記念資料集(特集「学童疎開」)

空襲があった頃の想い出


国民学校2年生 寺田 厚(5期)

● 空襲で私の家が燃えたのは昭和20年5月25日の事でした。当時の住処は小石川区指ヶ谷町(現在の文京区白山1丁目)にありましたが、この地にはかって織田信長の部将だった瀧川一益が隠遁して居た事があったそうで、丁度本郷台から白山を連ねた丘の下にあたり、昔は「竜が棲んだ」湿地だった由。縁起カツギ屋だった祖父に言わせると火事にはならないと云われた場所でした。

事実2月25日、大雪の日の東京大空襲の時には、自宅の庭に掘った簡易防空壕から出て、赤く映える西の方を眺めて居ましたが(近所のおじさんに「危ない」と叱られました・・・)、下からの雪が反射して銀色に輝く米軍のB29(プロペラ4発の大型爆撃機)が大変美しく、これが次々に私の頭を越えて行くのを見ながら、なるほどここは大丈夫だと思っていたのを想い出します。

翌日以降に聞こえて来た話では、私が感じた様な事態ではなく本所・深川辺りの下町では大変な被害で、隅田川に亡骸が一杯流れる無残な光景だったそうです。(卒業後私が勤務した三井倉庫の主力倉庫は、当時隅田川縁にありましたが、関東大震災後に建てられた将に頑丈な建物で、この空襲の時には1階の屋根下を避難所にして、多くの住民の方々に感謝されたと聞いています)。

さて、話は戻りますが、信じていた不燃神話も米軍には通用しなかったようで、5月の空襲では私どもの近辺も被弾し、B29が去って警報が解除された後、100m程離れた場所に建っていた「白山日活」と云う映画館に火が入り、そこに積んであった映画フィルムに延焼し、そこから改めて大火災となってちょうど私の家まで焼けて止まった、つまり本郷区に属していた隣家から先は焼け残ったと云う結果になりました。


B29の編隊爆撃

● 当時、私は国民学校(現在の区立誠之小学校)の2年生でしたが、3年生以上は「学童疎開」で、確か那須の方に越して居り東京での授業はありませんでした。家族は、近衛第2師団の将校だった父は、私が幼稚園生の夏に出征(ニューギニアへ)しており、母と二人だけでそこにいたわけです。

家が燃えたし、これではどうしようもないという事で、祖父の縁者を辿って、先ずは秩父の高篠村にある遠い親戚に「縁故疎開」しました。空襲の恐れもあるので朝早く発ち、東上線の満員電車に乗って寄居経由で秩父駅に降り、1時間程歩いた所に行きました。

遠景には秩父の山が見え、家の前には小川が流れる「田園風景」の真っ只中で、今言えば良い所なのですが、こちらは何分突然東京から飛び込んだ歓迎されざる二人であり、疎開先と母がどうもうまくいかず、地域の高篠国民学校には行ったものの、1ヶ月程で改めて叔母(母の妹)が職場ごと疎開して居た所に移るという事になり、学校に通ったのは2週間足らずだったと思います。

さて、そうして再疎開したわけですが、そこは今で言いますと西武新宿線の狭山市駅(当時は入間川駅)から徒歩1時間位の柏原村。叔母の会社が借りて居たのがこの地の地主さんの別宅で、私どもはその近くの小谷野さん(5人家族のお百姓さん一家)のお宅の端の部屋に3人でお世話になったという事です。

こちらは皆さん大層親切にして下さいましたし、いわゆる中二階では蚕を飼い、裏手の小さな森を出た所に広がる田んぼと蔬菜の畑を耕すと云う典型的な農家の生活を、思いもよらず体験できたという大いなるメリットがありました。

学校の方は1キロ程歩いて入間川の河原に寄った方にある、柏原国民学校に行きましたが、当時は東京の学校の授業の方が進んでいた様で、まあ勉強は楽でしたね。しかしこれが永くは続きませんでした。

なぜかと言いますと、戦局が進んでどうも段々こちらの状況がよくない様で、この地にも軍が移って来て、私どもの学校も大部分は兵営に変わり、学校を満足にやっていられない内に夏休みになってしまったからです。


ニ式戦闘機

何ぶんにもこの入間川近辺には皆さんご存知の、所沢とか豊岡とかの陸軍飛行場があり、ある時警報が出たので裏の防空壕の所に出て空を見ると、何と我が軍の戦闘機(二式戦と言われていました)が20機以上編隊で飛んで来たので、一瞬大変嬉しく思ったところ、疎開先のお父さんに「あれは待避して逃げて行くんだ」と聞かされ、がっかりしたものでした。

駐屯して来た兵隊さんも、かつて私が父の想い出と合わせて覚えていた恰好のいい近衛の軍人さんとはどうも全く異なり、年齢はとにかく、服装も貧弱で靴ではなく草鞋(わらじ)ばきで、鉄砲も足りなかった様で、半分くらいが竹槍を持って、丁度近所にあった今の東京クラブ(ゴルフ場)の中を這い回って演習しているといった様な事で、子供心にも「これは?」と思わされた訳です。

そうしている内、ある日の午後急に空襲警報が出て「子供は帰れ」という事で家路についたのですが、この時は何と艦載機の襲撃で、後ろを見たらその内の1機がこちらの方に向かって来る。ワッと思って脇の田んぼに飛び込んだら一寸先に機銃弾の列が通り抜けました。これにはビックリしたし、怖かったですね。

東京で見たB29の爆撃は他人事でしたが、この戦闘機の銃撃は暫く起き上がる気がしませんでした。この時は結局お弁当箱をどこかに吹き飛ばしてしまって泥だらけになり、帰って母に叱られましたが無理ですよね。

● とやかくして居る内に、8月15日終戦の詔勅になり、とにかく早く帰京したいという気が強く、折から前の住処の近所に空いた家作があったので、日は忘れましたが9月早々、馬車に荷物を積み、こちらはその後ろに乗って帰りました。

それから後は、とにかく連日懐かしい学校に行って見るのですが、人も先生も揃わず、再開したのは年が明けて昭和21年になってからのこと。結局、私の小学校2年生は、正味1ヶ月ちょっとの短期間で過ぎ去ったのです。

その後、任地がニューギニアでは「殆どダメーー」と聞かされていた父が、昭和21年夏を過ぎて復員して来ました。その時は嬉しかったですね。私の学生時代はその後から始まったと言った方が良いかも知れません。(2010年7月1日)


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