Editor's note 2011/3

デアゴスティーニ・ジャパン刊

 3寒4温で春の便りしきり。梅は散ったか桃の花、お雛祭にゃ白酒かっぽれ。街を行き交う人々の顔も輝いてきました。けれども、なぜか爺様たちの表情はさえないようで・・・

弥次「あたたかくなってきて何よりだな。寒いと体が縮んで声も出ねーやぃ」

喜多「いや全くだ。音域は狭くなり、すぐ息切れし、声がかすれる」

 

弥次「だけどな、これって寒さのせいばかりじゃねーぞ。年だよト・シ。年々声まで縮んできゃがる」

喜多「そうか。お前もか。それじゃこいつは、加齢現象っていうやつだな」

弥次「そう言やぁ無難だが、ハッキリ言えば年寄りのしわがれ声よ」

喜多「嫌なこというねぇ。これでも俺は声には自信があるんだ、何しろ若い時にとった杵柄(きねづか)よ。それからこっち、ずっと歌いつづけてきたんだ。そんじょそこらの老いぼれと一緒にすんねぇ」

弥次「てやんでぇー、そんなこたぁー百も承知だ。楽友会じゃお互いさまよ。ちっとも自慢にゃならねぇ。でもな、それだけに深刻だってぇー気持ちはわかる。なまじ合唱なんてやってきたから、声の衰えが気になるんだろ」

喜多「さすがは弥次だ。ツーといえばカーだな。そうなんだよ。気になるどころじゃねぇ。いっそ死にてぇくらいだ。オレから歌を抜いたら何が残る。このまま霞むばっかりじゃたまらねぇ」

 2人の会話はどんどん落ちこんで行くようで・・・新年早々亡くなったパクさんの訃報もかなりショックだったようです。ダークダックスの中で、いや、往時隆盛を誇った数ある男声クヮルテット・グループの中でも、一番ハンサムでエレガントな雰囲気をたたえていたパクさんこと高見沢宏さんが亡くなったのは―先月のカッパのEditor’s noteに特報された通り―1月7日のことでありました。享年77歳。ダークで最年少だったのに、一番先に他界されるとは!大体その年齢に近い弥次・喜多としては<何があってもおかしくない>と、不安に駆られているのです。

現に、懐かしさのあまり際限もなくYouTubeでダークの実録を探り、ふとその絶頂期に録画された「青葉城恋歌」等を聞きながら、柄にもなく涙を浮かべています。

 

この美しいハーモニーには、弥次の中学時代の淡い恋心、杜の都の清々しい青葉若葉、そしてその合間を縫うように流れる広瀬川の景観、熱烈なダークのファンだった母の面影等が、みんな一緒くたにこめられているのです

余談ですが、ここに「日本の美しい歌―ダークダックスの半世紀―」という楽しい本(喜早哲著・07年)があり、それも併せ読むとどの曲が大体どの年代に歌われ、その時代背景がどうであったかが分かって興味が尽きません。よく知られているように、ダークの皆さんは塾の先輩です。年令的には楽友会の会友と同じかそれより少し年長の方々。ワグネル男声合唱団に属し、在学中の51年にその仲間でダークを結成して独自の活動を始められました。

さて本題に戻ると、その彼等が「開闢(かいびゃく)以来歌い続けてきた歌、例えば『銀色の道』『北上夜曲』『雪山讃歌』(12ページ)」等を聞き比べてみると、発足以来約60年近い歳月の間にその声質がいかに変化したかが、手にとるように分かります。 バスのゾウさんの低音は今でも日本人離れした深みがありますが、若い頃にはもっと奥行きと艶があり、ロシア民謡で右に出る人はいませんでした。


新潮社刊

またパクさんのトップ・テナーも抜群で、高音部は普通のファルセットとは異なる、いかにも裏声といった薄っぺらな声ではなく、フルートの音色にも似た輝きのあるオブリガートでした。が、晩年はその声域をほとんど歌われなくなったようです。一方、内声2人の調和がまた見事でした。それは甘いクラリネットのデュエットにも似て、マンガさんのとろけるようなメロディー・ラインにゲタさんのバリトンがぴったりと相和し、ダークならではの上質のハーモニーを醸し出していたのです。

こう書くと、いかにも「昔はよかったのに」という恨み節に聞こえるかもしれませんが、それは本意ではありません。そうではなく、ダークの本当の良さはどんなに時がたっても変わらない、と言いたかった。時と共に失うものは多々あったが、逆に得たものも多く、例えば品格という言葉が風格という言葉に換わるように深い味が出てきたと思います。それは余人をもって代えがたい発足メンバーだけが醸し得る友情の発露であり、真の心のハーモニーだった、と言えるでしょう。だからこそ、マンガさんが長期療養で欠場されても、誰も補充せずに頑張ってこられたものと思います。しかし、今年はパクさんに先立たれ、とうとう「4羽のあひる」が低声2羽になってしまいました。さて、この先は?何とかお二人だけでも続けてほしいものです。

