慶應義塾の高等学校が新らしく発足したのは昭和23年のことである。麻布三ノ橋の、さる大学の校舎を借用していたが、義理にも典雅な建物とは申しかねた。崩れた窓から見上げる春の大空はうらヽかに拡がり、壁の裂目は教室の風通しをよくして衛生的であった。つらつらおもんみるに、この校舎、夏向きの建築と見てとれた。
音楽教室に備えつけられたピアノは、荒涼たる教室の風情に似つかわしく、モーツァルト時代の遺物ではあるまいかと思はれる代物で、実は永年、幼稚舎の雨天体操場の片隅に塵をかぶっていた由緒正しき品であった。ニ調の曲を奏でればハ調にきこえ、卜調の曲を弾けばへ調のメロディが流れてくるという、奇怪な名器であった。つまり、まともな状態では古びたピアノ線が切れてしまうので、一音づつ全体の調子を下げてあったというわけである。
音楽愛好会が高校の他の文化系諸団体と共に誕生した、物質的環境はざっと以上の様な次第であった。だが、そんな恵まれぬ設備の下で、愛好会を作った人たちの撓まざる努力は、熱心な岡田先生の御指導を得て、慶應高校に明るく楽しい歌声を響かせることになった。会の和気溢れる雰囲気が、あの厳しい訓練を支えたのに違いない。後に、高校を卒業したオールド・ボーイズも、あの愛好会の楽しさを慕い、集い寄って楽友会という大世帯にまで成長したのだ。
真摯な研鑽のかいあって、昭和25年にはハイドンの「天地創造」やベートォヴェンの「第九交響曲」を歌いこなせるまでになった。私は愛好会の正式の会員ではなかったが、25年暮の「第九」演奏のときには、合唱団にもぐりこんでバスを歌った。他の会員諸君は既に、尾高尚忠氏指揮の「第九」に参加した経験があったが、初めての私には、あの厄介なフーガのところは、最初どうにもついていけず、練習のたびに泣きたいほどの辛さをなめた。最後の練習は、諸々の合唱団が国立音楽学校に集って行われたが、指揮者のクロイツァ教授の眼光にすくんで、全員、命の縮まる思いをしたことも、今は楽しい思出である。
思えば、尾高氏も、またクロイツァ氏も既に故人となられた。愛好会が生まれて、早くも9年に近い歳月が去ったのである。 |