重病にあえぐ父に、その死を予感して差し出した次のような手紙(1787年4月4日付)がある。モーツァルトはこの時31歳であった。
<安心のできるようなお知らせをお父さん自身からいただくのを、どんなに待ちこがれているか、申すまでもないことです。きっとそんなお便りが、いただけますね。もっとも私は、何ごとにつけてもいつも最悪のことを考える習慣を身につけたのです。死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最良の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています!そして、神さまが私に、死が私たちの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、私の神に感謝しています。私は(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人は、いないでしょう。そしてこの幸せを私は毎日、私の創造主に感謝し、そしてそれが私の隣人一人一人にも与えられるよう心から願います(ペトロ・ネメシェギ著「カトリックとモーツァルト」/岩波書店「モーツァルト(I)−人間モーツァルト」から)>。
父レーオポルトはその「最悪の」ケースをたどり、翌5月28日ザルツブルクで帰天した。享年67歳であった。しかしモーツァルトは見舞いにも葬儀にも行けなかった。この手紙を書いた頃、自分も死の危険をともなう重い病にかかって体調を崩していたし、一方ウィーンでは貴族社会から見放され、自主企画の音楽会も家計も破綻をきたしていた。その窮状を打開するため、必死の思いで「ドン・ジョヴァンニ」その他の作曲に専念せざるを得なかった。とても往復6日かかる馬車の旅をするゆとりはなかったのだ。だがその苦衷は、短調系の作品に顕わである。
22歳の時、パリで母アンナ・マリーアを看取った時の哀しさはK.304のヴァイオリン・ソナタ(ホ短調)とK.310のピアノ・ソナタ(イ短調)に滲み出し、この度は、弦楽5重奏曲第4番(ト短調/K.516/1787年5月)にその思いが迸り出ている。小林秀雄が「疾走するかなしみ」と評したこの第1楽章(Allegro)の激しい情動はつとに有名であるが、私はむしろその第3楽章(Adagio
ma non troppo)の静けさに心うたれる。
全曲にただよう悲愴な激情は各楽器に弱音器をつけたこの楽章で潜められ、静謐な惻隠の情を伝える。ヴァイオリンとチェロとの対話は父子の心の通い路でもあったろうか。そうして浄化された魂は第4楽章で天国的な至福の思いに飛翔し、曲想は抜けるような明るいト長調に転じて曲を閉じる・・・これこそ前掲の手紙の音楽的表象ではなかったか。
そしてモーツアルトは4年後の自らのレクィエムに向かって歩を進め、比類ない名作の数々を生み出していく。
だがその晩年の大作「ドン・ジョヴァンニ」、「交響曲・ジュピター」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「第27番クラヴィーア協奏曲」、「魔笛」等の間を縫うように作曲された、珠玉の小品を見落とすことはできない。
特に“Das Veilchen(すみれ)”ということばをもつ創作リートに心奪われる。モーツァルトはこの素朴で小さな花に、特別な親近感を懐いていたのではないか。これらは詩の情感を芸術性豊かに表現する、いわゆるドイツ・リートの先駆けとなった作品群の一部である。
その最初が1785年6月に作曲されたゲーテの詩による劇的歌曲(K.476)である。ゲーテが花に寄せたバラードではシューベルト、ヴェルナー、メンデルスゾーン等、ロマン派の音楽家が競って作曲した「野ばら」が有名だが、モーツァルトがとりあげたのはこの「すみれ」であり、他の詩には目もくれていない。
前者は少年が小さな赤い「野ばら」を手折ってしまう情景だが、後者は牧場に咲いた一輪の紫色の「すみれ」が、乙女に踏みにじられてしまう場面である。たとえ踏みにじられても「すみれ」は恨まない。むしろその足許に息絶えたことを喜ぶ。この両曲の違いは赤と紫(violett)の色の対比を考えただけでも明瞭である。紫は複雑な心理の綾を描出するにはうってつけの色彩でもあったのだ。
この作品を聞いてゲーテはとても喜んだという。ゲーテは14歳の時、フランクフルトに滞在した7歳のモーツァルトと連奏し、熱烈なファンになっている。だからモーツァルトが少し原詞のことばを変えたり、最後に「かわいそうなすみれ!それはほんとに可愛いすみれだった。」というフレーズを加筆したこともお構いなしだったようである。
そのちょうど2年後に再び「すみれ」が花開く。1787年は「歌曲の年」といわれているが、6月24日に完成した「夕べの想い(K.523/ヘ長調)」という曲にこれがある。この歌は人生の終りを夕べに見立て、「私は巡礼の人生の旅を終え、太陽が沈むように過ぎ去ってゆく。その時、一本のすみれを摘み、一滴の涙と共に私の墓に手向けてくれ」と友に頼む、哀しみに胸締めつけられるような曲である。父レーオポルトがこの歌を聞いたかどうかは分からないが、亡くなったのはこの曲ができた4日後のことである。
さらに。モーツァルト自身が死を迎える1791年のこと。1月に作られた最後の3曲―「春への憧れ(K.596/ヘ長調)」、「春の初めに(K.597/変ホ長調)」、「子どもの遊び(K.598/イ長調)」―その全ての曲に「すみれ」が清楚な色を添えている。この3曲は「子どもと子どもの友」の為に書かれた愛らしい歌曲集だが、そこにモーツァルトの全てが凝縮されているように思えてならない。
「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(ルカ:18/17)」。これはイエスのみことばだが、その意味でモーツアルトは永遠の子どもであったと思う。若くしてこの世のあらゆる苦しみや悲しみにさいなまれながらも、その音楽は常に喜びと感謝に満ちあふれている。そしてその根底にあったのが、神の愛と許しを信じる、子供のように純粋な信仰であった。
子どもは親の言うことを決して疑わない。「これはサンタクロースがくれたご褒美だよ」といわれたらその通り信じている。モーツァルトはそのように神のことばを生涯信じきっていた。 |