記念資料集(特集「学童疎開」)

特集「学童疎開」−序


小笹 和彦

太平洋戦争

日本は1941(昭和16)年12月、米ハワイ準州・真珠湾への奇襲爆撃によって太平洋戦争の火ぶたを切った。しかし米軍は、早くもその4ヵ月後に直接日本本土(東京・名古屋・神戸)に報復爆撃を行い、45年3月には大空襲によって東京・大阪に壊滅的打撃を与え、8月に原爆を投下(広島・長崎)して戦争を終結させた。それは子供心にも忘れないゼロ戦、グラマン、B29、焼夷弾といった言葉が飛び交う、いわば空軍力が死命を制した戦闘であった。


疎開ポスター

●米軍の戦闘機や爆撃機の数と性能はこの戦争の中期から威力を増した。日本軍は防空対策用にレーダーを組み込んだ早期警戒システムや、レーダー搭載の夜間戦闘機を開発したものの、探知した情報を管理するシステムに欠陥があり、迎撃用戦闘機と操縦士数も減る一方で制空権を失った。そのため敵機はやすやすと帝都(東京)上空に侵入。工場群や繁華街を中心に多量の爆弾を投下し、首都圏全域を震撼させた。

●軍は敵の本土上陸を想定して全国民に「聖戦」を説き、反戦活動を封じ、「本土決戦」と「一億玉砕」の覚悟を強い、主婦や子どもまで駆り出して「竹槍訓練」を励行させた。マスコミもこれに同調して「大本営」発表を喧伝し、「銃後の戦い」の必要性を強調し、「挙国一致」の戦闘を鼓舞した。

だが米軍はそれをあざ笑うかのように空爆を激化。住宅地域にも無数の焼夷弾を投下して木造家屋の家並みを火の海と化した。真昼間に小型戦闘機が急降下し、いたいけな子らに機銃掃射をあびせることさえ稀ではなくなった。

●「竹槍」どころではなく、住民は日夜「防空」演習の名を借りた「消防」と「避難」活動に追われた。電灯に暗幕をかけての灯火管制、ガラス戸や窓への目張り・・・空襲警報のサイレンで深夜でも防空壕に避難し、火災発生となれば総出で防火用水をバケツリレーして消火に努めた。けれどもそれ等は、焼夷弾の無差別爆撃に対しては「焼け石に水」だった。

戦闘配置としての学童疎開

開戦に先立つ41年4月、政府は小学校を国民学校と改称し、学童を戦時体制に組み入れ、男子高学年生には航空体操を正課とし、飛行適正訓練まで行っていた【別冊1億人の昭和史「学童疎開」・毎日新聞社/77年9月刊】。


学童疎開表紙

●43年10月、空襲激化にともない、政府は「帝都(東京)及重要都市ニ於ケル工場家屋等ノ疎開及人員ノ地方転出ニ関スル件」を閣議決定した。

44年7月、都は戦禍拡大にたまりかね、急きょ「一面防空の足手まとひを去って、帝都の防空態勢を飛躍的に前進せしめ(中略)、他面若き生命を空襲の惨禍より護り、次代の戦力を培養する(後略)」として、国民学校の学童を地方へ移住させる「強力な勧奨」を行った【世田谷区教育史/643ページ】。

●こうして「学童疎開」が始まったが、「疎開」は軍隊用語で<戦況に応じて隊形の距離・間隔を開くこと【広辞苑】>を意味し、あくまでも「帝都学童の戦闘配置」という作戦の一環である。従って作戦に背けば「非国民」のレッテルが貼られる。だからこれは「勧奨」ではなく事実上の「強制」であった。

そこで保護者は、地方の親類縁者を頼って子女を「縁故疎開」させるか、あるいは学校単位の「集団疎開」にわが子を託すことになった。当初は3〜6年生が対象だったが、その後2年生、事情によっては1年生も対象となった。費用は1人当たり月10円だった(当時の小学校教員初任給は月給約300円)。

―東京からの疎開児童数―

児童数
集団疎開
縁故疎開
疎開残留
合 計
1944年12月 195,240(41%) 117,479(25%) 111,350(33%) 424,069(96%)*
1945年3月 236,623(26%) 416,771(45%) 270,283(29%) 923,677(100%)
*注:44年度に内訳不明の者が他に20,132人(4%)いた。

【全国疎開学童連絡協議会編「学童疎開の記録(1)」より(大空社・94年7月刊)】

この民間調査資料によれば、東京の疎開児童数は官・公・私立の全校合わせて上表のように推移している。45年3月に総人員が倍以上に急増したのは、同月の東京大空襲で罹災者が激増したためであろうか。

