Editor's note 2013/2

寒椿(1月15日)

 

 

 正月TVで「天使にラブ・ソングを 2(Sister Act 2)」を観た。同じ題名の前作はかなり前に観たが、今になってその続編があると知った。もっと早く観ていれば、私も今頃は山野井さん(参照:「リレー随筆」♪ Sing in Unity, Live in Peace ♪)と一緒にゴスペルを歌っていたかもしれない、ン?
 


Sister Act 2

 この映画は92年に封切られた前作が、6か月のロングランを記録する大ヒットとなったので、その勢いに乗じて翌年制作・上映されたということだ。従って修道女(Sister)、聖歌隊、貧しい人たちの吹き溜まりといった筋立てと俳優は前作とほぼ同じ。変わったのは、舞台がネバダ州の修道院からサンフランシスコの聖フランシス高校に、修道女たちがそこの教育に献身している、といった事くらいである。

その学校の生徒たちの荒れ様がすさまじく、修道女たちの手に負えないところからこの映画が始まる。そこで、前作で主役を務めたウーピー・ゴールドバーグ演じるシスター・メアリー・クラレンスの再登場となる。
 


Woopi Goldberg
彼女は既に修道院を出て、ラスベガスでシンガーとして活躍していたが、お世話になった修道院長の頼み、また自分の出身校のことなので放ってはおけない。再び修道服に着替え、母校の音楽教師となる。だが、さすがの彼女も持て余していたところで学校閉鎖の話を聞いた。<そうはさせない>と一念発起。

「聖歌隊(Choir)なんか」と嫌がる生徒たちをなだめすかして隊員にし、ゴスペル風にアレンジした聖歌で各人の才能をひき立て、歌と踊りを共にする喜びで共同体意識を高め、ついには州の合唱大会で優勝して学校を閉鎖から救う、ということで物語は終わる。

「天使にラブ・ソングを」という和訳タイトルは意味不明だが、出演者多数がアフリカ系なので、まるでブラック・ミュージックの見本市だ。ビートに乗せてリズミカルに抑揚をつけ、叫ぶように歌いかつ踊る(break dancing)姿は、地味な「祈りと労働(ora et labora)」に明け暮れる白人シスターや保守的な支配層には当初強い違和感を与える。だが、いつしかかれ等もその若者たちの輪に加わり連帯する・・・。 

 ちょうどこの映画がTV放映された頃、オバマ氏は史上初の黒人大統領として再選を果たした。だから余計そう感じたのかもしれないが、アメリカという国はやはり凄い、すばらしい!と思った。


学問のすゝめ (初版)

それはかつて福澤先生が「西洋事情」で「天ノ人ヲ生スルハ(all men are created equal, that they endowed by their Creator)・・・云々」と全文を翻訳して紹介し、「学問のすすめ(1872年初版)」でさらに「天は人の上に人を造らず・・・云々」と敷衍し、日本中に普及させたあの有名なアメリカ「独立宣言(1776年)」の趣旨を尊重し、皆で守り育てていこうとするアメリカ人共通の心意気である。後で調べたら、この続編の監督はビル・デュークという人で、アメリカ映画史上初の黒人監督として起用されたそうだ。となると、ますますこの映画には<万民平等>の思想が色濃く塗りこめられていると思っていいだろう。

オリンピック等で黒人選手の活躍が目立ち、タクシーに乗れば大概が黒人運転手で、大統領まで黒人となれば、アメリカは既に黒人が多数を占める国家になったかと思う。だが、アフリカ系=黒人が全人口に占める割合は12〜13%に過ぎず、未だに少数派(minority)である。この映画には黒人の他、そうした少数派が多種混在している。修道女(カトリック)、ヒスパニック、東洋系といった人たちがみなそうだ。音楽的にも文化的にもゴスペル、ラップ、ヒップ・ホップなどは、少なくともこの映画が作られた90年代前半には少数派で、そうした用語すらピンとこないアメリカ人が大半だったろう

だが今はそうしたカルチャーがアメリカの主流となり、日本はもとより保守的なフランスやイギリス、あるいはかつての仮想敵国ロシアの若者たちにまで浸透している。アメリカは正しく<万民平等>の生きた見本となっているのだ。

