記念資料集(特集「学童疎開」)

疎開 ― 少しの思い出


国民学校4年生 佐々木 高(3期)

私が疎開したのは、栃木県芳賀郡久下田町字?吉田屋さんという大きな呉服屋の2階でした。個人疎開でしたが、此の家とどうゆう関係だったのか、とうとう解らずじまいです。

東京大空襲の後に疎開しましたが、何時から何時まで過ごしたかも全く記憶がありません。行きがけに、小山駅で空襲に会い、機銃掃射の弾が、汽車の脇に伏せた私の1b前に打ちこまれたのはヤバかった。まあそんな長い期間ではなかったと思いますので、大した思い出はありません。

ただ、3食白米のご飯と豊富な野菜と卵と鶏肉が無尽蔵に食べることができたのは幸せでした。近所の子達もよそ者にもかかわらず親切で、仲良く遊んでくれ、いろんな家に誘われ、ご馳走になりました。都会っ子が珍しかったみたいです。ただ、蛇飯には参った。その友人の一人に、やはり疎開で来ていた関 秀夫君という子が居て、6年後に彼が塾高の音楽愛好会に入会し再会するとはその時、夢にも思いませんでした。

近所の小学校に、初めて登校した日、東京では当たり前のもんぺ姿で現れた私は朝礼の時、全校生徒の(大げさでなく)笑い物に晒されました。これは恥ずかしかった。もちろん翌日から地元スタイルの普通のズボンに素足と草履に身を固め登校しました。一緒に登校した、近所の子が注意しにくかったのかな。

田植え、縄編み、草刈り等一通りの田舎生活を送り、又、西瓜泥棒も経験(但し、馬鹿な奴が居て、干瓢を西瓜と間違えた)し、終戦を迎えました。家の下の大通りを進駐軍が行進し、2階から眺めていた時、一人の米兵と偶然眼が合い、その口髭を生やした鋭い顔は、不思議と今でも忘れません。

東京に帰ってからはご存じの通り食糧地獄。でも二度と味わいたくない疎開(嫌な言葉)です。(2010年8月3日)


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