Editor's note 2013/1


福寿草

 年末年始が気ぜわしい。12月は「師走」だからあたり前。だが現今は、1月もせかせかして落ち着かない。滝廉太郎の「お正月」という歌を知っている人は、どれくらいいるだろう。歌は知っていても、その歌詞に出てくる「凧揚げ・独楽(こま)まわし・毬つき・追い羽根つき」を楽しんだり、経験したことのない人が殆どだろう。最近は幼稚園児ですら、パソコンやスマホにかじりついてゲームに熱中し、「おせち料理」と「お年玉」以外は普段と変わらぬ生活をしているようだ。ふと福寿草が目に映った。巷の季節感は薄れたが、花はいつに変わらぬ新春を告げ、心を安らかにしてくれる。

 今年は厳寒で年寄りの訃報が相次いだ。旧友Mが「もう一度お前の声を聞いておきたい・・・」と電話をくれたのは、Music Minus OneというカラオケもどきのCDを使ってシューベルトの「冬の旅」を歌っている時だった。Mが「末期がん」で入・退院を繰り返していることは知っていたが、あまり突然のことで私は思わず絶句し、二の句が継げなかった。Mはそれでも元気な声で「うん、達者でな、ありがとう」と云って電話を置いた。その1週間後にMは他界した。後悔が激しくボクを襲った。<なぜ「ありがとう」と云わなかったのか。百万回でも云いたかったのに・・・>。

 長年合唱活動をしてきたが、演奏会の都度、誰かに「会員券」を買ってもらうのが毎度気の重いことだった。楽友会の定期演奏会はボクが高1の時に始まった。それが苦労の始まりでもあった。最初は席の近い級友に誰かれ構わず声をかけた。「自分の趣味で、金をとるのかよ」と露骨に嫌な顔をされたこともあったが、Mはニコニコと数枚を受けとり、数日後に4枚分の代金を渡してくれた。「どうして?」と聞くと「教会に音楽好きがいてさ、すぐに買ってくれたよ」とこともなげに話してくれた。そしてそれ以来つい最近にいたるまで、Mの方からいつも「オイ、演奏会はいつだ?」と聞いてくれるようになった。

 それにしても塾高6期(52年入学)K組に入れたことは幸いだった。Mの他にもAやKという素晴らしいサポーターができ、そのお陰でその後も合唱活動を続けることができた。正に「もつべきものは友!」である。79年に齋藤(5期)、海外(9期)、杉原夫妻(11、12期)といった楽友会仲間と語らって「東京スコラ・カントールム」という宗教楽専門の音楽集団を創設し、その後年2回の定期チャリティー・コンサートやドイツ研修・演奏旅行など、アマチュア合唱団としてはかなり高邁な理念と高度な演奏技術の総合を目指して演奏活動を続けた。当然台所は常に火の車。だが過去53回の演奏会で総額4千万円強の純益を得、その全額を社会福祉法人や災害被災地等に献金することができたのは生きた証しとして最高の喜びとなった。もちろんAやKの心強い支援のお陰である。Aはプログラムに企業広告を掲載する形で資金を提供してくれたし、Kは後援会員としていつでも快く寄付に応じてくれた。しかも恩着せがましい態度等、微塵もみせなかった。


 昨年のクリスマス・イヴはいつものようにカトリック神田教会で過ごした。この聖堂は国の有形文化財に登録されており、内・外観共に由緒ある教会としての雰囲気にあふれ、都心にも関わらず一歩内に入れば別世界となる。2階にパイプ・オルガンがあり、聖歌隊はその前辺に並ぶ。この聖歌隊にも長い歴史があり、傑出した音楽家たちが加わって、幅広いレパートリーに彩りを添える特色がある。ボクもその末席に連ならせてもらっているのがささやかな誇りであり、喜びでもある。この世界には俗世間のしがらみがない。もちろん「会員券」分担という義務もない。体調不良で今は月1回のミサに参加するのがやっとだが、皆はあたたかく奉唱の輪に加えてくれる。こうしてボクの合唱活動は楽友会の宗教音楽に始まり、神田教会聖歌隊員として幕を閉じることになるだろう・・・。

聖堂とステンドグラス
 イヴの夜半のミサは教会名物の一つで毎年参列者があふれる。だからミサは2回繰り返し行われる。その前後にクリスマス・キャロルだけのステージもあるので「天使のミサ曲」と合わせるとほぼ4時間近く立ったままになる。老骨にはこたえるが精神的には大満足で、天国を垣間見る思いがした。Mと存分に魂の交流ができたし、KやAその他多くの恩人・友人・知己・同僚や後援してくださった方々と家族を想起し、深い感謝の念を捧げることができた。

