Editor's note 2012/5

5月1日・ハナミズキ満開(木場公園)

 隠居してからじっくりと新聞を読むようになった。現役時代には熟読できなかった社説や種々の論説や訃報、それに読者の「声」にもゆっくり目を通す。そうして、どうやら時流に遅れないですむような気になっている。
 

 先日(4月12日)、朝日新聞の「声」欄に「赤川次郎」氏の「橋下氏、価値観押しつけるな」と題した投書が載っていた。<ヘェー、こんな著名作家が一読者として投稿することもあるのか>と興味を感じて読み進んだら、大阪の橋下徹市長に対する、真に当を得た痛烈な批判で、日頃の胸のつかえが下りて久しぶりに気分がスカッとした。

この人と石原都知事の言動には日頃から問題を感じていた。ご両人は、私に言わせれば地方行政の首長としての業績はとりたてて何もないのに、何故か選挙に強いのが不思議であり、末恐ろしくもあった。二人に共通するのは独善的・タカ派的改憲論とタレント性十分なハッタリの強さであり、それ等に幻惑されて安易な投票に走る選挙民の愚昧さが、ナチス・ヒットラー台頭の時代を思わせ、不気味なのだ。

 特に次回の総選挙の目玉になると注目されている橋下大阪市長は、42歳の若さにもかかわらずヤレ<維新だ、船中八策だ>と大時代なことばを多用して「(明治)維新」というプラス・イメージを利用したいらしい。が、ことばに対する無頓着さに呆れるばかりだ。日本には「(昭和)維新」という直近の暗い歴史もあるのに、それを隠してイシン・イシンと意気がっている。ちなみに「(昭和)維新」とは昭和の初期に、軍部の急進派青年将校や右翼が唱えた国家改造運動のスローガンであり、その実体は天皇中心主義の国体論であった。そしてそのスローガンの下に5・15や2・26事件を引き起こし、わが国を軍国主義国家へと駆り立てたのである。昭和に生きた私としては「(昭和)維新」があったということの方が、「(明治)維新」より身近で切実な問題なのだが、戦後生まれの橋下氏は知ってか知らずか、そのことに無頓着を装っているようだ。

 赤川次郎氏はさすが作家の筆で「声」欄の短文に、多くの示唆をこめておられるが、最後を次のように締め括っている。<・・・過去に学ぶ謙虚さを持ち合わせない人間に未来を託するのは、地図もガイドもなく山に登るのと同じ。一つ違うのは、遭難するとき、他のすべての人々を道連れにするということである>。私もこれに全く同感で、この故に橋下氏とその同調者に胡散臭さと危険を感じるのである。

 もう一つ。山野井友紀さん(53期)からの明るい「声(5月1日)」をご紹介しておこう。題は「幸せをもらい運ぶゴスペル」。一般に読者投稿欄に掲載される文面は、現状への不満や批判が多いが、山野井さんのそれはいつも前向きで、暗い社会に灯を灯すような輝きがあるから楽しい。前回はご当人が学生生活最後の年。新潟で行われた合宿からの帰路、大雪で長時間立ち往生した列車の中で、楽友会仲間と合唱を披露。乗客たちの無聊を慰めたという「列車に歌声」というお話し。これは当ホームページの「Anthology ⇒ 随筆コーナー」の初めの方に載っているので、未読の方はぜひご一読を!

その山野井さんも社会人となって早4年。社会の荒波に揉まれながらも「初心忘れず」で、今も元気に歌うチャリティー活動を続けておられる。当ホームページの同じ「 随筆コーナー」の、これは下の方にある♪ Sing in Unity, Live in Peace ♪をご覧いただきたい。他にも、先日の山下公園でのライブ状況が「Topic & Info.」コーナーの上から5段目に掲げてある。

 この山野井さんとは、まだ一度もお会いしたことがない。年齢も半世紀離れているのだが「楽友」としては、一方的ではあるが、親友のように感じている。ホームページ開設間もない頃、「朝日」の記事で「列車に歌声」のことを知った私は、すぐさま「その後の反響をおしらせください」と依頼したのがきっかけで、すぐメール交信が始まり、打てば響くように前述の「随筆コーナー」に載せた原稿を頂くことができた。それで一気に意気投合し、同窓の親しみを感じるようになった、というわけだ。

だが、普段はなかなかこうは進展しない。こんなこと半分以上ボヤキになるからあまり書きたくないのだが、編集部として一番困っているのは寄稿が少ない、というか、無きに等しいことで、特に自発的に書き、投稿してくれる人がいない現状に困惑している。何かテーマを特定して依頼すれば、極めて少数だが、それに応じてくれる人がいないでもない。だが大半はいくらメールを送っても無視するか、始めは調子よくても段々と先細りになり、やがて何を言っても「ナシの礫」で逃げ去る・・・。

