Editor's note 2010/4

「江戸彼岸(バラ科サクラ属)」

 「春は名のみの 風の寒さや」。今年の春は、ひとしおこの詞が身にしみる日々でした。フト思い出して「創立50周年記念演奏会(01年3月/サントリーホール)」で歌ったこの曲(「早春賦」/詩:吉丸一昌、曲:中田章、編曲:林光)を再聴しました。編曲者・林光(会友)先輩自らのピアノと指揮による美しい演奏とその時の情景が懐かしくよみがえりました。いつ聞いても本当にいい曲です。春は「よみがえり」の季節でもありますね。
 

そのCDケースに演奏会のしおりが挿まれていたことに今回初めて気づきました。巻頭に岡田先生の、こんな一文が載っていました。

 「激しく揺れる弥生の空は、楽友会創立50周年記念演奏会をことほぐかのように晴れあがりました。演奏会も先ずは成功裡に幕を閉じ、皆さんは其々の感銘を胸に秘め、次なる目標への行動を開始しているのではないでしょうか・・・。さて当日、河村さんの問いに答え、楽友会の恩人の一人として初代会長・有馬大五郎(1900-80)先生のお名前をあげました。先生はNHK交響楽団の育ての親であり、楽友会の船出に貢献されました。

機関誌「楽友(新・第2号/53年3月刊)」の「第1回発表会(後に『楽友会第1回定期演奏会と改称/52年12月/YWCAホール)特集コーナー」に掲載された、「『楽友』の発表会を観て」と題しての先生のご寄稿の一部を紹介しましょう。

<将来の日本を背負って立つこの若い人たちが、何をするのかということが興味の中心である。音楽を好むものが集まって合唱をする、演奏する。そうして効果が最上のものであることが、この人たちのねらいであることもよく分かっている。また、その熱意と純粋性があってこそ始めてできる催しものである。

それで私は誰にも負けないように手をたたいた。この人たちの目指す演奏の目的が達成されていたからである。そうしてその技術をもってして他の合唱あるいは演奏団体に交わって付き合っていけるからである。実は私の見たいところはそこにあった。

この人たちは音楽を通じて社会に接触面をもとめ、しかもその要求が容れられているのである。大した仕事をしているのである。この若い人たちが20年、30年後にどんなことをして日本人文化に貢献するかと思うと頼もしい限りである。(中略)

音楽の専門家と大衆との間に立って、広い範囲の文化地帯で両者の斡旋をし、その距離を狭めてくれる役割を将来に、否、現に今私の目の前でやってくれている人たちを非常に尊いものに思えたのである。

よい声を出し、よい音を出すことに専念している「楽友」たちが意識していないところで大きな仕事をし、将来さらに大事業を行う準備をしているということを考えてもらいたいと思う。そうしてその根拠が強化されればされるほど「楽友」の芸術精進が一層深められていくのである。これは信じてもらいたい。(中略)

若い「楽友」たちが何をするかという興味をもって発表会に臨んだ私は、無上の喜びを感じたと同時に、なぜ私が喜んだかを分かってもらいたさにこんなことを書いてみたのである。>

私が前もって会長就任のお願いはしたものの、確約を得てきたのは故楠田久泰君(2期)であった。先生は80年に80歳でお亡くなりになったが、先生の哲学的思考に興味のあった楠田君は、冥界でお話を静かに拝聴していることと思う・・・。     岡田 忠彦」

 巨人・有馬先生のあたたかな風貌と語り口を今さらのように思い出しました。翻ってわが身を振りかえると、そこに己の卑小さを見出すばかりです。特に<この若い人たちが20年、30年後にどんなことをして日本人文化に貢献するかと思うと頼もしい限りである>というメッセージを熟読すると、恥ずかしさに身の縮む思いです。

<20年、30年後・・・>どころではない、もうその倍の60年近くも合唱音楽に慣れ親しんできたのに、爪の垢ほども<日本人文化に貢献する・・・>ことはなかったのではないか、ただひたすら自ら楽しむだけのために音楽を消費してきたに過ぎなかったのではないか、という強い反省の念にかられます。

 このホームページの編集を始めてから、「楽友」と名のつく演奏会や交歓会には欠かさず出席してきました。そしてその都度思うのは、「いったい『楽友』をつなぐ絆は何なんだろう」ということです。逆にいえば「何によって『楽友』は一つに結ばれるのか」ということでもあります。もっといえば、我々「楽友人」は同志と呼べる存在なのだろうか、という疑問でもあります。

有馬先生は<よい声を出し、よい音を出すことに専念している「楽友」たちが意識していないところで大きな仕事をし、将来さらに大事業を行う準備をしているということを考えてもらいたいと思う>という期待を抱いておられたようです。「将来の大事業」とは何か、果たして我々はその「準備」をしてきたのだろうか、それは可能だろうか・・・疑問は果てしなく続きます。

 ここらで初心に帰り、もう一度初代会長・有馬大五郎先生の想いを反芻し、「楽友会とは何か」を考えたいとの思いを新たにしました。岡田先生が紹介された前掲文書の全文を、このホームページの「記念文集」に転載しました。(4月7日 オザサ)

