Editor's note 2010/7

花菖蒲(古希の色)

 近時片々 その一アッちゃんが「実は、昨年夏ごろより、自慢の足が言うことを聞かなくなってきた。私もとうとう古希の声が聞こえるあたりに来てしまったので、年をとるということはこういうことかと思い知っている(リレー随筆「讃岐うどん初体験」より)」と書いた。
 

そうか、あの無邪気な笑顔と美声で先輩たちを魅了した歌姫も、ついに老境に達したか、と感無量である。思えば遠くまで来たものだ。華やいで、はしゃぎまくり、歌いまくっていた学生時代の合宿風景がフトよみがえる。あのアッちゃんが中学生の孫もいる立派なdie Oma(おばあちゃん)になったくらいだから、こちらが老醜をさらす身となるのもやむを得ざる時の流れだ。

そういえば昨年の春、上野で開かれた「福沢展」を見学した時「わたし、古い本をどんどん処分しているの。後の人が大変だと思うから」とのたもうた事を思い出す。その時<そうか。過去を捨て去っていくことが老いの流儀なんだ>と強く共感したものだ。

そしてそれ以来、自分もどんどん古い物を整理することにした。殊に本は、最近ではどこの図書館も充実してきて、よほど思い入れの深い書物でない限り私蔵しておく意味がない。そこで暫く手にしていない図書は原則として放出することにした。そして後で<アッ、あの本は?アァ、もう少しとっておけばよかった>と後悔している。部屋や本棚がスッキリしてきたのはいいが、心の内は何となくもやもやしている。長引く梅雨のせいだろうか?

 その二舟山君が「マンドリンクラブ創部100年記念コンサート」の模様を伝えてくれたのは嬉しかった。親父がマンクラ出身だったので、この記念行事に格別な関心があったからである。

大正13年に理財科を卒業して鴻池銀行(今の三菱東京UFJ銀行)に入行してからも、父はマンドリンだけは手放さず、その愛器は戦禍もくぐり抜け、19年前に他界するまで家にあり続けた。

父が亡くなり、母を引きとってその家を処分することになった時、私は随分冷淡だったと思う。あえて感傷に溺れまいとする気もちもあったが、忙しい毎日だったから、できるだけ短時日で片付けたいという焦りもあった。そして、その懐かしいマンドリンをたくさんのSPレコードや楽譜や蔵書や写真のほとんどと一緒に古道具屋に渡してしまったのである。

父の享年に近づいた今、実に心ないことをしたと慙愧の念に耐えない。せめてもの慰めに舟山君の記事と写真を熟読し、ある名手が奏でるマンドリンのCDを聞きながら、2枚だけとり置いたゆかりの写真を飽かず眺めた・・・。


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それは父が就職の頃、神戸在住のマンクラOBたちと組んだアンサンブルの記念写真だと聞いた覚えがある。裏に“After the Concert of the Kobe Prectolum Society at the YMCA Hall in Kobe - Dec. 1923”と記してあった。今は亡きこれらの先輩たちも、きっと天界で後輩たちの百年の活躍を喜びあっていることだろう。

 その三このホームページを始めて今日で満2年。カッパ(9期の若山)の強力なサポートを得て、「楽友」は全会員を結ぶ強力なコミュニケーション・ツールに育ちつつある。特にカッパは情報工学の分野で優れた識見と長年の経験があるから、セキュリティー対策や統計処理などに、万全の配慮と最新技術で対応してくれる。だからこちらは安心してデータの収集や記事の編集に専念することができる。その結果、トップページの「ビジター数グラフ」に見られるように、その数は年々着実に増加している。特に今年に入ってからは毎日百人前後のアクセスがある。ありがたいことである。だが寄稿者は依然として少ない。

最初はごく手軽なブログ風のウェブとして公開した。だがその後すぐに「公式化せよ」との話があり、それに応じることになった。それを決めた代表幹事会で、浅海直之君(13期)が次のような発言をしてくれたことが忘れられない。

「公式化する以上、我々幹事にはこのホームページを発展させていく義務がある。ぜひこれを活用するよう率先垂範して多くの記事を集め、活発な意見交換の場としようではないか!」

その言やよし。有言実行で、彼は早速一文を寄せてくれた。ところが一読して当惑した。皆に檄をとばしてくれるのはよいが、それは末尾のほんの僅か数行で纏められているに過ぎず、その前文は編者に対する大変なほめ言葉で埋められていたからだ。「過分なおことば」というより編者としては身の縮むような、体中がこそばゆくなるようなお世辞(compliment)と思えた。

アメリカ人なら“Thank you for the compliments!”とか言って、すぐニコニコと全文掲載するところだろうが、日本人の感性としてはそうはいかない。で、失礼ながら全文ボツにしてしまった。

<浅海君、それで怒ってる?その後全然原稿がこないねー。そろそろ許してよ!君の言ったことは正しい!皆の協力がなきゃこの「公式」ホームページは成り立たない!!!