入口の聖母子像

  内陣
これほど淨福の思いにひたされたのは近来稀な事で、次の聖歌を歌いながら、涙をこらえるのに必死だった。以下は最近各地の教会でよく歌われるようになったそのキャロル「聞かせてください(詞:森一弘/曲:新垣壬敏)」の第3節である。

♪ 歌ってください 羊飼いたちよ
あなたたちの 今日の喜びを
お生まれになった嬰児(みどりご)が
疲れた心の 平和であることを ♪

なお、神田教会の大きい写真2葉は当日のミサに参列された中山育子様(Singer・カトリック高円寺教会員)のブログから転載させて頂いたものです。(オザサ/1月7日)

 年頭の一枚1年に1回だけ、1枚だけ絵を描く。もう20年近くになる。こんな我流のペン画を年賀状代わりに「年頭の一枚」と題して知人に送る。「おめでとう」とか「謹賀新年」とかいう文字は一切無い。何故そうなったかを説明しよう。いつの年だったか定かでないが、知人から届いた喪中欠礼の葉書にこう書いてあった。「うちは喪中だが、君の賀状は忘れずに送ってくれ。1年1回の絵が見たい」と。そんなことが複数回起こった。

それ以来、私のいわゆる年賀状は無くなった。「年頭の一枚」を描いて、喪中でない家には年賀はがきで送る。喪中の家には通常の葉書で送る。

今年はアメリカを描こうと思った。一度も描いたことが無いからだ。これまではヨーロッパ中世の石造りの建物が題材になることが多かった。そうでないのは中国、韓国の風景3枚だけである。これも時代物。そんなわけで図柄ががらりと変わってしまった感じがする。石から鉄のかたまりになった。橋はロンドンのタワーブリッジを描いたことがあるが、あれは橋というより石造りのタワーである。

ベイ・ブリッジはサンフランシスコからオークランドに渡る吊り橋である。途中に小さな島を経由するのだが、この島からの写真が撮ってあった。おそらく1984年にOR学会の視察団を皆さんをお世話するためにバークレーに行った時の写真だろう。対岸はサンフランシスコ、Transamericaの三角ビルが見えている。右の先には金門橋がある。

 1996年のJazz Portrait昨年の9月のEditor's Noteで1958年のハーレムの路上で撮影された写真の話を紹介した。1996年2月発売のLIFE誌に同じ場所で撮った写真があったのだ。そんなこと夢にも知らなかったのだが、Facebookという嫌いな人には悪評のSNS上に昨年の3月にアップされていた。アップした主は1958年の写真に出ている、イギリス生まれのジャズピアニスト、Marian McPartland本人である。


Harlem Photo, 1996 photo by Gordon Parks

左からHank Jones, Eddie Locke, Horace Silver, Benny Golson, Art Farmer, Chubby Jackson, Johnny Griffin, Marian McPartland, Milt Hinton, Gerry Mulligan それに歩道に座っているのはTaft Jordanの息子だという。

この写真の撮影時(95年10月ころ)には12名の生存者がいたが、日本公演中だったSonny Rollinsと入院中だったErnie Wilkinsは写っていない。

2013年1月7日現在、存命中のミュージシャンは、左からBenny Golson(83),Marian McPartland(94),Sonny Rollins(82),Horace Silver(84)の4人だけとなった。

Patti Page(1927-2013)

  パティ・ペイジ死去2013年1月1日にPatti Pageが85歳で亡くなった。テネシー・ワルツで有名になったのだが、もともとはカントリーの歌で1948年にハンク・ウィリアムスが歌っている。1950年にパティ・ペイジが歌って大ヒットとなり、1956年にテネシー州の州歌になってしまった。

その後も、最近までパティ・ペイジは歌い続けていたというが、殆どの人は忘れ去っていたものと思う。私自身、2004年のPBSの50年代の歌手やコーラスを集めた公開番組のコンサートで歌ったのをビデオで見たことがあるだけだ。若い時の2倍くらい太めになっているので驚いたことがある。

このテネシー・ワルツのレコードに多重録音で1人コーラスをしているものがあった。こんな古い時代の歌手で多重録音でレコードを製作していたのはきわめて珍しい。パティ・ペイジの1人コーラスのCDでも探してみてください。(かっぱ/1月7日)

FEST