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芝小路豊和(1920-2010)

 思い出の人その人の名は芝小路豊和氏。男爵芝小路豊俊氏の次男として1920年(大正9年)にお生まれになりました。学習院の中等科時代にハワイアンを始められたといいます。戦前、戦中、そして戦後と波乱万丈の昭和時代から平成の世になるまで歌い続けられてきました。

残念なことに、先月16日に89歳9ヶ月の生涯を閉じられ、20日に世田谷代田教会で告別式がありました。

私は芝小路さんと10何年か前にLittle MANUELAで初めてお目にかかりました。見るからに上品なおじい様でした。気取ることは全くなく、昔からマヌエラに出入りする、かつては若かった女性客たちの人気の的でしたし、彼女らをよく可愛がってくれました。
  

 伝説のバンド今の人には知る由もありませんが、昭和12,3年頃にカルア・カマアイナスというバンドが創設されたといいます。創設者は芝小路さんの同級生の原田敬策氏、もう1人の創設者リーダーが朝吹英一氏という方です。朝吹英一氏は昭和8年経済学部卒の塾員で三井財閥の朝吹家の御曹司です。日本で木琴(シロホン、マリンバ)の先駆者として平岡養一氏と並び称されています。高輪の大邸宅では毎週土曜日にメンバーが集まってハワイアン音楽が流れたのだそうです。

芝小路さんは、原田氏に誘われてハワイアンを始め、ウクレレを練習したのだそうです。この3人に合流したのが雪村いずみのお父さんである朝比奈愛三氏です。この4人になったのが昭和15年の夏頃で、活動の場が公演、レコードと広げられていったのです。しかし、カルアのメンバーにはプロは一人もいないアマチュアバンドでした。そのアマチュアバンドが日比谷公会堂を満員にしたり、レコードも大ヒットとプロ並みの人気と実力を兼ね備えた大変なバンドになってしまいます。

カルアの公演には東京に知識人が集まる社交場となったという記述があり、小泉信三塾長の姿もあったといいます。

日本は1941年(昭和16年)12月には太平洋戦争の開戦へと突っ走ります。それでもこのバンドは活動を続けたといいます。さすがに向こうの歌を歌っていたのでは風当たりが強くなるのは明白です。そこで、朝吹氏は自分達で日本語の歌を作詞・作曲してレコードを出しました。そして、カタカナのバンド名は使いにくい時代、「南海楽友」という楽団名を使うようになったといいます。最終的にはもう1人のメンバー、東郷安正氏がベーシストとして加わり、敵性音楽といわれたハワイアンやジャズを演奏し続けたのです。

この年にこのグループ初のレコードを吹込みしました。それが、朝吹英一詞・曲「陽炎もえて」歌:芝小路豊和です。歴史的和製のハワイアンです。お聴きください。

陽炎もえて 芝小路豊和

 もう1つの伝説バンドそれ以前の1933年(昭和8年)に長尾正士氏が学生ミュージシャンを集めて結成したフラタニティ・シンコペーターズというジャズのフルバンドがあります。戦後、長尾さんは1946年(昭和21年)に復員してきた仲間を集めてオルフェアンズ(The Orpheans)を結成しました。

1949年(昭和24年)にはオルフェアンズは発展的解消をして、小島正雄氏とブルーコーツを結成しました。小島正雄といえば11PMの司会者として知る人が多いと思いますが、初めはブルーコーツでトランペットを吹いていました。そのうち司会が専業となり「MC」という言葉をメディアで広めてしまいました。小島さんは54歳の若さで1968年に急死されました。⇒小島正雄追悼アルバム


芝小路さんとオルフェアンズ 2004

長尾さんが1998年にオルフェアンズを再結成しました。ここに芝小路さんが専属歌手として迎えられました。お元気だった長尾さんは2003年に90歳で突然亡くなりました。しかし、オルフェアンズはその後も活動しています。スリーグレイセスの向かって一番右で歌っている白鳥華子(旧姓長尾)は、長尾さんの姪に当たります。

現在のブルーコーツもオルフェアンズも長尾さんが作ったフラタニティ・シンコペーターズを原点とする70年以上の歴史を持つ由緒あるジャズバンドです。

 不思議な話学生時代から私を可愛がってくれた東芝の原野秀永氏という方がいます。私が小金井の工学部の3年生(1962年-63年)のとき、原野さんが東芝からの委託研究を慶應に持って来たのです。コンピュータのプログラミングの仕事でした。それを私達学生がお手伝いをさせられました。

そのご褒美に「お前達、ご馳走してやる」と東芝高輪倶楽部に連れて行かれました。同倶楽部は高輪桂坂の中腹にありました。

それ以来、特に学会の活動で私を引き立ててくれたのが原野さんでした。言い方を変えると、よくこき使っていただいたのが原野さんでした。40数年間も親しくお付き合いさせていただきましたが、昨2009年6月に93歳で亡くなりました。一緒に国際学会に出かけてあちらこちらホッツキ歩いたことが懐かしい思い出です。⇒原野さんを悼む

最近、知ったのですが、何と東芝高輪倶楽部は旧朝吹邸だったところです。(わかやま/4月7日)