Editor's note 2011/1

 紅葉が散り一気に冬景色になる。と、いつの間にかサザンカが咲き、殺風景な風景に彩りを添える。そして寒椿から本物の椿へと季節が移ろう。この時期は歳末から年始、そして新年度への切り替えで何かと気忙しい毎日だが、同時に、昔のことをしきりに想い出させる何かがある。
 

  とりわけ、今とはすっかり様子を異にする子供時代が懐かしい。自由が丘駅から北西に7分。70年も前の自宅周辺にはまだたくさんの農地があり、毎冬そこは雪原と化して格好の遊び場となった。雪だるま作りに飽きれば雪合戦になり、それにも飽きれば凧揚げに熱中した。

凧は手作りで、銘々工夫して毎年違う形の凧を作るのが楽しみの一つであった。僕は奴凧で、その図柄を毎年「桃太郎」や「フクちゃん」に変えて得意がったが、近所の百姓家の兄弟が作る単純でも大きくて豪快で、揚がればあがるほど見栄えのする四角凧に人気が集中し、口惜しかった。

でもある時、その弟が足を滑らして肥溜に落ちた。<ざまーみろ、凧が大き過ぎたのだ!>といいたかったが、傍にいる強そうな兄ちゃんの手前もあり、一緒になってその子の身体や衣服を洗ってやった。井戸水は意外にも温かかった。

  誰が雪かきをしたのか。そこかしこで羽根つきが始まる。戦前は自動車なんかめったに通らない。正月ともなれば娘たちは皆振袖を着て華やぎ、袂の揺れを抑えて羽根を追う。その時あらわになった腕の白さがまぶしかった。隣家の垣根には、雪の中から紅椿が美しく顔をのぞかせていた。

双六とかカルタ取りは男女一緒の遊びである。いろはガルタは人気がなく百人一首が盛んで、小学生でもその全てを諳んじていた。そればかりでなく、密かに「むすめふさほせ」等、最初の一音で札をとる練習も怠らず、闘志を燃やして紅白対抗に備えた。それでもいつも姉たちには負けた。

こうして子供たちは楽しい日々を過ごし、大晦日には恒例のゆず湯につかり、九品仏から聞こえる除夜の鐘を聞きながら寝についた。その反面、親たちは今とは比較にならないほど大変だったと思う。何しろいつもは泰然としている先生さえ走り回る「師走」のことだ。

「大晦日に店がいつまでも閉まらないのは銀行と床屋」といわれていたが、事実、銀行勤めの父は深夜帰宅が常であったし、母は夜を徹して台所で立ち働いていたらしい。それでも子供たちにそんな気配を感じさせることはなかった。元旦の朝には両親共に威儀を正して子供たちの年賀を待ち受け、皆が揃うと上機嫌で屠蘇とお節料理を振るまい、ピン札の入ったお年玉をくれた。
 


劇場のMarie Duplessis
(1824-1847)
実在した椿姫のモデル

 母は活花が得意だったが「花ごとポトリと落ちる椿は縁起が悪い」といい、正月用の盛花に椿は決して用いなかった。それにもかかわらず、この花が好きになったのは、ヴェルディーのオペラ「椿姫(原作:A. Dumas fils, “La Dame aux camelias” /1848)」の哀愁をおびた美しい前奏曲と関係がある。

そのマンドリン・オーケストラ用の編曲を、父はよく正月休みに爪弾いてくれた。大正時代、それは塾マンドリン・クラブの演奏会定番の曲だったらしい。彼はそれを全て暗譜で弾いた。子供心に私はその時の父の表情を見つめるのが楽しみだった。いつもの強面や表情を変えぬ謡曲の時と違い、この時ばかりは何ともいえぬ穏やかな面持ちになり、やさしかった。それが私を洋楽に惹きつけた一つのきっかけでもあったと思う・・・・・

それから幾星霜。「椿」が咲く頃になると、今でも「椿姫」を連想し、そこからさらに、古き想い出を辿る。

カラス、テバルディ、スコット等の名演もあるが(何れもCD)、最近は専らDVDを観る。今年はアンジェラ・ゲオルギューのミラノ・スカラ座での名演(07年/指揮:ロリン・マゼール)を堪能した。

その華麗でありながら清純さを失わない歌唱力と演技は見事なものだが、画面の動きはいつしか背景に退き、眼前には儚く散った椿姫たちや、きりきりと働くオフクロの姿、オヤジの微笑み、それに笑いさんざめく子供たちの姿が浮かんでくる。そして想いはまるで天国にいるような至福の境地に至る。

 考えてみれば世界は大きく変わった。東京の雪景色は絶えて久しく、子供たちの遊びもすっかり変わり、正月に近所の公園に行っても、凧揚げや羽根つきに興じる子供たちの姿はまばらであった。


孫たちと凧揚げ

それでも、いつまでも変わらぬものがある。椿たちは今でも健気に公園や街路に昔と変わらぬ花を咲かせ、椿姫たちも変わらぬ歌を、歌い継いでいる。想い出にふけるだけの人生は空しいが、よい想い出は一生の宝である。誰でも1年に一度くらいはその世界に遊ぶ日があってもいい。

そういえば椿の花言葉は「控えめな愛」と「謙遜」だそうである。愛と謙譲の徳が永遠の価値を秘めているように、想い出が、この世に生を享けた者たちの、不滅の命の灯とならんことを!(オザサ/1月17日)


J.W.Forrester
(1918-2016)

 成長の限界1972年『成長の限界―ローマクラブ「人類の危機」レポート』は人口の爆発、環境の悪化、資源の枯渇により人類は21世紀に危機を迎えるとうシナリオを発表しました。これは「地球規模の方策を打たないと人類は滅びるぞ!」という人類への警鐘でした。

