記念資料集(特集「学童疎開」)

激動の戦中・戦後に生きた子供


国民学校6年生 橋本 曜(1期)

第二次世界大戦・太平洋戦争という世界中が戦火の渦に巻き込まれた、歴史的にも極めて特異な時期に育った一人の少年の記録として読んでいただきたい。

  

● 学童疎開

ここに小学校を卒業して50年を記念して作成した文集がある。「赤松−あれから50年」赤松尋常小学校(国民学校)昭和21年(第65回)卒業生と書いてある。つまり50年前の出来事を思い出して書いた文集である。内容は自分を育んでくれた先生のこと、戦争中の、疎開の思いでが多く書かれている。太平洋戦争は昭和16年12月から始まり、つまり我々が小学2年生の12月に戦争が始まり、昭和20年、6年生の8月に終戦を迎えている。

まさに小学校時代は戦時中と言ってもいいだろう。実際に米軍の来襲、爆撃が激しくなったのは、サイパンが爆撃機B29の基地となった昭和19年後半からである。戦局が不利になるにつれ、次代を担うべき「小国民」を生き延びさせるために「疎開」が始まった。


赤松−あれから50年(表紙)-

疎開行程図

私の小学校でも昭和19年8月ごろから親類筋を頼って田舎へ子供を移すように指導された(縁故疎開)。しかしそのような田舎のない者は学校の学年単位で地方の寺院や旅館に疎開した。

これが「集団疎開」「学童疎開」である。昭和19年8月25日、私も約70名の5年生の一人として静岡県島田駅から約6キロ離れた山間のお寺で共同生活を始めた。実を言うと、静岡は米軍が上陸する惧れがあるということで、20年6月には岩手県盛岡市へ、盛岡市も空襲を受けたので、7月に岩手と青森の県境にある寒村にさらに移動している。

文集に戻るが、戦火の中の生活はしていないので、悲惨な経験はしないで済んだ。文集を読むと、お母さんが恋しくなって布団の中で泣いたとか、食事は決してひもじさ感じるほどではなかったが、子供にしては口が寂しいのか、椎の実、栗、胡桃などを採ってきて食べたとかが多く書かれている。

またある人は「楽しかった集団疎開の思い出−1年2ヶ月の林間学校」と表題に付けるなど、川で泳いだり、静岡ではみかん畑や岩手県ではりんご畑に入って食べたりした。

今ならば泥棒になるかもしれないが、当時は収穫したりんごを東京などの消費地に送る手段がなく、黙って取っても誰も文句を言わなかった。子供たちは、どこそこのりんごが美味しいという情報を交換し、美味しいりんごはいち早く無くなった。そんなことで皆は結構楽しんでいたようだ。

終戦から2ヶ月経って帰京が決まった。疎開のことを記憶に残そうということで「疎開の思ひ出」文集を作成した。<文集の表紙は私が描いたものだが、心はすでに汽車に乗っている。列車もスピードを上げている模様が描かれている(笑)>。

昭和20年10月29日、1年2ヶ月ぶりに大きな事故も無く両親の元に帰京した。疎開仲間の家族が空襲で死亡したという話は聞かなかったが、家を焼かれた人が多く、大戦前は1,770名位居た赤松国民学校の全校生徒が、終戦の翌年の3月には177名と1/10に減っていた。


疎開の思ひ出(表紙)

  

● 終戦と墨塗教科書

太平洋戦争の終戦を迎えたのは岩手県の山奥御返地村で、夏休みの最中であった。8月15日の朝、玉音放送があるというので昼ごろだったと思うが、ラジオの前に正座して座っていた。玉音放送が始まると、戦争は終わったという天皇陛下の声が、途切れ途切れに聞こえた。「耐えがたきを耐え、忍びがたきを忍び・・」という声だけは今でも覚えている。皆は「ワ〜」と泣いた。とにかく悲しかった。そしてその後皆で、墨汁で半紙に「忍耐」という字を書いたことも覚えている。断片的だが以上が終戦の思い出である。そして次の日から今までのように川に泳ぎに行ったり、魚を獲ったりして遊んだ。子供の心は現金なものだ。

