Editor's note 2012/8

元興寺(奈良)のハルシャギク

・・・私は街に出て花を買うと、妻の墓を訪れようと思った。ポケットには仏壇からとり出した線香が一束あった。八月十五日は妻*にとって初盆にあたるのだが、それまでこのふるさとの街**が無事かどうかは疑わしかった。ちょうど、休電日***ではあったが、朝から花をもって街を歩いている男は、私のほかに見あたらなかった。その花は何という名称なのか知らないが、黄色の小弁の可憐な野趣を帯び、いかにも夏の花らしかった。・・・(原 民喜著「夏の花」冒頭の一節)

注::*1944年秋病没/**広島市/***戦時中に実施された、今でいう計画停電日。その日は休業とする店が多かった。

 

 8月。大輪のヒマワリが咲き、原爆の日が近づくと、反射的に私はこの本を思い出す。そして「イャ、ヒマワリじゃない」と呟いて地に目をやる。すると雑草のように咲く黄色の草花が目にとまる。そこで「原さんが墓前に携えていったのはこの花か?」としばらく思案する。そうであるようなないような、何とも不確かな感情のまま、私は再び歩き出す・・・。そうしたことが何年も続いた。今年はそんな感情に決着をつけたくて、<黄色の小弁の可憐な野趣を帯びた、いかにも夏の花らしい>花を探し巡った。するとこの花が目に留まった。「ハルシャギク」という、近所の公園でもよく見かけるごく普通の花だが、お地蔵さんの周囲に咲いている情景に心惹かれた。原さんの万感もまた、そこにあったような気がした。これは奈良の元興寺(世界文化遺産)で10年6月に撮影された写真で、「奈良大和路のこと」と題するブログ(http://narayamatojinokoto.typepad.jp)から転載させて頂いたものである。

 「原民喜」とか「夏の花」といっても若い人にはほとんど通じない。塾員ですらポカンとしていた。それでこの一文は注釈ずくめになってしまうが、ごく端折ってご紹介しておきたい。原民喜(はら・たみき)は1905年広島市に生まれ、塾文学部英文科を卒業した詩人・小説家。中学生時代から文学に関わり、戦時中は千葉で船橋中学の英語教師も務めたが、夫人に先立たれて失意のうちに郷里に疎開して被爆した。1947年、被災時の凄惨な体験を「夏の花」として「三田文学」に掲載、第1回「水上瀧太郎賞」を受賞、これを契機に一躍その名と作品が世に広まった。特に「夏の花」は日本固有のジャンルである「原爆文学」の代表作として、今も版が絶えない。新潮文庫版は大江健三郎氏の行きとどいた解説で読解の助けとなる。同氏はまた「若い読者がめぐりあうべき、現代日本文学の、もっとも美しい散文家のひとりが原民喜である」、「(原民喜は)原子爆弾の経験を描いて、現代日本文学のもっとも秀れた作家である」と激賞し、特に若い人々が読み継ぐことを期待している。一方、その人となりについては、戦後共に「三田文学」の編集に携わった遠藤周作さんが、あたたかい筆致で故人との想い出を記している。それによると原さんは、被爆約6年後の1951年3月、吉祥寺⇔西荻窪駅間の鉄路に身を横たえ、45年の生涯を閉じた。その外見は<満身創痍となった一羽の小鳥がしかもなお、羽を動かし、生き続けようとしている姿に似ていた>が、その気力については「平和への意思」と題した原さんの遺稿と思われるノートの一部(下の「」内の文)を引用し、次のように伝えている。

<「お前が原子爆弾の一撃より身もて避れ、全身くづれかかるもののなかに起ちあがらうとしたとき、あたり一めん人間の死の渦の叫びとなったとき、何故にそれは生きのびようとしなければならなかったのか、何がお前に生きのびよと命じてゐたのか」と原さんは書いているが、外見弱々しくみえた原さんからは想像もできぬこの烈しい言葉こそあの六年をどうにか生き続けさせる気力となったにちがいないのだ。>
(遠藤周作著「影法師」から「原民喜」についてのCoda)