 ひとしきりダークの話題にひたってから

弥次「でもな、なんと言ってもダークは偉いよ。プロとして、60年の長年月を声一筋で生き抜き、しかも高い名声と人気を保ってきたんだからな」

喜多「そりゃそうだ。陰じゃ銘々、人知れぬ苦労を積み重ねてこられたんだろうよ」

弥次「さっきの本にゃそんな苦労話は一言も出てこねぇが、それを聞いてみてーなー」

喜多「そんなこと期待する方がムリだ。彼等の美学だろうが。それとも営業上の秘密っていうとこかな。とにかく自分のことは自分で決めるしかない」

弥次「ん。もう歌は諦めちゃうか、何とか今は今なりの、自分は自分なりの努力で頑張ってみるか、そのどっちかだな」

喜多「おらっちも彼此かれこれ60年近く合唱を続けてきたんだ。ダークを見習って、声の出るうちゃ歌い続けようじゃねぇか」

弥次「よっしゃ。それじゃ、ま、いろいろと調べてみるか」

 というわけであちこち「老年のコエの悩み」対策を調べてみたのですが、これはといった指南書は見つかりませんでした。声楽家が「コエワズライ」になった時駆け込む耳鼻咽喉科の先生にもお伺いしたのですが、そんなものは聞いたことないそうです。ただいろいろなヒントは頂けたので、それをまとめると次のようになります。

1)「使わない筋肉は退化する」すべからく加齢現象はこれに尽きるようです。隠居すると日々の活動範囲が狭まり、歩くことも話すことも、即ち手足や声帯を使う機会が激減します。極端な場合には一日中家に居て、散歩も会話もしないことがある。こんなことが常態化すると器官や筋肉はいつの間にか劣化し、たまの正月、子や孫たちが来て気分だけ若返り、いい気になって餅など頬ばると、それが食道ではなく気管に落ちてアッという間にご臨終てなことになってしまう。それはつまり、気管支の入口にある声帯が萎縮したせいだそうです。「声帯」だから声に関わるだけの器官だと思っていましたがとんでもない、生命に直結する大切な器官でもあったのです。だから、これを萎縮させてはいかんのです。

2)幸い合唱人なら誰でも「コンコーネ」くらいは持っているでしょう。これを毎日1回は歌ってみましょう。え?「そんなものとっくの昔に捨てた」? 最近はピアノ伴奏つきのCDと楽譜がセットで2千円以下といった便利な商品もあります。命を維持するためのExerciseと思えば安いもんでしょう。畑中良輔先生は「コンコーネ50番(全音楽譜/750円)は声楽を志す人の一生の教科書である」といっておられます。至言です。年なら年で、それ相応の鍛錬と工夫によって若い時には歌えなかった歌を歌いましょう。

わが憧れのバーバラ・ボニーちゃんは最近白髪が目立ってきたけれど、一向に衰えを感じません。むしろまろやかな円熟を感じます。早稲田グリー出身の岡村喬生さんもご立派です。80歳になんなんとする今も現役のオペラ歌手として大活躍。4月に東京で定番の「冬の旅」リサイタルを開き、8月にはイタリアでかねて念願の改訂版「蝶々夫人」の上演を主宰されます。聖路加病院の日野原重明先生は今年100歳。されど10年日記を片手にスケジュールを繰り、階段を2段1歩で登り、聖歌隊の指揮もなさいます。まさに人生は「60〜70洟垂れ小僧(伝:渋沢栄一)」の時代なのです。

3)「洟垂れ」といえば今は花粉症の季節。昔は冬の小僧につきものだった水っ洟や青っ洟を最近はほとんど見かけず、代わって大人も子供も花粉症で大わらわ、大きなマスクが跳ぶような売れ行きです。ひどい日にはティッシュ1箱分の鼻紙を使う人もいるようですが、さっさと耳鼻咽喉科に行った方がよい。その時「最近は声もかすれる」と訴えることもお忘れなく。いろいろな治療をしてくれるはずですが、私の場合は早めの受診と投薬処方で、今年はアレルギーがぴたりと治まっています。また毎日のように吸入器治療に通ったせいか、痰のキレもよくなり、声もかなり若返った気がします。思わぬ副次的効果でした。