 音楽がその結束に果たしてきた役割は大きい。先鞭をつけたのはガーシュイン(G. Gershwin/1898〜1937)であろう。「ラプソディー・イン・ブルー」や「パリのアメリカ人」が有名だが、ジャズ興隆期に生きた人だけあって、ジャズとクラシック音楽を融合させた作品は画期的で、新興国アメリカならではのユニークな音楽基盤を築いた。その延長線上にあるのがバーンスタイン(L. Bernstein/1918〜1990)だ。

George Gershwin
Leonard Bernstein

共にユダヤ系マイノリティーだが、その二人がアメリカを代表するマエストロとして定評を得たのだから面白い。逆にいえばアメリカ人はそこにアメリカ人としてのアイデンティティを見出したのであろう。バーンスタインはガーシュインに倣ってミュージカルに力を注ぎ、後に映画にもなった「ウエスト・サイド物語」の作曲者として名を上げたが、後半生では指揮者として世界を駆け巡り、各地の名門オーケストラを指揮しつつ、後進の育成に力を注いだ。日本人では小澤征爾、大植英次、佐渡裕の各氏が薫陶を受けた。また、あまり知られていないが、最近の大学現役が定期演奏会のメイン・ステージに据える「シアター・ピース」という楽曲スタイルは、この人が自作の「ミサ曲(1971/ Mass - A theatre piece for singers, dancers, and players)」に用いたのが最初である。これを含め宗教曲も多数残しているが、何れも従来の形にとらわれない自由な曲想で書かれていて新鮮だ。ただリズムが特異で、クラシック育ちの感覚だけでは歌えない。どうしてもジャズのフィーリングを必要とするところがミソである。

 バーンスタインはその死の前年―1989年のクリスマスに、ベルリンでベートーヴェンの「第九(合唱付き)」を上演・指揮した。「ベルリンの壁崩壊」を記念する音楽会ということで、楽員は東西ドイツ、アメリカ、ソ連、フランス、イギリスからの国際チームで編成され、第4楽章の歌詞“Freude(歓喜)”は“Freiheit(自由)”に変えて演奏された。そのことを「天使にラブ・ソングを 2」の制作者たちも知っていたのだろうか?何と、この映画のフィナーレも「第九・合唱」のメロディーで飾られた。といっても原曲そのままではない。映画に用いられたのはアメリカで1911年に発行された“Presbyterian Hymnal”という長老教会(プロテスタント系)用の讃美歌集に載ったもので、ベートーヴェンの原曲を万人向けに圧縮し、歌詞もシラーの原詩とは別の創作詩になっている。

それが合唱大会の大詰めで形を変えて2回歌われる。最初は裕福な家庭の子弟とおぼしき白人多数の大聖歌隊が、立派な制服を着て整然と登場。“Joyful, Joyful, we adore Thee・・・”とオーソドックスな合唱用編曲で堂々と歌って会場を厳粛な雰囲気で満たす。それを舞台脇で見ていた聖フランシス校の面々は<もうダメだ、とてもかなわない>と諦めかける。そこへシスター・クラレンスから「みんな制服を脱いで普段着になりなさい」という指令が届く。そこで皆リラックスした表情になり、平服で歌いながらバラバラに登場していく。その姿は前者とは対照的で、個人技も目立つし、ふしだらでだらしなく見える。だが、ソリストの熱唱と身ぶりには全身全霊をもって訴えかける迫力があり、その他の隊員たちの動作とハーモニーも素朴な感情表現として新鮮な魅力がある。聴衆はいつしか恍惚の渦に巻きこまれていく・・・。

審査結果は?伝統的なスタイルで見事な演奏をした前者がもちろん第1位!だがその上に「優勝」というランクがあった!そして同じ讃美歌をゴスペルとして熱唱した聖フランシス校にその栄誉が輝いたのだ。メデタシ、メデタシ!    (2月7日・オザサ)

 Tin Pan Alley1890年代半ばからポピュラー音楽の作曲家や作詞家を抱えた軽音楽出版ビジネスが盛んになり、ニューヨークのブロードウェイと6th Avenueの間の西28番街の一帯にこういう出版社が沢山集まってきました。

