Editor's note 2010/6

 時の移ろいは早く、可憐な花々はいつの間にか目にも鮮やかな木々の緑に覆われ、やがて灼熱の太陽に焦がされてその形影を隠す。再び春のめぐってくるその日まで。だが人生に再びの春はない。その悲哀や無常を一入ひとしお 深く感じるのが晩年を過ごすものの春である。けれどもモーツァルトの音楽を聴いたりその膨大な書簡を読んだりしていると新しい希望が湧いてくる。

重病にあえぐ父に、その死を予感して差し出した次のような手紙(1787年4月4日付)がある。モーツァルトはこの時31歳であった。

<安心のできるようなお知らせをお父さん自身からいただくのを、どんなに待ちこがれているか、申すまでもないことです。きっとそんなお便りが、いただけますね。もっとも私は、何ごとにつけてもいつも最悪のことを考える習慣を身につけたのです。死は(厳密に考えて)われわれの一生の真の最終目標なのですから、私は数年この方、人間のこの真の最良の友ととても親しくなって、その姿が私にとってもう何の恐ろしいものでもなくなり、むしろ多くの安らぎと慰めを与えるものとなっています!そして、神さまが私に、死が私たちの真の幸福の鍵だと知る機会を(私の申すことがお分かりになりますね)幸いにも恵んで下さったことを、私の神に感謝しています。私は(まだこんなに若いのですが)もしかしたら明日はもうこの世にいないのではないかと、考えずに床につくことは一度もありません。それでいて、私を知っている人はだれ一人として、私が人との交際で、不機嫌だったり憂鬱だったりするなどと、言える人は、いないでしょう。そしてこの幸せを私は毎日、私の創造主に感謝し、そしてそれが私の隣人一人一人にも与えられるよう心から願います(ペトロ・ネメシェギ著「カトリックとモーツァルト」/岩波書店「モーツァルト(I)−人間モーツァルト」から)>。

 父レーオポルトはその「最悪の」ケースをたどり、翌5月28日ザルツブルクで帰天した。享年67歳であった。しかしモーツァルトは見舞いにも葬儀にも行けなかった。この手紙を書いた頃、自分も死の危険をともなう重い病にかかって体調を崩していたし、一方ウィーンでは貴族社会から見放され、自主企画の音楽会も家計も破綻をきたしていた。その窮状を打開するため、必死の思いで「ドン・ジョヴァンニ」その他の作曲に専念せざるを得なかった。とても往復6日かかる馬車の旅をするゆとりはなかったのだ。だがその苦衷は、短調系の作品にあらわである。

22歳の時、パリで母アンナ・マリーアを看取った時の哀しさはK.304のヴァイオリン・ソナタ(ホ短調)とK.310のピアノ・ソナタ(イ短調)に滲み出し、この度は、弦楽5重奏曲第4番(ト短調/K.516/1787年5月)にその思いがほとばしり出ている。小林秀雄が「疾走するかなしみ」と評したこの第1楽章(Allegro)の激しい情動はつとに有名であるが、私はむしろその第3楽章(Adagio ma non troppo)の静けさに心うたれる。

全曲にただよう悲愴な激情は各楽器に弱音器をつけたこの楽章で潜められ、静謐せいひつ惻隠そくいんの情を伝える。ヴァイオリンとチェロとの対話は父子の心の通い路でもあったろうか。そうして浄化された魂は第4楽章で天国的な至福の思いに飛翔ひしょうし、曲想は抜けるような明るいト長調に転じて曲を閉じる・・・これこそ前掲の手紙の音楽的表象ではなかったか。

 そしてモーツアルトは4年後の自らのレクィエムに向かって歩を進め、比類ない名作の数々を生み出していく。

だがその晩年の大作「ドン・ジョヴァンニ」、「交響曲・ジュピター」、「コシ・ファン・トゥッテ」、「第27番クラヴィーア協奏曲」、「魔笛」等の間を縫うように作曲された、珠玉の小品を見落とすことはできない。

特に“Das Veilchen(すみれ)”ということばをもつ創作リートに心奪われる。モーツァルトはこの素朴で小さな花に、特別な親近感を懐いていたのではないか。これらは詩の情感を芸術性豊かに表現する、いわゆるドイツ・リートの先駆けとなった作品群の一部である。

