学童疎開の頃:伝えられる「東京大空襲」は昭和20年3月10日のことですが、昭和19年11月には東京空襲が始まりました。小学校3年生以上の学童疎開が始まりました。主幹だけでなく多くの先輩たちが大変な目に遭ったのです。その頃、私は4歳で外地にいました。当時は日本本土を「内地」それ以外の占領地は「外地」と呼ばれていました。
昭和16年、太平洋戦争開戦以前に私の家族は現在のソウル、当時の京城に引っ越しました。そして、開戦を迎えました。戦争末期には、少しはわけが分かっていたようです。新聞やラジオで空襲のニュースなどが伝えられました。東京は焼け野原になったと聞かされました。私は毎日、近所の家を巡り玄関先で「予科練の歌」を唄って歩いていました。軍歌のアカペラ・ソロ出前をやっていたのです。
朝鮮の地には爆撃はありませんでしたが、一度だけB29が高い空を飛んでいくのがわかりました。防空壕から覗いていたのです。高射砲が「ドン」と撃たれるのですが、まったく届きません。花火のように「ドカン」と煙が出るだけで、手も足も出ません。
戦闘機らしいものが、「プーン」と飛び回りますが、これも赤トンボみたいなもので子犬の遠吠えでしかありません。これが、私の唯一のB29の体験です。私はオザサのような怖い悲しい目には遭っていません。そうしているうちに、原爆投下で終戦となりました。
米軍の接収:終戦と同時に米軍の進駐が始まりました。私の家は南山のふもとの奨忠洞(チャンチュンドン)の近くにありました。奨忠檀公園という広い池のある公園が私の遊び場でした。その公園がある日、米軍のキャンプになって、周囲には金網の塀が張り巡らされてしまいました。ここからジープに乗った「真っ赤」な顔の兵隊が出てくるのです。子供たちはジープが来ると走って逃げ回るのです。
ある日、ジープが我が家の前で止まり進駐軍と通訳らしき人が我が家にやってきました。米軍の将校が「日本家庭にホームステイをしたい」という話らしいのです。間もなく、大尉と中尉が我が家の2階に住むことになりました。毎晩、キャプテンは4歳の私に英語を教えました。
我が家は突然アメリカ家庭になってしまいました。米軍キャンプはきわめて近いところですから、将校たちが夜になると遊びに来ます。我が家の2階は米軍のサロンと化してしまいました。キャンプからレコードを持ってきて聴かせるのです。軍艦マーチや予科練の歌など軍歌ばかり聴かされていた耳に、ビング・クロスビーやダイナ・ショアなどの当時のポップソングです。英語のアメリカン・ソングってソフトに甘く聞こえました。
こうして翌年、東京に引き揚げてくるまでキャプテン達との生活が続きました。中尉は先にアメリカに帰還し、別の中尉が来ました。ウィリアム・デソテルさんという中尉でしたが、1年か1年半後くらいでしたか、東京渋谷の家にまで尋ねてきました。「どんな暮らしをしているか心配で来た」とのことです。「渋谷」と聞いていたので、渋谷警察に行って「若山ファミリーはどこに住んでいるのだ?」と聞いたそうです。渋谷署の警官が案内してデソテルさんを連れてきたのです。驚きました。私にはメキシコの1ペソ銀貨をお土産だといってくれました。ダラーシルバーと同じくらいの大きな銀貨でした。ビル・シュレーダー大尉はハーバード出身のインテリでニューヨーク在住でしたが、昭和30年代まで文通がありました。
そうそう、戦争中、渋谷の家には父方の祖父の妹のお婆ちゃんが1人で住んでいたのです。広尾小学校の近くで、回りは焼け野原なのにこの家の周りだけは焼け残ったのです。このお婆ちゃんは長生きして、私が大学生になってから亡くなりました。
こんな話をし始めるときりがありません。引き揚げてくるときの話も通常の引き揚げ話ではありません。またの機会に話しましょう。 |