今、新会長の深井君が、必死になって「規約改正に対する意見」とか「ファミリー・コンサートの企画委員」の募集を呼びかけているでしょ。楽友会は今まさに転換期にある!ぜひ君個人の意見や、同期の人たちの意見公開を、積極的に進めてよ!ネ、頼む!!!!!>。 (オザサ/7月7日)


Buena Vista Social Club

 ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ6月20日頃、アメリカのYahoo Newsに忘れ去れそうな名前が出ていた。ニューヨークを皮切りにアメリカ、ヨーロッパをツアーするというニュースである。驚きましたねぇ。

1996年にロサンゼルス出身のギタリスト、ライ・クーダー、Ry Cooder がキューバを訪れ、国外では名も知られぬ昔のミュージシャン達とセッションを行なった。これがきっかけとなって、レコーディングされ97年にCDがリリースされた。これが世界的なヒットとなった。
 

99年にドキュメンタリー映画「Buena Vista Social Club」が制作され、日本では2000年に公開され、2001年には来日し国際フォーラムを満員にした。

ライ・クーダーという1人のロックのギタリストがキューバの老人ミュージシャンの名を世界中に知らしめてしまったのである。最年長者はコンパイ・セグンドという92歳の元気な爺さんだった。「7人目の子供を作りたい」にはたまげた。

誰が生きているのだろう。ホームページを調べてみると5人のメンバーが亡くなっていた。随時、新しいメンバーを補充してきたようだ。彼らのCDのトップを飾る歌がある。皆さんにはYou Tubeに出ているビデオで紹介しよう。

 

このクリップの中には映画の場面が沢山出てくるが、オートバイを運転しているのがライ・クーダーである。もちろんステージでもギターを弾いている。この映画は感動的であった。よくぞキューバの老ミュージシャン達の姿と素朴な音楽を残してくれたものだ。同名のDVDがタダみたいな値段でAmazonで売られている。けがれを知らない老天使たちの無邪気で色気たっぷりの歌声を聴いてみるがよい。

今年2月の編集ノートでアメリカの老人ロックコーラス隊「Young@Heart」の紹介をしたが、これは「アメリカのブエナ・ビスタ」じゃないか。

 日本にだってブエナ・ビスタブエナ・ビスタ以来、日本でも1人ずつ消えていく過去のミュージシャンを集めてブエナ・ビスタの日本版を作る人はいないのかとかねがねいい続けてきた。誰もやらない。みんな死んでしまうよ。そういうプロデューサーが日本には既にいないのであろう。

若い頃に富士スピードウェイを走っていたレーサーの後藤さんは50歳になったばかりの若者であるが、われわれ以上に古いことに興味を持ち、その知識も半端ではない。その若者が80にもなる爺さんミュージシャンと親しく付き合って久しい。

2008年の11月のことである。後ちゃん(ごっちゃん)から珍しいライブをやるので「是非来てください」と連絡があった。六本木のAll of Me Clubというライブハウスで「Platinum Jazz Night」という爺様ミュージシャンを集めてのライブをプロデュースするのだという。年寄りには「シルバー」という語が使われるのが通常だが「プラチナ」ときた。後ちゃんらしい。

私は所用があって遅い時間になって駆けつけた。これはまさに「ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ」であった。その模様は⇒Platinum Jazz Night

後ちゃんに初めて会ったのは10何年か前のことになるが「この人とお友達になるのは大変そうだな」が初対面の印象だった。エルビスのようなモミアゲで長髪のお兄さんだった。それが年が20も違うのに親しい友達になってしまった。人は見かけではない。後ちゃんは何を隠そう、われわれオージーサンズの大のお友達なのである。

 後日談ブエナ・ビスタのニュースが出た2,3日後に「Visaが遅れてNYでのコンサートは中止」だという。どうやらシカゴ、ロスで先にやり、ヨーロッパに行く。帰りにニューヨークに寄るらしい。25回のコンサートツアーだという。

早いもので「楽友」は今日から3年目に入った。このサイトは楽友会のブエナ・ビスタが発信している。(わかやま/7月7日)


編者注: Buena Vista Social Clubは1940年代にハバナに実在した会員制音楽クラブの名称で、この老ミュージシャン達がそのメンバーだったという。Buena Vistaはスペイン語で「絶景」という意味で、年寄りという意味はない。いかにもブエナ・ビスタは老人の代名詞のように使っているが、そうではないことをお断りしておく。

小笹主幹が私の専門は情報工学といわれるが、それを認めると情報工学の専門家達が「お前なんかOR屋じゃねぇか」というに決まってる。でも、1972年のNHK「コンピュータ講座」で講師をしていたことがある。ORって何だ?は面倒くさいから、素人には「コンピュータの先生」で通してしまう。(カッパ)