その最初が1785年6月に作曲されたゲーテの詩による劇的歌曲(K.476)である。ゲーテが花に寄せたバラードではシューベルト、ヴェルナー、メンデルスゾーン等、ロマン派の音楽家が競って作曲した「野ばら」が有名だが、モーツァルトがとりあげたのはこの「すみれ」であり、他の詩には目もくれていない。

前者は少年が小さな赤い「野ばら」を手折ってしまう情景だが、後者は牧場に咲いた一輪の紫色の「すみれ」が、乙女に踏みにじられてしまう場面である。たとえ踏みにじられても「すみれ」は恨まない。むしろその足許に息絶えたことを喜ぶ。この両曲の違いは赤と紫(violett)の色の対比を考えただけでも明瞭である。紫は複雑な心理の綾を描出するにはうってつけの色彩でもあったのだ。

この作品を聞いてゲーテはとても喜んだという。ゲーテは14歳の時、フランクフルトに滞在した7歳のモーツァルトと連奏し、熱烈なファンになっている。だからモーツァルトが少し原詞のことばを変えたり、最後に「かわいそうなすみれ!それはほんとに可愛いすみれだった。」というフレーズを加筆したこともお構いなしだったようである。

そのちょうど2年後に再び「すみれ」が花開く。1787年は「歌曲の年」といわれているが、6月24日に完成した「夕べの想い(K.523/ヘ長調)」という曲にこれがある。この歌は人生の終りを夕べに見立て、「私は巡礼の人生の旅を終え、太陽が沈むように過ぎ去ってゆく。その時、一本のすみれを摘み、一滴の涙と共に私の墓に手向けてくれ」と友に頼む、哀しみに胸締めつけられるような曲である。父レーオポルトがこの歌を聞いたかどうかは分からないが、亡くなったのはこの曲ができた4日後のことである。

さらに。モーツァルト自身が死を迎える1791年のこと。1月に作られた最後の3曲―「春への憧れ(K.596/ヘ長調)」、「春の初めに(K.597/変ホ長調)」、「子どもの遊び(K.598/イ長調)」―その全ての曲に「すみれ」が清楚な色を添えている。この3曲は「子どもと子どもの友」の為に書かれた愛らしい歌曲集だが、そこにモーツァルトの全てが凝縮されているように思えてならない。

 「はっきり言っておく。子どものように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない(ルカ:18/17)」。これはイエスのみことばだが、その意味でモーツアルトは永遠の子どもであったと思う。若くしてこの世のあらゆる苦しみや悲しみにさいなまれながらも、その音楽は常に喜びと感謝に満ちあふれている。そしてその根底にあったのが、神の愛と許しを信じる、子供のように純粋な信仰であった。

子どもは親の言うことを決して疑わない。「これはサンタクロースがくれたご褒美だよ」といわれたらその通り信じている。モーツァルトはそのように神のことばを生涯信じきっていた。

だからこそ母の死を知らせる父への手紙に「お母さんは私たちにとって永久に失われたのではない、再びお会いすることになる、この世にいる時よりもっと楽しく、もっと幸福に、一緒になることになる」と書き、父の死に際しても「死が私たちの真の幸福の鍵」と記して来世の再会を疑わなかった。

アマデウス(ラテン語で「神の愛」の意)・モーツアルトは、今も、天国で楽しく歌い戯れていることだろう・・・・・。(オザサ/6月6日)


スイングジャーナル

 スイング・ジャーナル休刊戦後間もなく昭和22年に創刊されたSwing Journal誌が6月中頃に7月号を出版して、その60年以上続いた歴史に幕を引くのだという。昔、ジャズ好きの人はこの雑誌からいろいろな情報を得てきたものだった。購読部数の低迷と広告収入の減少で立ち行かなくなったという話である。日本のジャズ文化を引っ張ってきた老舗雑誌の休刊は何かを物語っている。

一言でいえる。時代の流れが変わったのである。

私にとっては「寂しい」などという感傷的な思いはすでにない。20数年前に定期購読していたReader's Digest誌の日本語版が廃刊になった時には「寂しい」と思ったのを覚えている。
 