 依頼方法が悪いのかと思い、色々と文面や通信手段(メール・電話・手紙・それ等の併用)を変えてアプローチしてみるのだが、この傾向に変化は出ない。むしろ全体的に、反応はますます冷たくなっている感じだ。これは「ホームページなんか要らないよ」という皆からの無言のメッセージなのか、それともドラッカーが「2020年まで続く」と予言した「断絶の時代」の極みなのだろうか。頭の痛いことではある。(オザサ/May 7. ‘12)


Shigeo Maruyama, 2010
 ジャズ博士:10年前の夏に丸山繁雄というジャズ歌手と知り合いになった。御茶ノ水の駅前、駿河台の「お茶の水NARU」というライブハウスに出かけて行った。そのきっかけはTBSのキャスター、吉川美代子が丸山繁雄の歌を聴いてびっくりして「先生、一度聴いてらっしゃい」と言ったからだ。
 

随分早い時間に着いてしまった。丸山さんと2人でジャズ談義が始まった。その中心話題はジャズのスイングの源は英語という言語の音声学的特徴から来るものだという話だった。丸山繁雄も私と同じことを考えていた。「一緒に論文でも書くか?」などと冗談半分にしゃべっていたのだが、それが丸山繁雄の博士論文のテーマそのものである。学究肌の人間だとそのときから思っていたのだが、丸山博士になってしまった。おめでとう。

丸山繁雄は生まれつき声の線が細い人である。どこかのジャズ評論家がそう書いている。しかし、実際に聴いてみると、とんでもない!凄いボリューム感がある。私には彼が発声法や歌唱法に研究と努力を重ねて「細い」と言われていた声を「太い」ものにしてしまったことがよくわかる。天性のいい声なんてものではない。自分で作り上げた声である。この男は只者じゃないと思った。

2003年1月に、いわゆるライブハウスではないLittle MANUELAに「ゲストデー」という日を設けて、面白い人、話題の人を呼んでみんなで歌や演奏を聴くイベントを始めたのだが、そこに丸山繁雄を連れてきた。大好評だった。

その7年後に再度呼んできた。上の写真は少しだけ歳をとった丸山繁雄である。私が声をかけると彼は喜んで来てくれる。久しぶりに丸山繁雄のジャズ・ボーカルを聴いたが、更なる進歩を遂げている。驚くのと同時に感心するのみである。何事にも全身全霊を打ち込んで努力の人である。

2011年11月、ついに日本大学から博士号(芸術学)を取得した。3月31日には、大学の教え子達が盛大なお祝いの会を開いてくれた。嬉しかったことだろう。下の切抜きはついこの間の毎日新聞である。私のところにも招待状が来ていたのだが、恒例の若山ゼミのOBOG家族とのスキー合宿が重なり残念だったが、丸山さんには「お祝い」を届けてパーティは失礼することにした。


インタビュー風景(2004/1/24)

 毎日新聞の取材:2003年暮に毎日新聞が我々のカルテットを取材したいと言ってきた。「どうぞどうぞ」で神楽坂のジャズ・レストラン「もりのいえ」に集合した。新プロジェクト準備室長、社長室委員の赤司正文氏が現れた。

現在は4人のメンバーのうち2人はご隠居であるが、当時はまだ全員が現役だった。

「みなさんは、プロを目指しているのですか?」

「とんでもない、そんな気持ちは毛頭ありません」

「ギャラを貰ったことはありますか?」

「お車代としてね」

そういうお金をためておいて、グループとして冠婚葬祭の費用にしたりしているのだが、最近は葬式だけになってしまった。

毎日新聞の朝刊には折込みの季刊タブロイド紙「PLATA」というのがある。このインタビュー記事はPLATAの4月刊に掲載されるということだった。下らないことばかりしゃべってしまったので、「編集の結果、大して面白くないから没になりました」なんて言われたらどうする?なんて心配をしていた。無事に4月24日の朝刊に、PLATAが入ってきた。後日、赤司さんから何部かを送ってきた。

 この取材の3日後に早々と我が家の新聞を某新聞から毎日新聞に切り替えてしまった。でも、止めた某新聞には幼稚舎から大学の管理工学科まで後輩だったしょうすけがいる。しょうすけが知ったらどうしよう。

天の声「お前さえ黙っていりゃあ、わからんだろう」

(2012/5/7・わかやま)