その他、08年12月NHKの「ためしてガッテン」で「中高年を襲う!謎のノド異変」という番組があったそうです。何でも、個人差はあるが、60歳以上の8割にこの異変―「声帯萎縮」―があるとのことです。その概要は次のURLで観ることができます。

http://cgi2.nhk.or.jp/gatten/archive/program.cgi?p_id=P20081203     

より詳しく知りたい方は下のウェブもチェックしてみてください。

「声帯萎縮」が高齢者だけに起きるものでなく、若者にも死をもたらす恐ろしい現象であること、またその予防と対策の具体的方法が如実に示されています。音声外来を専門とする東京医療センター(目黒区東が丘)耳鼻咽喉科の角田医師の講義も説得力十分で、色々とためになります。

http://www.kankakuki.go.jp/video_nhk.html

これを見て家内と一緒に朝夕の音声体操を始めました。とても簡単なことなので長続きしそうです。ただ、始めて1か月も経っていないので「ガッテン」できるかどうかはまだ分かりません。が「ためして」みる価値は十分ありそうです。

4)音読のすすめ ― 言わずもがなのことでしょうが、隠居したら歌うことの他にも、絶えず声を出していましょう。独り言では気味悪がられるので、新聞とか小説をアナウンサー風に、あるいは感情をこめて朗読しましょう。より積極的に、身体を動かせる方には近所の福祉センター等に「朗読講習会」なんてものがあるし、そうした講座を修了すれば、図書館で児童や視覚障害者を対象とした朗読会や対面朗読、あるいは音訳といった社会奉仕に参加することができます。すばらしいことです!(オザサ/3月3日)


Norio Maeda(1934- )

 GOOD‐BYE談義ジャズなんて歌わない人でも、前田憲男の名前はご存じだと思います。特にオーケストラ編曲の素晴らしさは日本では右に出る者がなく、ジャズ界では誰もが一目置く人物です。前田さんに編曲を頼むと、1時間半で書いてしまうという早業伝説があります。

現在は大阪芸大の教授をされています。

4年前、突然「前田憲男でございます」というメールが飛び込んで来ました。私のジャズサイトを見てのことです。
 

「Good Bye」ゴードン・ジェンキンス問題というのが再燃しています。どういうことかと申しますと、

私が半世紀ほど前、最初に聴いた「Good Bye」はベニー・グッドマン楽団の演奏でずっとこれがオリジナルだと思っていました。

ところが出版されている楽譜では演奏の最初の8小節が欠けています。

グッドマン楽団の全盛時代に録音されたもので当時は同楽団のクロージング・テーマとして全米で聴かれていたと想像しますが、この頭の8小節は誰が付け足したのかというのが疑問です。

これがグッドマンのレコードからの採譜です。前田さんが問題にしている部分は[A]の8小節です。このPartはグッドマンは終生吹き続けています。また、グッドマンを真似してレコーディングされたケースもたくさんありますが、彼らはこの8小節をBenny Goodman "part"と呼んでいます。Duke Ellington楽団もこのスタイルでレコーディングしました。

しかし、前田さんの言うとおり出版された譜面ではこの部分がありません。下の譜面が最初に出版された”Good‐bye”です。当時、75セントです。1ページだけお見せします。

”Good‐bye”という歌はものの本には1934年にGordon Jenkinsが作曲し、1935年にベニー・グッドマン楽団がレコーディングしたと書いてあります。

青木啓著「ジャズスタンダード」には「1934年にゴードン・ジェンキンスは”Blue Serenade”という曲を作曲した。これがベニー・グッドマン楽団のトロンボーン奏者レッド・バラードによってグッドマンに渡され35年から演奏された。その後、ジェンキンスが歌詞を書いて”Good‐bye”と改題した」とあります。

グッドマンの演奏が先にあり、歌詞をつけた”Good‐bye”はその後に出ていることがわかります。この話を前田さんに伝えると、

「返す返すも残念なのは、なぜ歌詞の工夫もせずにバッサリ8小節カットしてしまったかです。あれがあるのとないのとでは曲としての価値が全く変わってしまいます」

と言ってきました。こんな話題をめぐって前田憲男と夜な夜なメール交換をしていたところ、8ヵ月後のある晩に赤坂のジャズクラブでバッタリと出会ってしまいました。

「前田さん、私が『ゴードンジェンキンス問題』の若山です」

で仲良くなり、面白いピアノ演奏法や他所では絶対に聴けない「スキャット」まで歌ってくれました。余程、虫の居所がよかったと見えます。


Gordon Jenkins(1910-1984)

 ゴードン・ジェンキンスのサウンド前田憲男がアレンジにたけているという話をしましたが、Gordon Jenkinsのオーケストレーションは背中がぞくぞくするくらいのサウンドを作ってくれます。誰でも惚れ込むわけですが、あのフランク・シナトラが自分で興したレコード会社Reprise Recordsで、それまでのシナトラの歌を500曲ばかりレコーディングをし直していますが、”Triology”というアルバムでは過去・現在・未来をイメージした3枚組のレコードを出しました。

