Editor's note 2012/12

ロマン・ロラン著(みすず書房)

 「第九」の季節である。数年前の事だがOSF練習の時、橋本さん(1期)から「『第九』をもう一度歌いたいんだが、どこがいいかねぇ」とのご相談を受けた。ボク(4期)もかねて同じ思いにかられていたので<いよいよ時機到来>とばかりにボク等にふさわしい「第九を歌う会」を探した。が、未だに<これだ!>と思う会に行きあたらない。別に贅沢いうつもりはないが、ボク等にはこの曲に対する独特な思い入れがある。だから<どこでもいい>という気になれぬ。きっとそれはボク等の年代に共通する、高校生時代に思いも寄らぬすばらしい「第九」体験をした者たちの特異性といえるだろう。

 「ボク等の年代」つまり戦後相次いで新設された慶應義塾高等学校(塾高1〜6期生)と同女子高等学校(女子高1〜3期生)の初期の学生で、楽友会の前身「音楽愛好会(以下単に愛好会)」に身を置いたメンバーは、オーヴァーに聞こえるかもしれないが、史上稀にみる幸運を享受した。

 
その幸運はすべて初代部長の岡田忠彦先生からもたらされた。先生、といっても実は兄貴のような存在で、国立音大を卒業されたばかりの青年でいらした。戦時中の音楽学徒とはいえ、人脈に恵まれて信時潔氏に師事し、その高弟の岡本敏明氏に兄事し、後に同大の初代学長またNHK交響楽団の初代理事長となられた有馬大五郎氏の恩顧をこうむり、卒業後直ちに塾高の音楽教諭に就任された。そして遠山一行(塾高)と芥川也寸志(中等部)両氏の後任という大役を任されたのである。時代は貧しく、第二次世界大戦の戦禍が至る所に残っていたが、愛好会には小林亜星さん(塾高2期/楽友会会友)が詞にした「青春讃歌」そのままの、青春の歌と若き血が脈打っていた。

 では「特異性」とは? ボク等=普通高校の学生が、音楽を専攻する大学生やわが国最高の演奏家に交じり、下表の通り当時最高の「第九」の合唱団員として出演できたことだ!モグリではない、塾高生の身分を明らかにしての出演である。そのことは岡田先生が「プログラムに、アナウンスに、『慶應高校音楽愛好会』の名を堂々たる演奏会に出したのだから、相当の心臓ものであった・・・(「楽友」第3号・「第九出演をめぐって」32ページ/52年春)」と明記しておられる。

また「第九と日本人」という鈴木淑弘氏の公刊本(春秋社89年刊64ページ)にも、次のように記されているから客観的にも明らかな事実である。「・・・この時(編注:51年8月に開催された『サンマーコンサート』)の演奏者は指揮山田和男、独唱(S)三宅春恵、(A)川崎静子、(T)柴田睦睦、(B)中山悌一、合唱は国立音楽大学、玉川学園、玉川大学、東京放送合唱団、慶應義塾高等学校合唱団の合同による、1千名にのぼる合唱団であった・・・」。「1千名にのぼる合唱団」と聞けばボク等は単なる員数合わせだった、と思われるかもしれない。が、そんな大人数で歌ったのはこの特別イヴェントの時だけで、他は大体200〜300名の規模だった。第一、オケの員数が揃わない。楽員たちは戦死や傷病、あるいは未復員で欠員が多く、楽器や楽譜類も多くは戦火で焼失し、全調達は非常に困難だった。ただ、こうした情勢がボク等にとってのチャンスであったことは間違いない。第一に軍国主義教育の影響で、音楽に携わる男子は軟弱であると嫌われ、歌好きの男は僅少だったこと。第二に満州事変以来14年にわたる戦闘で、内地の青年男子は払底していたこと・・・そうした事情もあって、ボク等にも出演の機会が恵まれたのだ。


五線譜とペンをもつベートーヴェン像
(ミュンスター広場)

会   場
曲  目
指 揮
オ ケ 他
合 唱 団
備   考
1949
10
8
(昼夜)
東京スポーツセンター
第九
(ベートーヴェン)
尾高尚忠
日響
(N響の前身)
国立音楽学校他
会場開所記念
12
31
日比谷公会堂
クロイツァー
東京放送合唱団他
 