9月に入り台風があり、町と村の境にある橋が流されてしまった。おかげでバスが来なくなり、離れ小島のような生活を余儀なくされた。村民はやむなく川底まで降り、また登るなどして町まで出かけた。ところがそこへ進駐軍が来るという話が伝わってきた。橋が無いのにどうして。やはり米軍はジープでやってきた。「こりゃすげいや」ということになり、皆興奮した。子供たちは窓を細く開け、それまで「鬼畜米英」と吹き込まれていた米兵たちを恐る恐る見た。米軍の若い兵士が口笛を吹き、「ヘーイ」と言って過ぎ去った。橋げたの落ちた川の傍に居た村民の話では、車の前に付いているロープを木に巻きつけ、ウインチで引っ張るようにして登ったという。この一件で日本が負けたことを実感した。

秋の新学期が始まっても、新しい教科書がなかった。つまり戦時下の教科書しかないので、文部省からの指示で「戦時下の教科書のなかで不適切な文字を消して使用せよ」という通達があり、やむを得ず不適切な文章を墨で消す作業を行った。もちろん墨を塗るのは我々生徒である。これがいわゆる「墨塗教科書」だ。この時は「もう負けたのだから仕方が無いんだ」という気持ちになっていた。

しかしこの「墨塗教科書」の一件は、後になって凄いことだなと思うようになった。なぜって、それまで教科書として、指導書として使用してきた本に、これは間違いだと否定の墨塗りをさせるのだから。「じゃ、何を信ずればよいの」と言う説明は無いままに。そしてその否定行為を、子供たち自らの手でその作業を行うのだから。墨塗りの指示を出す先生も腑抜けの状態で、ぼや〜っとしている。先生だって消された字の代わりに入れるべき字が思いつかない。先生も辛かったと思う。


墨塗教科書

この墨塗りは、米軍が指示したのか知らない。だが予想以上の効果を挙げたのではないだろうか。子供たち自らの手で、過去の教育を否定させたのだから。

子供たちが、物事の善悪、価値判断を大人たちに聞いても、自分たちの生活に追われている大人達にとって返事も出来なかったのではないか。

それから以降物事の判断は、私が経験したことを最優先するようになったとしても不思議ではない。自分の行為が、経験が価値判断の基準のようなものになった。さらに親、兄弟と身の回りに居る人たちの話が価値判断の基準になっていった。私の好奇心の強さは、この時醸成されたのかもしれない。

しかし一個人の経験による判断や周囲の人の経験や判断なんて貴重であるかわり微々たるものである。そこで他人の経験を知るために旅行記や体験記などを貪るように読むようになった。今でも数冊の本が残っている。火野葦平著「アメリカ探訪記」、伊藤整著「ヨーロッパの旅とアメリカの生活」、有吉佐和子「中国レポート」、大宅壮一著「世界の裏街道を行く」、木村尚三郎著「西欧の顔・日本の心」などの作家や報道特派員が書いたものなど、昭和30年代は海外旅行記のブームであった。

中でも私の心を捉えたのが、小田実著「何でも見てやろう」で、同年輩ということもあり共感を得た。現在でも新本として売られているロングセラー本である。50年ぶりに読んでみて、やはり小田実も私と同じ「墨塗教科書」の体験者、被害者ではないか思う。彼はフルブライト留学生としてハーバード大学に入学している。「何でも見てやろう」を書いた根拠は好奇心の強い著者が、アメリカに叩きのめされた日本人として、そのアメリカの実態を抉ってやれと、もう一つは価値判断の基準を捜し求める旅ではなかったと思う。

墨塗教科書問題は価値判断の基準を崩壊させてしまったが、プラス面としては過去との断絶、そして新しい価値観の創造を容易にさせたという利点があるといえるのではないかと思う。(2010年6月16日)


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