各店には、楽譜のデモンストレーションのためにピアノがおいてあり、夏になると窓が開けっ放しですから、それこそ錫鍋を叩き鳴らすような騒音の街だったといいます。

Monroe H. Rosenfeldという新聞作家が”Tin Pan Alley”(錫鍋横丁)と名付けて、1902年に新聞の記事にはじめて書きました。

ティンパンアレーのお店では、譜面(sheet music)やポスター・絵葉書などを売っていました

 
Sheet Music, 1932
Post Card of Paul Robeson, 1937

ジョージ・ガーシュインが15歳のとき、Tin Pan Alleyでデモンストレーション・ピアノを弾いていたのは有名な話です。1950年代中頃にロックンロールのレコードが爆発的に売れて、Tin Pan Alleyは廃れて行きましたが、Tin Pan Alleyで生まれたミュージカルやポピュラー音楽をTin Pan Alley Songといいます。何といってもこの時代の作詞家も作曲家も教養にあふれています。それが奥深い歌を作らせます。いい時代のポップスです。

ここまでは前置きで、主題はこの信号機に付けられた街路案内のプレートについてです。


東京のTin Pan Alley

 東京のTin Pan Alley私は変な人で、青梅街道を下って中野区の鍋屋横丁交差点を通るたびに、この案内プレートを付け替えたい衝動に駆られていました。何時の頃からか?さぁ〜?

ここを過ぎて高円寺、阿佐ヶ谷まで行くとずいぶん遠いところまで来たという感覚でした。荻窪の踏切りを渡るともう田舎です。かっぱが高校2,3年の頃の話です。その踏切りを通り越して西荻までいくと遠藤琢ちゃんの家がありました。こちろん、そんな昔には信号機の案内板などありません。

もともとは@です。”Tin Pan Alley”とは書いてありません。A”Nabeyayokocho”の文字を消して”Tin Pan Alley”ととり替えます。B寸法を合わせて入れて、向きを回転してみても、どうも不自然で具合が悪いのです。

これを自然に見えるようにしたのが、かっぱ作成の「東京のTin Pan Alley」です。ちょっとした悪戯アイディアでも、見られるものにするには自分で知恵を出さないとなりません。

この画像を見た岐阜に住む2年先輩が、「国交省か都庁か知らないけど粋ですね。Jazzファンなんでしょうね」って書いてきました。

こんな街路案内板があったら、東京の街にも潤いというものが感じられるのにねぇ。

 東京ディズニーランドにニューヨークのブロードウェイやTin Pan Alleyを模した造りがあります。ついでの時にご覧になってくるといいです。
 

 アンドリュース・シスターズ最後の一人Patty Andrewsが1月30日に94歳で亡くなりました。昭和7年に結成された姉妹トリオは、すでに長女は1965年に、次女は1995年に亡くなっています。長女が病気になる60年代中頃まで歌っていました。

昨年の夏に、ふと一番若いPattyはどうしているだろうと調べてみたら94歳で健在だと若々しい93歳の写真まで出ていたのです。この写真が93歳のおばあさん。びっくりして、「まだ元気でいます」とアンドリュースのページに書いたばかりでした。

Patty Andrews(1918-2013)

それが、1月31日に「老衰でロサンゼルスの自宅で亡くなった」とLos Angels Times Newsがネットで報じました。R.I.P.

スリー・グレイセスは彼女らのレパートリーから”Bei Mir Bist du Schön”,”Rum & Coca-Cola”なんて何十年も歌ってきましたが、昨年の1月からメロディを歌っている星野 操の声帯の具合が悪く、活動を停止しています。

(わかやま・2013年2月7日/3日は福沢先生のご命日でした)


 おまけ小笹主幹がガーシュインやバースタインについて書いてくれました。この2人はジャズとかクラシックというジャンルにとらわれない音楽家です。評論家という人種は何でも分類をすることが好きですが、アメリカ人も大好きです。物事の定義づけをして白黒をはっきりさせないと気がすまないらしいです。いいものは何でもいいのです。演歌にだって優れたメロディーがあるのです。音楽のジャンルに貴賎はありません。

われわれスタンダード・ジャズを愛するものは、ユダヤ人を忘れるわけにはいきません。有名なところだけでも、左からジョージ・ガーシュイン、アービング・バーリン、ジェローム・カーン、リチャード・ロジャース、オスカー・ハーマースタインUら著名なソング・ライターがいるのです。レナード・バーンスタインもそうです。彼らは、アメリカの音楽作品とミュージカルに新風を吹き込んでくれたのです。


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