 その死の前年、「近代文学(戦後すぐに創刊された文芸雑誌)」8月号に原さんは「原爆小景」と題した作品を発表した。それは「夏の花」その他の作品に載った10編の詩を括った詩集である。それを手にした楽友会創始者の一人・林光さん(1931〜2012)は「これらの詩には音楽が必要だ、とその時思ったが、20歳になるやならずのぼくはその手だてを持たなかった(「被団協」新聞2010年3月発行374号)」。そしてその思いをあたため、第1部「水ヲ下サイ」を作曲したのは1958年、27歳の時だった。続く第2部「日ノ暮レチカク」と第3部「夜」は1971年のことで、この間にも13年の歳月を要した。結局、終曲の第4部「永遠(とわ)のみどり」が完成したのは、世紀を越えた2001年、作曲者69歳半ばのことであった。「こうして、完成した『原爆小景』四章の様式は、作曲者の生涯にわたる作風の変遷に沿って変化しながらも、その精神的内容は一貫して変わらないと信じる。作曲者は以前、『日ノ暮レチカク』を中央パネル、『水ヲ下サイ』と『夜』を左右両翼として西洋中世の祭壇画になぞらえたことがあったが、両翼を閉じたところに『永遠のみどり』を置くことにより、文字通り祭壇画は完結したといえよう。(2001年8月9日/林光・東混/八月の祭り○22/プログラムより)」。実にこの作品は、全曲でおよそ25分の簡潔な無伴奏合唱曲ではあるが、作者が心と精神と力をつくし、半生をかけてまとめ上げた畢生の大作であり、何百人、何千人が合唱しても、それなりに天地が呼応するスケール感豊かな、希有の大曲といえるのである。

 毎年8月に林光+東混のコンビで「原爆小景」を演奏し続けてきた「八月の祭り」コンサートも、今年で第33回となる。残念ながら、今年から指揮台に先輩の姿はなく、ステージからの語りかけも耳にし得ない。だが、いみじくもそのチラシに銘打ってあるように、私たちは「光さんにさよならはいわない」。なぜなら「原爆小景」が歌い継がれるところ、林さんは必ずそこに居る、と確信するからだ。例えばバッハは没後262年だが、今もその音楽 ― 特にカンタータや受難曲のメッセージは人々の心にこだましている。その意味で私たちの側で忘れ去らない限り、人間の存在にとってヴァイタルなメッセージは永久に残る。まして今は「原発」の存続か否かで国論が、というよりも世界が大きく揺れ動いている重要な時機。どうしてこの日本で、被爆者にしか発せられない貴重なメッセージを放置できようか。

詳細 ⇒ http://homepage3.nifty.com/TOUKON/teiki.htm#林光追悼

 それは原民喜、林光両氏が後輩に託した一種の遺言である。問題はその信託に、私たちがどう応えるか、ということだ。私は「原爆小景」を歌い継ぎ、広めていくことではないかと考える。これはかなりの難曲だし、東京混声合唱団の専売特許のようになっている。しかし、そこに止まることが作詞・作曲者の本意とは思えない。先ずもって楽友三田会合唱団がアマチュア合唱界の先駆けとなり、日高さん(14期)の指揮で全曲演奏してみたらどうだろう。それは林先輩に対する最良の追善供養となり、私たち自身の原水爆や原発に関する見識を高める好個の機会となるに違いない。なぜ日高さん?当ホームページのMMCコーナーに載った「『鎮魂の賦』に想いをこめての信州旅行」という市村さん(9期)の記事を読んだからだ。そこには今年の20回定演で「鎮魂の賦」を指揮する同君が、皆と一緒に信州へ旅した事情が書かれている。以前も同様に演奏予定曲ゆかりの地を訪ね「おらしょ」の時には長崎へ、「良寛と貞心尼」の時は新潟へ旅したそうだ。演奏者の態度として誠に見上げたもので、他人にはなかなかできないことである。しかし、そうした真摯で誠実な曲へのアプローチこそ「原爆小景」を歌うに最もふさわしい曲づくりの基本であろう。善は急げ。一日も早く「広島」、「長崎」あるいは「福島」への旅を実現し、「楽友会」に新たな定番を植えつけてほしい。小林先輩の「青春讃歌」を、後輩たち子々孫々がおおらかに歌い継いでいけるようになるためにも―――(オザサ/8月6日)
 


Tetsuo Kanno

 人外来風景普通部で同級生だった神野哲夫という脳外科の世界的権威がいます。勉強家で秀才の名をほしいままにした男が普通部の同級生には多いのですが、神野はその中でもずば抜けた努力家でした。

彼は信濃町に通いやがて当時新しい分野だった脳外科を専門としました。彼の名前は医学部の外にも聞こえてくるほど有名でした。じつに多忙な男でしたから同窓会やクラス会などでは顔をあわせる機会がありませんでした。
 

神野は名古屋の藤田保健衛生大学脳神経外科の教授となり、何年か前に電話で話しをしただけで、彼の顔を見たのはテレビで「神の手の番組」が放送されたときだけです。

先日、10月に開催する普通部のクラス会の知らせを出したところ、海外出張の予定があるので出席できないという返事でしたが、「老人外来風景」という最近の著書をわざわざ送ってくれました。神野はまだ脳外科医として現役で働いているのです。

