Editor's note 2010/3

 今年の新年会は10年に1度の当番幹事だったのでいつになく緊張した。が、結果的には好天にも恵まれ、いつものように華やいだ気分で終始できたのでホッとした。とはいえ、楽友会もアッという間に60有余年の歳月を閲し、会員数も1,100名をこす大所帯となっている。そしてその2割を越す人々が毎年集まるとなれば種々の問題なしとしない、と思った。
 

 参加者を層別すれば、ここ数年その約60%が20期以前、つまり58歳以上の会員で占められている。なぜそれ以下の年代層が多く集まらないのか。「忙しいから」が理由とはいえない。この会はほぼ40年前に始まった。ということは今60歳代の会員が20代頃のことである。当時20〜30代の世代が今より忙しくなかった、暇だったとは誰も思うまい。とすれば何が問題なのだろう。今の新年会プログラムが面白くないのかもしれない、あるいは楽友会への帰属意識が薄れているのかもしれない・・・・・。理由は様々に考えられる。したがって解も一つではありえない。

ただ一つ肝に銘じておかなければならないことは、決して従来の在り方や、進め方に安住するな、マンネリズムに堕すなということだと思う。「年々歳々花相似たり、歳々年々人同じからず」なのだ。

「たかが新年会」と侮ってはいけない。それは楽友会全体の盛衰を表すバロメーターでもあるからだ。

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昔は旧友と再会することが楽しみだった。だが最近は未知の人との邂逅を楽しむ。年をとってズーズーしくなったせいか、気軽に誰にでも話しかけてしまう。旧知の仲間や顔なじみの連中と会う機会はいくらでもある。だが10代の学生から80代までの来賓が、たった一つの「楽友会」という絆で寄り集まる機会はこの新年会だけである。この絶好の機会を懐旧談やお楽しみの合唱だけで過ごすのはあまりにもったいない・・・・・

 今年、塾長代行で来てくださった井田常務理事はドイツ滞在が長く、バッハの音楽に通暁しておられたので話がはずんだ。塾員センターの栗生課長はクラリネットの名手であると分かり「ぜひ、新たに始まる『オール楽友会ファミリー・コンサート』でご披露ください」とお願いした。来賓の方々は単にお役目としてきてくださっただけではなく、音楽がお好きだからこそおいでくださったのだと知った喜びは大きかった。こうした方々との交流が深まれば、社中における楽友会の地位や知名度も向上するに違いない。1952年に楽友会組織が正式の塾公認団体として認められた背景には、当時の川島理事・塾監局長の強力なご支援があったからである。だが残念なことに昨今は、塾監局広報課に電話しても「え?楽友会?」と聞きただされるのが常である。

 学生諸君との語らいも実に楽しいことだった。去年の新年会に出て、早速このホームページのBBSに現役で初めて投稿してくれた渡邉亮君や一緒に飲み会に付き合ってくれた斎藤彬、寺内修也両君もいよいよ卒業して三田会の仲間となる。代わって新幹事長になった伏見卓也君や学生指揮者になった橋本亜衣さん、それに交歓会でお世話になった室谷茉友子さんや、つい最近貴重な投稿をしてくれた3年の松本宏太君などなど、皆一言声をかければ、打てば響くように応えてくれた。素晴らしい個性たちだ。

 武中秋一(14期)、阿波田尚(26期)、亀井淳一(29期)という3名の同士が、今年から新たに参加してくれたのは何よりも嬉しいことだった。

というのは、今年を高校楽友会との断絶していた関係を元に戻すための元年にしたいと考えていたからである。残念ながら現役の塾高および女子高の楽友会員と両校部長の2教諭の参加は叶えられなかったものの、期せずしてこの3君がその動きに呼応し、塾高楽友会OBとして楽友三田会に加わってくれたのはそうした背景があってのことと思う。

武中君は新潟から駆けつけてくれた。昨年の三田会合唱団演奏会で千原英樹氏作曲の「良寛相聞」を歌うにつき、団員有志が良寛探訪の旅に出た際、何くれとなく現地で面倒を見てくれたのが武中君であった。同君と同曲を指揮する日高好男君は高校同期で、高校楽友会第1回定期演奏会で苦労を共にした仲である。そこで日高君の強力な勧誘に応じて今回新たに三田会に加わってくれたのだ。ちなみに日高君は、昨年から始動した「オール楽友会ファミリー・コンサート」の企画を担当し、高校楽友会との連携回復に協力してくれている有力メンバーの一人だ。

阿波田、亀井両君も高校楽友会で活躍した有力メンバーであった。だが大学ではワグネルに移籍し、卒業後もワグネルOBとして活動された。そして昨年同OB合唱団が「ワグネル・オムニバス・コンサート」を開催した際には、塾高・女子高の楽友会出身OBGを集めて「忠友会」を組織し、岡田先生の指揮で「青春讃歌」その他を披露された。それを見聞した編者が昨年5月のEditor`s noteに感無量の想いを記した。それが両君の目にとまり、新たに楽友会との絆を結び直してくれたのである。