1950
28
29
山田和男
国立音楽学校他
 
30
NHK「土曜コンサート」
で全国放送 
1951
8
6
後楽園スタジアム
国立、玉川他
サンマーコンサート
(以上男声のみ)
1952
3
20
21
日比谷公会堂
荘厳ミサ曲
(ベートーヴェン)
ウェス
N響
国立音大他
#335定演
(男声有志のみ)
6
7

30
2

第九
(ベートーヴェン)
高田信一
東フィル
職場・学校大合同
#13定演
(女子高初参加)
1953
2
19
20
マタイ受難曲
(バッハ)
ウェス
N響
国立音大他
#344定演
(男声有志のみ)

 だが他校生ではなく、ボク等だけがその特権を享受できたのは、云うまでもなく岡田先生のお陰である。前掲「楽友」の記事に、先生はこうも書いておられる。「微力な自分として、何が何でもこの大交響曲(第九)の中へ諸君を巻きこみ、己の足らざるところを、諸君自身の力で、より高い音楽芸術の内面を、その力に応じて汲み取って、諸君自身の人の形成、音楽芸術への正しい理解に役立たせようとの心算で、ここ数回(第九演奏に)連続出演させたのである・・・」。もちろん岡本敏明先生や有馬大五郎先生の強力なご支援が得られたことも幸いしたし、そうした師恩に報いようとがんばった愛好会創設者たちの熱意も重要なモチベーションであっただろう。そうして「ボク等の『第九』」が実現したのである。これはいわば楽友会演奏史の原点となった希有の出来事だった。しかし、残念ながらその事実は時の過ぎゆくままに風化し、楽友会がその後「第九」演奏に関わったのは、「慶應義塾百年祭記念音楽会(1958年)」の時の1回だけ、それもワグネルの誘いに応じて実現しただけのことであった。それが私には何とも気がかりであった。先生や先輩たちから受け継いだ大切なものをないがしろにし、後輩たちに渡すのを忘れしまったような気がして良心が疼いていた。そんな折も折、橋本さんから前述の相談があったのだ。


自筆譜

合唱譜

今日、巷には「第九を歌う会」があふれている。N響と国立音大のコンビは今も続き、「これを聴かないと年を越せない」という人さえいる。その他一般に「暮の第九」と総称される恒例の演奏会は、日本各地で200会場を越すといわれる。「1万人の第九(大阪城/1983〜)」や「すみだ5000人の第九(国技館/1985〜)」といった気宇壮大な催しも既に30年近い歴史をもち、年中行事として意気ますます盛んである。逆に云うと一緒に歌う仲間探しは、競争が激化している。だからもし体力に自信があり、練習に誠実に参加できると云えば、経験者ならどこでも喜んで受け入れてくれるに違いない。だが一方では<今さら未知の集団に加わるのもなぁー>といった惑いもある。いや、むしろその思いの方が強い。

 そこで今年最後のお願いである。現役・三田会夫々の幹事会・理事会の諸兄姉ならびに三田会合唱団(MMC)の皆様におはかりしたいのだが、MMCレパートリーに「第九」を加え、少なくとも4年に一度は上演してもらえないだろうか。もう一つ、ついでにお願いしたいのは「モツレク」の復活である。これも4年に一度は演目にお加えいただきたい。かつて楽友会には、これも岡田先生のご意向で<4年に1度はモツレク演奏>という伝統があったが、今は廃れてしまった。こんなことでいいのだろうか。創立50周年記念演奏会の時は一も二もなく<みんなが暗譜で歌えるモツレクを歌おう>ということで決まったが、今後そうした節目にボク等には何があるのだろう。60周年や定演60回記念は無為無策の内にアッという間に過ぎ、70周年(2018年)記念の年もすぐそこに迫っている。しかもボク等の年代の仲間はどんどんこの世を去っていく。これ等を考えれば「恒例の新年会」で旧交をあたためるのもいいが、「楽友会」の伝統を確立し、将来の方向性を定めることは喫緊の課題であろう。皆さんもっと議論しましょう。そして知恵を出しあい、よりよい伝統を育んでいきましょう。では、よいお年を!(オザサ/12月7日)


Dave Brubeck(1920-2012 )

