンター(現スパ・リゾート・ハワイアンズ)」を建設し、自らの手で新時代を開拓した人たちの実話物語。
 

 
バッキー白片とアロハハワイアンズ
 
映画のチラシ

日本におけるハワイアンそのものの歴史は古く、ハワイ出身の灰田勝彦(1911-82)やバッキー白片(1912-94)両氏が戦前から紹介し、戦時中断したものの、戦後すぐに「バッキー白片とアロハ・ハワイアンズ」が活動を開始。南国情緒豊かな、例えば♪Aloha 'Oe♪等の名曲は、「NHKのど自慢」でも歌われるみんなの愛唱歌となっていた・・・

 そして1959年、ハワイがアメリカ合衆国50番目の州となる。その話題でハワイアン・ブームに火がつき、新婚旅行でハワイに行く人々も激増し、「常夏の国ハワイ」人気は天井知らず。それに便乗し、塾に「フラガール」ならぬ「ハワイアンガール」が誕生した。余談になるが、グループ名は“South Sea Flowers”。主たるメンバーに楽友会6期の矢住、岡、吉田、宮田(何れも当時の姓)の諸嬢がいた。その花も恥じらう(当時)乙女たちが、何とも派手なアロハを着てウクレレ片手に舞台に飛び出し♪Beyond the reaf・・・♪などと弾き歌う。それが大受けで彼女たちは一躍全校に隠れも無き大スターとなり、あちこちのサークルやゼミから出演依頼が殺到。夜な夜な当時はやりの学内ダンス・パーティのFlowersとなった。そして、いつしか授業に出(られ)なくなり、楽友会とも疎遠になり・・・で、名簿上一応6期になってはいるが、実際に卒業したのかどうか?それが気になって先日確認したら「皆チャンと卒業したわよ!卒業年度は塾監局が柔軟に対応してくれたの。KEIOってほんとにいい学校!」ということだった。

 ここから映画本論に戻るつもりだったが、カッパから「須藤君(9期)がたくさん良い写真を送ってくれた。それで『楽友』に新しいページを作ったから見といて」という連絡が入った。それで早速拝見したら、何とそこに野本君(7期)がウクレレを手にして悦に入っている写真(狭山湖ハイキング/62年)があった。で、このまま脱線が続く。といっても映画の背景理解にはなるだろう。

実はその頃、ボクもウクレレを手放せなかった。ある重電機メーカーの人事部に配属されたばかりだったが、学生時代音楽に熱中していたことは知られており、入社早々、大先輩から社内のハワイアン・クラブでヴォーカル兼ウクレレ伴奏をやれ、と強要された。「ウクレレなんて弾けません」と一度は断ったのだが「世の中こんな簡単な楽器はない。誰でもすぐ使えるようになる」と云われ、逆らえなかった。やってみると確かに簡単で、アッという間に20曲位の定番が身につき、そのままウクレレ、というよりもハワイアンに魅せられ、のめりこんだ。すると次に所属長から、本社合唱団の指揮もやれと云われた。一種の業務命令だ。音楽をやるために入社したわけではないのに、なぜそんな役回りになるのか不思議に思ったが、やがてそれは会社の労務管理施策の一つで、つまり仕事の一部ということが分かった。

当時の日本では音楽も2種に色分けされていた。ハワイアン、ジャズ、クラシックは経営者や管理者が支持する音楽だが、労働組合員や過激派学生たちはこれを「米帝国主義」あるいは「資本主義体制」の音楽として排斥し、ロシア民謡や♪聞け 万国の労働者♪といったメーデー歌や労働歌を高唱した。クラシックでもロシア5人組を初めとする民族主義音楽に偏向した。これ等いわゆる「アカの音楽」は、急進する労働運動と共に、雨後のタケノコのように誕生した各地の「うたごえ喫茶・酒場」や労組の集会で盛んになり、大きなコンサートは会員数60万人余に膨れあがった「労音(勤労者音楽協議会の略称)」が牛耳るようになっていた。そうした趨勢に棹さし、体制を維持するために「日経連(日本経営者団体連盟)」は傘下企業に対し、実業団スポーツ・チームや社内ハワイアン・クラブ、あるいは穏健な合唱団の育成と支援に力を注ぐよう、強力に勧奨したのである。


 
 
 
 