これまでは脳外科や心臓外科には外来患者は少なかったらしいのですが、近年は老人が増えて、外来患者がぞろぞろ来るようになったのだそうです。昔は、たまに来る外来患者は大概は手術までにはならないので、内科に回されていたのですが、内科はそれでなくても患者で溢れていて回せる状態ではなくなりました。それで神野のところにも老人の外来患者がたくさん来るようになったという話です。要は老人外来患者が桁違いに増加しているということです。

神野だって今年72歳になりますから若い医者ではありません。肩書きは名誉教授・名誉院長だけでなく、世界脳神経外科連盟名誉会長にもなっています。それでも今なお老々医療の現場に身を置く神野の体験から老人への医者といかに付き合うのがよいか、役立つアドバイスを書いています。

そんな神野大先生が普通部時代、音楽の時間に誰よりも大人っぽいビブラートのきいた歌唱をしていたのを思い出します。われわれは子供っぽいストレートな歌を歌っていたのです。
 


The Platters
Tonny Williams  David Lynch
Herb Reed  Paul Robi
Zola Tayler

 プラターズのお家騒動1950年代の中頃、プラターズの心地よいコーラスが聞こえてきました。超低音のHerb Reedがリーダーとなり、アマチュアコンテストで一等賞をとりまくっていたのですが、作編曲家のBuck Ramが面倒を見ることになり、1955年にMercuryレコードと契約し、”Only You”、”Twilight Time”、”My Prayer”などが連続ヒットとなりました。

リードテナーのTony Williamsがグループを離れ、彼の穴埋めにSonny Turner、Monroe Powellらがリードを歌ったのですが、先代のリードのようには大衆もレコード会社も反応しません。それが面白くないPaul Robiが分派活動を始めたのを機にプラターズはばらばらになりました。リーダーだったHerb Reedは1968年から歌わなくなりました。2代目、3代目のリード、Sonny Turner、Monroe Pawellもそれぞれ分派活動を始めました。紅一点だったZola Taylerも自分の新グループを立ち上げました。それぞれが「プラターズ」という名前を自分達のグループにつけました。

The Plattersという暖簾をめぐってHerb Reed、Buck Ram、Paul Robiの3人の間で訴訟沙汰となり20年以上も裁判は続きました。判決もRamに行ったりRobiに戻ったりしているうちに、2人は90年をはさんで死んでしまいました。

2001年に実存するグループを調べてみて驚きました。アメリカだけでなくヨーロッパにもプラターズがごろごろいるのです。私が調べた限りでは19グループ出てきました。

1. Herb Reed and The Platters
2. Sonny Turner with The Platters
3. The Platters Featuring The Legendary Monroe Powell
4. Jones & Mathews Tribute To The Platters
5. An All-Star Platters Revue
6. The Buck Ram Platters
7. The World Famous Platters
8. The Platters
9. Bernard Purdie Salutes The Platters
10. The Magic Platters (France)
11. The Amazing Platters
12. Zola Taylor's Platters
13. The Legendary Platters
14. The Golden Platter
15. The Magic Platters (Deutchland)
16. Sounds of The Platters (United Kingdom)
17. Joe Coleman's Platters
18. Platters Eighty One
19. Jesse Furgeson's Platters

いかにPlattersの名前で商売ができるかがわかっていただけるものと思います。1968年から歌っていなかったHerb Reedは自分のグループを結成して歌いだしました。裁判の結果も30年も経ってからHerb Reedに権利があることが認められることになりましたが、日本では考えられないような話だと思います。

David Lynchは81年に早死にし、Tonny Williamsも92年に死去しました。オリジナルメンバーは2人が生き残っていましたが、Zola Taylerは2007年に、最後の1人となったHerb Reedも今年の6月に83歳で死にました。
 

 インクスポッツは分派活動の元祖さて、プラターズより20年も前にインクスポッツというDoo Wapのコーラスが誕生しました。1936年にBill Kennyというリードテナーが加わり、1939年(昭和14年)に”If I Didn't Care”を歌いミリオンセラーとなりました。なんと1900万枚が売れたといいます。

この写真はBill Kennyが加わったゴールデンメンバーです。しかし、Deek WatsonとBill Kennyがうまくいかなくなり分裂し、Charlie Fuquaは兵役で一時的にグループから離れます。Orville 'Hoppy' Jonesは1944年に若死にしてしまいますので分派活動はしていませんが、他の3人の分派活動から始まり、枝分かれしながら30系統に分派し、総計199グループが活動しました。そこに名を連ねたメンバーは273人まで調べられています。


The Ink Spots
Deek Watson  Orville Jones
   Bill Kenny  Charlie Fuqua

というわけで、インクスポッツが分派活動の元祖であり、そのグループの数においても世界一です。何年か前までは4グループほどが生きていたようですが、現在活動しているのは1グループだけになりました。Lou Ragland's World Famous Ink Spotsというグループです。

みなさん、驚いたでしょ?(2012/8/6・かっぱ)