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 話は飛ぶが、今年6月にはサントリー・ホールで慶應義塾マンドリンクラブ(略称KMC)創部100年記念コンサートがある。慶賀すべきことだが、このKMCの組織力に改めて感服する。源は大学に発するが徐々に塾校・女子高、志木高、中等部そして三田会の各団体を加え、各々が独立して活動する一方、年に一度は全団体が一堂に会して大演奏会を開催している。ローティーンの中学生から後期高齢者を含めたOBが一堂に会して演奏する光景は微笑ましいというよりも感動的ですらある。これこそ塾が標榜する「社中一致の精神」の発露であり、楽友会が学ぶべきことの一つと思う。そして、そこにこそ塾の発展と共に成長する、塾内団体としての存在価値と意義があり、ゆるぎなく伝統を継承していく強さと誇りをみる。

 今年は楽友会にとって変革の年になるだろう。先述した「オール楽友会ファミリー・コンサート(略称AGFC)」のプロジェクト・チームがいよいよ具体的な活動を開始し、「楽友三田会規約」も全面的に見直されることになった。新役員やプロジェクト・メンバーにとって大変なことだろうが、どうか楽友会全組織発展のため、創立100年を目指して一層のご尽力をいただきたい。

その際、くどいようだが、高校楽友会の存在を忘れないでほしい。楽友会が「温故知新」の精神を忘れたら、根なし草になって明日はない。今年の総会で一つだけ残念だったのは、昨年の物故者追悼で、渡邉恵美子先生のお名前が挙がらなかったことである。先生は女子高楽友会、ひいては全楽友会の草創期にかけがえのないお働きをしてくださった方であり、その故に当ホームページでも追悼特集を組んだほどの貢献者でいらした。既に1周忌も過ぎたことではあるが、ここに改めて深い感謝と共に、謹んでみ霊の平安をお祈りする次第である。(オザサ/3月2日)


島崎藤村

 島崎爽助氏との出会い今頃、カッパがなぜ島崎藤村の名前を持ち出すのか不思議ではありませんか。人の出会いとは不思議なものです。昨年の10月の編集ノートで少しだけ「島崎藤村の子孫」のことに触れました。

つい先週の木曜日にご本人の島崎爽助氏に会ってきました。きっかけは2009年9月にホテル・オオクラで開催された「チャリティ・パーティ」に私達のジャズ・ボーカル・グループThe Oz Sonsにお呼びがかかって3曲ばかり歌ってきたことです。

その500人のパーティに居合わせたのが島崎さんでした。楽友会年齢でいえば13,4期生位でしょう。ご自身はカントリーのブルーグラスのバンドを今でも楽しんでいらっしゃいます。根っからの音楽好きのジー様です。我々の鄙びた(ひなびた)ハーモニーがよかったらしく喜んでもらえました。その様子をご自身のブログに綴っておられたのです。

偶然にもネットで検索中に島崎さんのページが出てきたのです。驚きましたねぇ。いろいろなことで驚くことが多いのですが、これには本当に驚きました。ところが、そのブログを隅々まで眺めても著者のお名前が書かれていません。どういう方なのか知りたくなるじゃないですか。

さて、ここで「このページ」に飛んでください。ご覧になったら戻ってきてください。

そのページには「プロフィール」があります。クリックしてみると「文武双生を志す、天然系楽観人です」とあります。「文」とは音楽や芸術を指すのでしょう。「武」はどうやらスキーを意味するものです。私も島崎さんの少しばかり年上ですが、音楽とスキーで遊んだ世代なのです。さらに「ミスター・オプティミスティック」と自称されています。何とも同じ価値観を持った人なんだわいと思いました。

でも、お名前はわかりません。URLを眺めました。http://sohske.cocolog-nifty.com/というアドレスです。「ソースケ」というのがキーワードらしいです。さらにぺージの左上には「alpshima」と書いてあります。これはこのブログのタイトルとなっているようです。ここから「shima」=「シマ」というキーワードを取り出しました。「alp」=「アルプ」は会社名らしいです。

これらを繋げると「シマソースケ」という名前が浮かんできます。

ここから検索の始まりです。巡りめぐって、ついに「島崎爽助」という方だということがわかりました。工業デザインの会社を主宰する社長でもあります。

ブルーグラス音楽をこよなく愛するスキー野郎、それが島崎爽助さんというわけです。若くして亡くなったジャズをこよなく愛するスキー野郎、小島正雄さんを思い出します。


島崎爽助

島崎蓊助画「リューベックにて」1970

この作業で出てきた名前が「島崎藤村」と「島崎蓊助」でした。

島崎蓊助は「藤村全集」をまとめた藤村の三男で元々は画家です。ナチスが台頭する直前のドイツでプロレタリア芸術運動に走った作家でした。戦後、藤村全集の編纂に携わり、その仕事が完成して1970年に再度ドイツに渡り、本業の絵を描いています。

その時代に描いた絵の一部を集めた個展が銀座の「ヒロ画廊」で開催されました。私のところにも案内状が届きました。そこで、出かけて行ったところ爽助氏とお会いすることができました。昨年の9月以来、メールでのやり取りは度々でしたので、旧知の友のような気分でした。不思議な縁で硬い握手をしました。

今回の展覧会は70年代のドイツ滞在中に描かれた「セピア色」の絵でした。光と影が作者の意図を物語ります。強い意志が表現された絵でした。

2010年2月は特別な月となりました。(わかやま/3月2日)