1961年にMITのJ.W.フォレスター教授が「Industrial Dynamics」という本を著しました。産業や企業の活動をフィードバックを含んだ微分・差分方程式でモデル化し、シミュレーションによりシステムの挙動を解析しようという手法であります。フォレスターの専門は制御理論であり、制御モデルを社会システムに持ち込んだもので、当時、目新しい考えでした。われわれ管理工学科の学生はこの本に飛びついたものです。
 

その後、問題の対象は「Urban Dynamics(都市ダイナミックス)」へと進み、やがて「World Dynamics(世界ダイナミックス)」と呼ばれる地球規模のモデル解析へと進み、ローマクラブからの研究委託を受けて、フォレスターの弟子のDennis Meadowsらが「世界モデル」のシミュレーションを実施しました。その後、「システム・ダイナミックス」として、この方法論が確立されていきます。

「世界モデル」のシミュレーション実験の前提としては、60年代の人口の増加率がそのまま進み、石油をはじめとするエネルギー資源は新たには開発されず、工業技術も革新されないといった仮定を置いていました。最悪の前提です。そうすると、人口増加により食糧不足となり、地球上はゴミだらけとなり破局が訪れるというものです。2010年から2020年にその破局が始まるという結果が出ました。

彼らは条件をいろいろと変えて実験を行ったのですが、いずれも2100年を待たずして人類は短期間のうちに急激な減少をまねくことが予測されました。

それから40年が過ぎました。この研究を行ったグループは、40年間の間には破滅のサイクルから抜け出る知恵や技術、国際的合意や政策の実現、人間社会のシステム変革がなされるだろうと期待していたのですが、それは楽観的過ぎたといっています。

確かに先進国では人口増加率は減少しましたし、環境破壊もある地域では改善されたかのように見えます。多摩川にもアユが上がってきました。しかし、蓄積された汚染は無くなったわけではありません。発展途上国ではどんどん工業化が進み、環境も悪化の一途をたどっているのです。

カタストロフィーは前ぶれもなく突然であるかのように起こります。
 


Isham Jones(1894-1956)

 STARDUST夜話(続)11月号に”Stardust”をルイ・アームストロングが1931年に吹き込んだ話をしました。その続編です。

1930年、作曲家で楽団リーダーのアイシャム・ジョーンズはビクター・ヤングに”Stardust”をミディアム・テンポのインストゥルメンタル・バラードに編曲するように促し、ヤングはそれを受けて編曲しただけでなく、バイオリン・ソロでアイシャム・ジョーンズ楽団のレコーディングにも参加しました。このレコードはベストセラーになりました。

スターダストはどれだけラジオから流れて来たことか知れません。歌はナット・キング・コールのものが定番でしたが、演奏ものといえば、このレコードがかけられていたのです。

年輩の方は、この演奏を聴けばどこかで聞いていたことを思い出すかも知れません。では、聴いてください。

⇒ Stardust by Isham Jones Orchestra, 1930

この演奏に触発されてサッチモは自分のレコーディングを行ったような気がします。聴き比べてみて「なるほど、そうだったのか」と共通性を感じるところがあります。

ホーギー・カーマイケルの書いた”Stardust”をビクター・ヤングが編曲をし、アイシャム・ジョーンズ楽団がレコーディングしたという話は興味深い話です。Isham JonesとGus Kahnの歌で”I'll See You In My Dream”があります。1924年と古い歌です。


 

 年頭の一枚今年の題材は地球の裏側アルゼンチンのブエノス・アイレスの議事堂です。

23年前の写真が取ってありました。ここはタンゴの都、生のタンゴバンドを見に行って、お尻が浮き上がる思いでした。レオポルド・フェデリコ楽団という有名バンドが出ていました。

この議事堂はCongres Nacionalといいます。ドームがほっそりとしていて特徴的なフォルムです。画像をクリックで詳細が。

6日の毎日新聞でしたか、第一面に「社会は論理的思考のできる、問題解決が図れる人間を必要としている」と書いてありました。その通りなのですが、改めて、新聞記事に書かれているのにはびっくりしました。今頃、何を寝ぼけたことをいっているのでしょう。慶應義塾は1950年代半ばに他大学に先駆け計測工学科や管理工学科などを設置し、そういう人間を育成してきました。それだけなく、湘南藤沢キャンパスには文科系学部ながら同じ目的を果たす人材を育ててきました。楽友会にも件の人材が大勢います
 

 パクさん死去そう言っている1月7日、ダークダックスのパクさん(高見沢宏)が心不全で亡くなりました。77歳でした。ダークダックスを育てたのは小島正雄さんですが、息子の小島 恂さんが第一報をくれました。

1951年結成のダークダックスは今年で満60年を迎えます。結成以来メンバーが変わらずに、これだけの年月を続けてきたのは世界でも稀で、ギネスブックの記録となっています。池田龍亮が大好きなフォーフレッシュメンは今年で63周年ですが、現在のメンバーにはオリジナル・メンバーは誰もいません。息子位の年代のGroup #22がツアーをしています。パクさんのご冥福を祈ります。(2011/1/17・わかやま)


編集部注: 編集ノート12月号で主幹が「今は深夜といえども光が充満」と書いています。どのくらい充満しているかを一目で見られる夜間世界写真があります。昨年亡くなったロサンゼルスの有名人から、山内彦太君(9期)の所に送られてきたものです。
http://www.ozsons.com/EarthLight.htm

今月号は発刊が10日ほど遅れました。編集部の爺さん、連日のお葬式で遠方に出かけたり、風邪引いて頭がボケたりしていました。ご容赦!

1月10日は福澤先生の誕生日でした。