 そんなこんなを想起しながら「フラガール」を観ていたら、つくづく「常磐ハワイアンセンター」を創設した人たちが偉く思えてきた。そりゃ閉山となれば沢山の失業者が出るし、周辺の町も廃れる。皆が必死に失業者救済や地域生き残り策を考えるのは当然だ。労組は赤旗立てて「首切りハンターイ」を叫び、労働歌を歌ってストライキをあおる。だが、そんなことで時代の歯車を逆転させることはできない。

そこでハワイ⇒ハワイアン⇒フラガールの連想で奇抜なアイディアが浮上した。すごい反発や反対を受けただろう。しかし、きっと大した知恵者がいたに違いない。それまで石炭採掘の障害となっていた豊富な地下水(温泉)を利用して大温泉郷を造成する。そして日本初のハワイアンセンターを建設し、新たな客層を開拓する。炭鉱の黒ずんだイメージは、南国フラガール(ダンサー)の群舞で明るいイメージに一新する・・・といった企画を次々実行に移し、逆転の発想として世間の注目を浴びた。それで、マスコミも大々的に報道する大騒ぎとなり、66年開業以来、事業はすばらしく発展した。不幸にして3・11の大災害で1年近く休業を余儀なくされたが、昨年2月、見事に営業を再開した。

ちなみにこの映画は、第80回キネマ旬報ベストテン・邦画第1位、第30回日本アカデミー賞・最優秀作品賞を獲得した(06年)。そして被災後の状況を11年末に「がんばっぺ フラガール」と題する続編で公開した。現地へは東京から高速バスで約3時間、無料の送迎バスもある。ぜひ皆で応援しに行こう!
(参照:⇒2月27日付朝日・夕刊広告

 ここまで書き進んだところでカミサンの「行ってきまーす」という声が聞こえた。きっとフラダンスの練習に行くのだ。<若さを保つとてもいい運動>ということで、同年輩のコーラス仲間と一緒らしい。共に手を振り腰をくねらせ、夏には「夢の島・熱帯植物園」でヤシの木をバックに演舞するというから図々しい。この人たちの事を何と云おうか。「フラバーバ」?(笑)。でも、映画の「フラガール」たちも、今は皆バーバだ。それでも元気にフラダンス!女性はいつまでも元気でいいなぁ(涙)。(オザサ/3月7日)


 MCの元祖は小島正雄その歴史70年という老舗バンドにブルー・コーツがあります。戦前のフラタニティ・シンコペーターズが前身です。

「味の素ミュージックレストラン」という番組がありました。1951年に開局直後のラジオ東京(現TBS)で毎週水曜日の夜に放送されましたが、この当時のブルーコーツでナンシー梅木がよく歌っていました。同じように笈田敏夫も専属歌手となりました。
 

1953年に日本テレビが開局し「味の素ミュージックレストラン」という「ジャズのど競べ」が放送されるようになり、間もなく、トランペットの小島正雄さんが司会専業となりました。MCという言葉が出来たのはこんな頃だそうです。

それまでの司会者は、ミュージシャンを「さん付け」で呼んだものです。歯の浮くようなお世辞もたらたら述べる司会者がうようよしている時、小島さんは全くスタンスが違っていました。


小島正雄(1913-1968)

「これから、ナンシー梅木が歌います」

といった具合です。出てくるミュージシャンは小島商店での「商品」なんです。自分の身内に「さん」なんてつけることはありません。

司会がコンサートや番組を取り仕切るマスター・オブ・セレモニーという地位を確立しました。

こちら側は1つ、あちら側はお客様というわけです。

小島さんは11PMの司会者となり、そのソフトな話し口とベストドレッサーの紳士としてお茶の間の人気者となったことを覚えていますか。68年1月に54歳で急死しましたから、66年4月からたった1年8ヶ月でした。イレブンというと巨泉しか思い出さない人が多いです。

最近、何かおかしいのです。同級生同士で「XXさん」と呼んでいるのです。呼び捨てでいいだろ!気持ち悪くてしようがありません。

わが編集部はオザサにカッパ、互に呼び捨てです。
 

 オルフェアンズ・パーティのアホ司会さて、時代は変わってちょっとだけ新しい話です。ブルーコーツの創始者、長尾正士さんが1998年に再結成したオルフェアンズのディナー・パーティが2002年に皇居前パレスホテルで開催さた時の事件です。

