記念文集(定演プログラム)

第5回定期演奏会プログラムから

日本青年館ホール/56年12月22日


楽友会の初まり

安東 伸介

慶應義塾の高等学校が新らしく発足したのは昭和23年のことである。麻布三ノ橋の、さる大学の校舎を借用していたが、義理にも典雅な建物とは申しかねた。崩れた窓から見上げる春の大空はうらヽかに拡がり、壁の裂目は教室の風通しをよくして衛生的であった。つらつらおもんみるに、この校舎、夏向きの建築と見てとれた。

音楽教室に備えつけられたピアノは、荒涼たる教室の風情に似つかわしく、モーツァルト時代の遺物ではあるまいかと思はれる代物で、実は永年、幼稚舎の雨天体操場の片隅に塵をかぶっていた由緒正しき品であった。ニ調の曲を奏でればハ調にきこえ、卜調の曲を弾けばへ調のメロディが流れてくるという、奇怪な名器であった。つまり、まともな状態では古びたピアノ線が切れてしまうので、一音づつ全体の調子を下げてあったというわけである。

音楽愛好会が高校の他の文化系諸団体と共に誕生した、物質的環境はざっと以上の様な次第であった。だが、そんな恵まれぬ設備の下で、愛好会を作った人たちの撓まざる努力は、熱心な岡田先生の御指導を得て、慶應高校に明るく楽しい歌声を響かせることになった。会の和気溢れる雰囲気が、あの厳しい訓練を支えたのに違いない。後に、高校を卒業したオールド・ボーイズも、あの愛好会の楽しさを慕い、集い寄って楽友会という大世帯にまで成長したのだ。

真摯な研鑽のかいあって、昭和25年にはハイドンの「天地創造」やベートォヴェンの「第九交響曲」を歌いこなせるまでになった。私は愛好会の正式の会員ではなかったが、25年暮の「第九」演奏のときには、合唱団にもぐりこんでバスを歌った。他の会員諸君は既に、尾高尚忠氏指揮の「第九」に参加した経験があったが、初めての私には、あの厄介なフーガのところは、最初どうにもついていけず、練習のたびに泣きたいほどの辛さをなめた。最後の練習は、諸々の合唱団が国立音楽学校に集って行われたが、指揮者のクロイツァ教授の眼光にすくんで、全員、命の縮まる思いをしたことも、今は楽しい思出である。

思えば、尾高氏も、またクロイツァ氏も既に故人となられた。愛好会が生まれて、早くも9年に近い歳月が去ったのである。



第5回定演プログラム
表紙デザイン: 井上 公三

編者注: これが掲載されたプログラム(第5回定期演奏会・於:日本青年館ホール/56年12月22日)には「筆者は楽友会先輩」とだけ記され、ご自身も「私は愛好会の正式の会員ではなかった」と書いておられますが、安東先輩は大学進学後もよく楽友会の練習に参加し、「英語会員」として会誌「楽友」に寄稿されたりして、「会友」と同様、楽友会員と深い親交がありました。

ちなみに同先輩は「会友」の林光、峰岸壮一両先輩と共に、日下武史氏の主導した塾高「演劇部」の立ち上げにも加わったお仲間だったそうです。そして林、峰岸両先輩が音楽に専念するため同部を去られた後、日下氏の勧誘で新たに加わったのが浅利慶太氏であった、ということです。そうすると、現在の「オペラシアターこんにゃく座(林光先輩が座付作曲家+芸術監督)」と「劇団四季(浅利慶太氏が芸術総監督)」の源は、いずれもこの塾校発足時代に遡ることが分かり、改めて当時の多彩な人材と、その教養の豊かさに感銘を覚えます。
 

安東先輩にそのあたりの話をもう少し詳しくお聞きしたいところですが、氏はその後「中世英文学」研究の道に専心され、塾文学部の教授、名誉教授として活躍する一方、数々の名著を上梓しつつも、2002年の70歳目前に肺がんのため他界され、同年4月25日にカトリック渋谷教会で葬儀が行われたとのことです。ご生前に再会できなかったことは残念ですが、謹んでここに氏の若き日の一文を転載し、天国での浄福をお祈り申しあげる次第です。

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