しかし、脚の痛さは消えることは無い。ずーっと痛いばかりである。座って瞑想をするとか、頭を空にするなんて到底できるものではない。半眼に閉じた脳裏には妄想が次々と沸いてくる。ついに1週間痛い脚をさすり続けたのである。
両窓側の畳のところに隣の人と適当な距離を置き、薄い座布団を敷き、枕のような坐蒲を尻にかって座るのだ。これで背筋が真っ直ぐ伸びる。
昔は、写真のように板の間の真ん中の畳はなかった。おそらく半日、一日の参禅会に大勢の人が押し寄せるものと思われる。大勢来ることはいいことだ。
50年前は円覚寺の管長は朝比奈宗源師だった。師は「煩悩をなくすことは出来ない。整理をすればよい」と教えた。悟りを開いた人間が発した言葉だ。煩悩とは何かを知らない人間には、朝比奈管長の言葉はどう聞こえたのだろう。私のスキーの師匠である岸 英三は今年88歳になったが、85歳の時にこんなことを書いている。
「人間らしく生きようなどと、『人間とは何か・・・』分からない奴が言っているから不思議である」
不味い飯・美味い飯:朝は暗いうちに起きて座る。それから朝食となる。飯は自分達の当番制で作る。朝食は麦の入ったお粥と味噌汁と沢庵だけ。下手な奴が作ると何でもまずい。後片付けをしてまた坐禅。後片付けといっても、流しで食器は洗わない。白湯で茶碗やお椀や箸についたものを綺麗に流すように洗って胃袋に飲んでしまう。そして、布巾で拭いて包んで棚の上に片付ける。
午前中には境内の掃除をする。円覚寺とは広い境内で有名なところだ。しかし、掃除をするのは脚が痛くないので極楽である。座っているより掃除している方が気持ちがいいから、山門の外側まで綺麗に掃いたものだ。午後にも座り、夜にも寝るまで座る。
要するに1日中座っているようなものである。だから、1日中脚の骨が痛い。
ある日、私に食事当番が回ってきた。みんなにうまいものを食おうと提案をした。誰もがそう望んでいた。私はカレーライスを作ることにした。と言っても、家で作ったことなど無い。昔のことで、ボンカレーもないしカレーのルウの売っていない。
誰に聞いたらいいのだ。門野篤ちゃんに電話して作り方を聞いた。まず、小麦粉を炒るのだ。それにカレー粉を混ぜる。牛肉やたまねぎも買ってきて、それでみんなに美味しいカレーライスを作り、般若湯と称して酒も用意してやった。道場主も私のやることを見て喜んでくれた。当たり前だよ。誰だってわざわざ不味いものを食いたくない。
若いうちにいい姿勢を:こうして1週間が過ぎた。帰りの横須賀線の車中で背筋がピンとして一番姿勢よく座っているのは私だった。姿勢をよくするということが「こんなに気持ちのいいものだ」と初めて知った。内臓の位置が理想的になり、身体に変なひずみがなくなるのだ。健康に日々を送る最も簡単な方法なのだ。われわれは机に向かって悪い姿勢で作業していることが少なくない。これは気持ちが悪くて仕方が無い。50年前から姿勢をよくすることの効用を私の身体が知っている。電車で尻がずっこけたひどい姿勢で座っている者がいる。長い脚が人の邪魔になるし、こいつらの内臓はその内腐ってしまうぞ。
お釈迦様は何年も座って悟りを開いたというが、凡人には悟りは遠く、ただ痛い目に遭っただけだ。でも、それでいいのだ。若い人たち、嘘だと思ったら1泊でもよい行ってみてごらん。
2年目は大の親友、鈴木光男(憶えていますか?)を同行した。読経のときに2度でハモった。長2度でも短2度も何でもござれだ。ぶつかっている音は読経には微妙ないい響きになるのだ。ユニゾンはつまらない。ミラシドでハモッてごらん。お経は般若心経である。若い人たち、嘘だと思ったらお経で試してごらん。
私の回りでは、腰を痛くするおじさんが次々と出てくる今日この頃である。ギックリだとかビックリだとか。おじさん達には坐禅をしても、もう遅いのだよ!若い人たち、若いうちだよ、何事も。(12/7
わかG)