 Dave Brubeck 91歳で死去今朝(12/6)の新聞の訃報にBrubeckの死亡記事が出た。90歳で元気だという話を私のJazzのホームページで昨年2月に書いたばかりなのに。

編集主幹の編集ノートにあるように、楽友会が第九「合唱」を最後に歌ったのは1958年11月、日吉記念館において慶應義塾創立100周年記念音楽会で演奏されたものだ。その翌年にDave Brubeck Quartetのアルトサックス奏者、Paul Desmondという男が”Take Five”というモダンジャズの名作を書いた。世界的にはその1,2年後に爆発的にヒットしたものだが、私はスイングジャーナル誌でいち早く知りレコードを聴いてたまげた。TIME OUTというタイトルのLPだった。
 

”Take Five”というのは文字通り5拍子の曲なのだ。ブルーベックのピアノから5拍子のリズムが刻み出される。「タタンタタンタンタン、タタンタタンタンタン」と聞こえてくる。すぐピアノの前に座って真似して弾いた。このリズムをバックにデスモンドがアルトのソロを吹く。

「おー、これがモダンジャズなのか」と1人でうなづきながら納得したものだった。大学1年生時代の思い出だ。

こんな感じに弾くのだ。18歳だったカッパは頭に一撃をくらったわけだ。さらに、この超インスト曲にDaveとカミサンのIoraが歌詞をつけてしまった。”Take Five”とは「5分休もうぜ」という意味がある。何とも憎たらしい。


1954年11月8日号

この10年前くらいに器楽の難解なアドリブのリフに歌詞を付けて歌う男が出てきて世間の度肝を抜いた。Eddie Jeffersonという黒人の変わったおっさんだった。舌が回らないほどの早口で歌う。これをVocaleseと呼び、Vocalと区別した。謂わばモダンジャズ版のボーカルというわけだ。これをやる日本人にはお目にかかったことがない。非常に近いところにいるのが丸山繁雄という早稲田出身の勉強家だけだ。

ものの本にモダンジャズのミュージシャンとして初めてTIME誌の表紙を飾ったのは、ブルーベックで1954年のことだと書いてある。これは見てみたい。

ジャズ評論家によると、「現在もっとも刺激的なジャズを演奏する」と評価されているという。それでTIME誌の表紙に取り上げられたのだ。そのDave Brubeckもついに91歳の生涯の幕を閉じた。合掌
 ジャズ評論家、岩浪洋三 79歳で死去本棚を見ると岩浪さんの著書が2冊並んでいる。私がジャズに目覚めた高校から大学生のころは「スイングジャーナルの編集長だった。岩浪さんは私が好きな歌手を高く評価していた。1人はSalena Jonesである。サリナは私にとっては兄妹のように親しいので殊のほか嬉しい。サリナは何かあると「ヨーゾーが、ヨーゾーが・・」と言い出す。

もう一人いる。札幌のすすきのにあるDay By Dayというジャズクラブのオーナーの歌手で黒岩静枝(スージー)である。10数年前、学会で札幌に行った時、Day By Dayに行った。そこで、はじめてスージーの歌を聴いてひっくり返った。何ともハートで歌を歌う歌手だった。こいつは珍しい。ライブも終わり、カウンターを挟んでジャズ談義が始まった。


Yozo Iwanami(1933-2012)
「先生、飲もう」と2人で語り明かしてしまった。ベトナム戦線にまで行き、アメリカの兵隊の慰問までしてきたという。

Suzie Kuroiwa

いろんな歌手が掃いて捨てるほどいるが、風体はえらくごついのに心のこもった歌を歌う。それは彼女が優しいからだ。口先で小器用に歌う歌手が多い中、彼女は決して器用ではない。英語も上手じゃない。それなのに他の歌手とは比較の対象とならないくらい人の心を打つ。それで、この10数年、お互いに粗末にはしない付き合いをしている。

岩浪さんは、そんなスージーが大好きなのだ。だからスージーが東京に来ると必ずライブにやってくる。必ず会うことになる。今年は春先に銀座でライブがあったが、一緒のテーブルだった。この時、話したのが最後となった。合掌

来月は面白い話をしたいものだ。今晩は楽友三田サロンの忘年会だった。この間、忘年会をやったばかりなのに。(2012/12/7up・かっぱ)