このバックの演奏の編曲を担当したのが、ゴードン・ジェンキンス、ネルソン・リドル、ドン・コスタという当代の名編曲家3人です。シナトラも凄いのですが、この3人の音も凄いです。特にゴードン・ジェンキンスは3枚目の「未来」を担当し、ミュージカル仕立てのアレンジは何ともいい音です。

ジュディ・ガーランドも、ナット・キング・コールもジェンキンスのMusicに惚れ込みました。

 ゴードン・ジェンキンス問題の顛末さて、上記の”Good‐bye”は、1934年に作曲とされていますが、実際はジェンキンスが21歳の頃(1931年)に書かれています。当時はIsham Jones楽団の編曲者として雇われていました。しかし、ジョーンズは「悲しすぎる」といって演奏しなかったのです。ジェンキンスはこの曲をそっとしまっておきました。

Isham Jones楽団がニューヨークで仕事をしている頃、ジェンキンスはベニ−・グッドマンとテニス友達として親しくしていました。グッドマン楽団は1934年にNBCに雇われ、“Let's Dance”というラジオ番組に出ることになりました。グッドマンはクロージング・テーマが欲しくて、ある日、このことをジェンキンスに話しました。

「何かいい曲はないかなぁ?」

ジェンキンスは“Good‐bye”を何小節かピアノで弾きました。グッドマンは興奮して「これだ!」と叫んだといいます。ジェンキンスはグッドマンのために”GOOD-BYE”を編曲しました。そして、この“Good‐bye”が1935年にラジオ番組“Let's Dance”ではじめて演奏されたというわけです。最初のレコーディングはRCA Victorです。ジェンキンスにとって最初の作品が1936年にはヒットパレード6位となってサプライズとなったのです。

ジェンキンスの息子であるBruce Jenkinsが2005年に父親の伝記Goodbye: In Search of GORDON JENKINSを出版しました。彼はスポーツ・ライターで音楽家ではありません。この本を書くにあたって、インタビューをして皆の知らない事実を話してくれたのがグッドマン楽団の専属歌手だったMartha Tilotonとその夫Jim Brooksでした。この350ページ余りの分厚い本に3行のセンテンスを見つけました

”As beautifully as Goodman played it, Jenkins's afterthought phrases became so integral a part of the Goodman arrangement.”

グッドマンの演奏も美しいのだが、ジェンキンスが追加したフレーズはグッドマンアレンジメントの中でまさに必要不可欠な(美しい)パートとなった。

これは、「ゴードン・ジェンキンス問題」の答です。

この評論は、もとは”American Popular Song : The Great Innovators, 1900-1950”の著者Alec Wilderが書いた評論です。つまり、もともとジェンキンスが書いた”Good-bye”に、ジェンキンス自身がグッドマンのために「後からあの8小節を追加した特製アレンジなのだ」と書いているのです。

 

ワイルダーは、意地の悪いジャズ評論家として有名な人ですが、奇しくも前田憲男と同じことを言っているのです。「あの8小節は無くてはならない」って言っているのです。前田さんも凄いけど、改めてワイルダーという人も凄いですねぇ。

前田さんからは「ついに、一件落着だな!」ってメールが来ました。4年越しの「ゴードンジェンキンス問題」でした。

 作曲の動機ジェンキンスは21歳の時にこの曲を書いたといいましたが、このコラムの最後に、ジェンキンスが誰のために書いたかお話しましょう。もちろん、グッドマンのために書いたのではありません。

ジェンキンスは若かりし頃、一人の女性と恋に落ちました。彼女は妊娠していたのですが、その時、2人はこれから何が起こるかを知るよしもありませんでした。結婚することが当然のことと思われていました。ところが、出産の日、母子はともに死んでしまいました。それで、この曲が生まれました。ジェンキンスの初作品です。

出だしの歌詞は”I'll Never Forget You”です。

この曲ができた状況を知るジョーンズが「悲しすぎる」といって演奏しなかったわけが分かるでしょう。

    


George Shearing(1919-2011)

 ジョージ・シアリング91歳で死去ロンドン生まれの盲目のピアニスト、George Shearingが先月、2月14日バレンタインデーに亡くなりました。

アメリカに1947年に移住し、49年に出した”September In The Rain”のレコードが大ヒットして有名になりました。50年にできたニューヨークのジャズクラブ、Birdlandにちなんで”Lullaby Of Birdland”を作曲しスタンダードになりました。いずれも合唱団の人たちには馴染みは少ないと思いますが、どうせ馴染みがないのならば、皆さんがおそらく聞いたことも見たこともない”Here's To Life(人生に乾杯!)”という歌のピアノ伴奏を93年にしています。歌っているのはJoe Williamsという大ジャズ歌手ですが、昔からよく真似して歌った歌がいくつもあります。

”Here's To Life” by Joe Williams(vo) George Shearing(pf)

を聴いてみてください。(わかやま/3月3日)