卒業50年:主幹は大学卒業50年でお祝いがあったとの話。HP技師は少しだけ若く高校卒業50年ですが、同期会の話も出てこないようですし、お祝いの話などはどこからも伝わってきません。主幹と私の間の学年は、2年前に高校卒業50年記念の同期会を開催したそうです。この学年の人たちは、まとまりのよい学年で、5年前に初めて普通部卒業50年の同期会を開きました。この同期会開催を、次の学年に受け継いでもらおうと思ったところ、うまく事が運ばず、途切れることになりました。
私にはその理由が手に取るようにわかります。長い間この学年の普通部の世話人は皆に慕われた佐野(康夫)さんだったのです。佐野さんが亡くなってから、この学年はまとめていく人を失ったようです。
そこで、私のところに連絡があり「お前たちの学年で受け継いでくれ」という依頼でした。丁度、私たちの学年から普通部の同窓会長を出したこともあり、一致して同期会開催を実現しました。私の次の学年にも、バトンを渡しました。彼らも大勢の参加者を集めて、大成功だったようです。
日吉の丘の地下壕:日高君の随筆のページで、「進駐軍が使っていた天井の高い高校の校舎」が回想されています。終戦になって、米軍に接収されました。
太平洋戦争末期の昭和19年、第一校舎(高校校舎)を海軍令部に貸与しました。日吉の丘の地下には、秘密裏にトンネルが東西方向、南北方向に掘られました。全長2キロ半ほどあります。この地下壕は「本土決戦」を想定して作られ、連合艦隊司令部がこの地下に本拠を構えて、戦艦大和出撃命令はここから出されたという話を聞かされたものです。日吉の慶應義塾の校舎は、なんと米軍より以前に旧帝国海軍によって接収されていたのです。
このトンネルに入ることができる入り口がマムシ谷にありました。一度は入れないように土盛りをしたらしいのですが、誰かがトンネルの入り口を開けてしまいました。われわれは、普通部生時代に、このトンネル探検をよくやったものです。天気がいいのに長靴と懐中電灯を持って学校に来て、放課後にトンネル探検が始まります。
いろいろな怪談めいた伝説が語られたものです。米軍の接収時代に黒人兵士が、高校の前にあった入り口から入ったまま出てこなかった。夜な夜な消えた兵隊の声が・・・とかいう怖い話です。それで、入り口はコンクリートで塞いでしまったというのです。
実際、イタリア半島と呼ばれた高校グランドの先の台地の向こう側には、いくつもトンネルの口がありました。いくつかのトンネルは幅が広く、大型の車両が入れるような作りになっていたり、部屋らしい広い空間や井戸らしい穴もあり、あるいは地上への竪穴などもあり、少年たちの冒険心を掻き立てる日吉の丘のトンネルでした。今も、そのままあるのでしょうか。
昭和24年(1949)、日吉の校舎は慶応義塾に返還されました。秋の全塾運動会でもらった銀メダルに「日吉返還記念」と書いてあります。当時、建っていた米軍の「かまぼこ兵舎」は、われわれが大学生になっても教室として使われていたのです。
|