 ジャス・バージャズを愛する大先輩に帝国ホテルの社長だった犬丸一郎氏がいる。犬丸さんが、30年ほど前に塾のジャズオーケストラKMP出身で、当時、ゼロックス社に勤めていた中田光雄というピアノの上手な若者に脱サラを促し、「ジャズ・バー」を赤坂見附に開店させた。戦後、日本で最初のナイトクラブ”MANUELA”が内幸町にあったのだが、その名前をもらって”Little MANUELA”と名づけた。

80年代にはジャズのライブハウスが各所に開店した。ライブハウスとは、かつて進駐軍相手にジャズを聞かせたミュージシャンや歌手達が夜な夜な出演し、ジャズ好きの紳士淑女たちがグラス片手に生のジャズを聴くという店のことである。それ以前、1950年代には珍しい輸入ジャズレコードを聞かせるジャズ喫茶があった。クラシックでは「らんぶる」なんて懐かしい。みんな大人しくヘッド・フォンで聴いていたものである。

リトル・マヌエラはこういうライブハウスのようにプロのジャズを聞かせる店でなく、ジャズを歌いたい人や楽器を演奏したい人たちが、ピアノとベースの伴奏で歌ったり、ジャムセッションができるというユニークな店である。

ところが開店当時、50歳の人は80歳になってしまった。30歳前後だった人たちは還暦を迎えてしまった。彼らの後に続く人がいない。リトル・マヌエラもやがてスイング・ジャーナルと同じ運命をたどることになるのだろう。⇒リトルマヌエラ・サイト

ジャズ人口の減少はライブハウスの営業にも大きく影響している。素人には歌わせないとしていたライブハウスが節操もなく「セッションデー」と称して素人に歌わせるという店が増えてきた。客集めのためにはなりふり構わぬ自らの堕落である。

 ウォークマンその後SonyがWalkmanというカセットレコーダーを売り出したのが30年前である。手のひらに乗るテープレコーダーは世界中でヒット商品となった。30年で4億台が売れた。ソニーにはウォークマンを世に出すアイディアと技術力があったのである。その後、MD(ミニディスク)が売り出されたが、大ヒットには程遠い。この時代は、自分の聞きたい、持って歩きたい音楽をカセット・テープやMDに自分で録音したものである。テープやMDで聞ける時間は知れている。したがって、自分の好きな曲を厳選してテープを作るのである。ベストアルバム作りをやっているのだ。

去年の6月の編集ノートには「iPod族」という話を書いたが、現在の音楽用レコーダーはアップル社のiPodということになってしまった。じつはiPodというレコーダーはPCソフトと連動して使うのであるが、iTunesという管理ソフトが賢くできている。

WindowsのPCがどんどん進化している。それに反比例して大部分のアナログ人間にはついていけなくなっている。このiPodとiTunesはどんなローテク人間にも優しい。PCにCDを挿入すれば、ただちにiTunesが自分で立ち上がりCDに入っている曲を自動的に録音してしまう。iPodを専用ケーブルでPCに繋ぐと、勝手にiTunesがiPodにまだ取り込んでいない曲を自動的に取り込んでくれる。さらに驚くのは、PCがインターネットにつながっていると、レコード会社が提供している1曲、1曲の情報(作詞・作曲・演奏家・指揮者など)まで取り込んでくれる。同名の曲でもいろいろなファイルがその情報と共にiPodに格納されるのである。音楽のデータベースをiPodは作ってくれるのである。

というわけで、iPodというレコーダーがかつてのレコーダーと本質的に違っているのはiTunesというパソコンで働くソフトと連動しているという点なのである。このような発想は、Sonyにはなかったということであろう。Sonyの時代は遥か遠くなりにけりだ。

さらに、今の若者はCDなど買わない者が多い。ネットでダウンロードしてしまうのである。iTunesにはiTunes Storeがあり、およそ1200万曲が居ながらにして安く購入できる。

われわれ世代は1曲の歌が聴きたいために、大枚はらってLPレコードを買ったり、CDを買ったりすることが当たり前のようにしてきた。今の若者はそんな不経済なことはしない。自分の好きな曲だけ買うのである。もっとずるい奴は人からタダでもらう。音楽産業も商売がやりにくくなったものである。(わかやま/6月6日)

7月号(最終号)が出ました。表紙はジョン・コルトレーンです。