オルフェアンズのパーティでは専属歌手の芝小路豊和さんが必ず歌いました。


長尾正士とThe Orpheans,2002

この日のパーティでは、ある高級会員制クラブの支配人が司会を買って出たのですが、お口は上手に回る人でした。

ところが、芝小路さんが登場する段になって、

「それでは〜、しば・・こうじさん!」

わたし仰け反りました。このアホ司会者は「姓はシバ、名がコウジ」だと思っていたのです。彼にはBaron Shibakojiを知る由もありません。ただ、人が「しばこうじさん」と呼んでいるのを、耳で聞いただけなのです。

私は自分の教え子たちに「耳で聞いたことは、文字で書かれた書物で確かめろ」と教えてきました。

この写真で後列向かって左端が芝小路豊和さんです。前列中央が長尾正士さん、長尾さんの隣、右から2人目はライトミュージック・ソサイエティの創設者、高浜哲郎さんです。高浜さんは健在で時々、幼稚舎OBの老人会でお会いします。一番右が2年前11月の編集ノートで紹介した芦田ヤスシさんです。

この日は司会者のおかげで不愉快な夜になってしまいました。これには主催者の長尾 崇さん(長尾さんの息子、楽友会なら6期)は参ってしまいました。2年後のパーティには、かっぱのグループOZ SONSもゲストで歌わされれましたが、司会は鈴木治彦アナウンサーでした。ユーモアたっぷりの紹介をしてくれました。これは、気持ちよかったです。事前に私達にプロフィールをちゃんと聞いてメモを取っていました。名前のフリガナも「文字」で書いてありますから間違うことありません。
 


世良 譲(1932-2004)

 世良 譲追悼コンサートのバカ司会世良さんが亡くなって4ヵ月後に追悼コンサートが品川プリンスホテルで開かれました。世良さんにゆかりの深いミュージシャンが30人ほどステージに立ちました。OZ SONSは素人で唯一出演者に名を連らねました。

さて、この厳粛な追悼コンサートに「牧XXとかいう司会業者」が出てきました。

誰が彼を指名したのか全く知りませんが、下らんことをよく喋る司会でした。どんどん時間が経ちます。ただでさえ次々と歌手とバンドが入れ替わりますから上手く進行してもらわないといけません。その進行役が一人でくちゃくちゃ喋りまくって、われわれの予定時間は50分以上遅れてしまいました。 私たちの後に出演する大先輩の北村英治さんがモニターTVを眺めながら初めは笑っていましたが、ついに「これはひどいねぇ」とつぶやきました。

この男はバカ司会者の見本です。

でも、追悼コンサートが全て終わって、世良ママの一言、

「あなた達が一番心がこもっていたわ」

当たり前です。世良さんが一番好きだった歌は”Mr. Wonderful”という歌です。私たちはこの歌をこの日のために編曲して、大事にしてくれた世良さんにささげて歌ったのです。プロたちは自分が普段歌っている持ち歌を歌っているだけです。面白くもおかしくもない。

スペシャルな時に肝心の出し物が普段着のままとは・・・それでいて「アーティスト」なんて抜かすのだから、もう、使う言葉が無くなったワイ。
 


鈴木治彦アナウンサー

 鈴木治彦アナウンサーはMC昨年、沢村美司子の妹の沢村まみのイヤー・コンサートがありました。かっぱが面倒見ている女声ジャズ合唱団からバックコーラスに6人を送り込みました。姉妹の兄は作曲家の中島安敏ですが、立派だったと喜んでくれました。

司会は鈴木治彦さんでした。まみちゃんはコンサートで一番重要なのは司会者だという事がわかっていたのでしょう。まみちゃん、お前さんは偉いよ。

 付記鈴木治彦さんは昭和4年生まれ、経済学部卒の塾員。著書「鈴木治彦の結婚司会術」永岡書店は司会の台本からアイディア満載。結婚式に限らない。司会者には是非読ませてください。

推薦のことばは、池田弥三郎先生です。

主幹が書いたバッキーさんには4人の息子がいて、アロハ・ハワイアンズはまだ細々と生きています。特に三男の茂とは古い付き合いで、9年前の還暦祝いに私の親父が着た赤いちゃんちゃんこを着せました。(かっぱ・2013/3/7)


白片 茂
  


親子バンド
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