なお「疎開残留」とは健康あるいは家計の不如意といった事情で都内に残留した員数を示すものらしいが、その数は意外に多かった(約3割)。義務教育期間中だから残留組にも一定の授業はあったようだが、正規教員のほとんどは集団疎開に同行していたからまともな授業はほとんど無く、疎開を逃れた「卑怯者」として白眼視され、厳しい訓練が課されたという報告がある。

●その後「学童疎開」は、東京以外の12都市に適用されたという公的記録がある。だが、その指定都市以外の沖縄でも、男子学童約6千名が密かに九州本土に疎開させられ、その際、那覇から九州に向かう疎開船「対馬丸」が、44年8月22日、悪石島沖で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没、乗船していた学童767名が、艦と運命を共にしたという大惨事が、今は明らかになっている。他にも慶良間列島、南洋パラオ諸島、台湾でも疎開が行われていた記録がある【以上前掲「1億人の昭和史『学童疎開』」】。

●当時の公的記録はほとんどなく、あっても断片的で当てにならず、正確な「学童疎開」の実態は闇に包まれたままである。従ってその総数は全国で60万とも80万人ともいわれ、諸説紛々である。だが、それほど多くの幼い小学生が一度に、最長5年近くも親許を離れ、切羽詰まった状況の中で筆舌に尽くしがたい忍苦の日々を過ごした事実は、日本固有の社会的事象として国家レベルで客観的に全容を把握し、「過ちを再び繰り返さない」ためにも公開すべきものだろう。しかし今日迄その形跡はなく、小・中・高教科書にもごく僅か、断片的に触れられているに過ぎない。

●ちなみに、イギリスやドイツにも同種の制度はあったが、それはいわゆるホームステイ形式で、参加も受け入れも自由意思に基づくものだった。

疎開生活

44年8月4日:都の「集団疎開」第1陣が出発したが、翌年3月には早々と再疎開命令が出て、一同はさらに奥地へ「転進」させられた。当初は団体生活に適した旅館等が収容施設に割当てられていたが、再疎開後はほとんどが山寺の本堂に詰めこまれる状態となり、食料事情も逼迫して生活は難渋を極めた。

●食料は日を追って乏しくなり、芋づると汁だけの雑炊、ドングリの実で作ったパン等が常食、おやつは数粒の炒った大豆だけといった状態となった。栄養失調で皆ガリガリにやせ細ったが、それでもノミやシラミが大量にたかって生き血をすすった。駆除剤はなく、1匹ずつ捕まえて爪でつぶすしかない。痒さで夜も眠れない。それが嫌さに坊主刈にした女子もいたという。休日には全員が下着や布団を外に出し、ノミ、シラミつぶしに躍起となっていた。

●集団疎開の記録では「飢餓」、「ノミ、シラミ」、「いじめ」といった語彙の出現が他を圧し、次いで「ホームシック」、「空襲のニュース、(実家の)被爆」、「敗戦」、「(家族の)面会、手紙」、「脱走」、「寒さ」、「作業」、「再疎開」、「病気、死」、「先生、寮母さん」、「受入地」といったキーワードがそれに続くという【前掲「学童疎開の記録(1)」546ページ】。

他方、縁故疎開は個人差があるので一概には言えないが、「ノミ、シラミ」以外はほぼ共通する。だが、単身で転校した縁故疎開児童が「都会からのよそ者」として周囲から特別な注目を浴び、「いじめ」にまきこまれていく【例えば小説「長い道(柏原兵三著・中公文庫)」】辛い体験は、集団疎開児童にはなかった特異体験といえるだろう。

●集団疎開で「学寮」と称した収容施設では、日課として次の文章を暗記し、大声で唱え、日々軍国少年・少女としての心構えを叩きこまれていた。


歴史読本表紙

同誌の1ページ
☆朝礼:「児童戦時訓」

先生による4項の訓示朗読の後に、児童一同が次の「かくご」を復唱した。


東一師の「児童手帳の一部」

@ 私たちは大日本の少国民です。大東亜戦争にかならず勝ちます。

A 私たちは軍国の子どもです。心からの感謝をもって、兵隊さんのご恩にむくいます。

B 私たちは戦ってゐる国の子どもです。お国の力を私たちの力でつよくします。

C 私たちは○○(学校名)の子どもです。何をするにも、捨て身の軆當りでいきます。

☆食前・食後:「食禮の詞(ことば)」

@ ワガオオキミ(大君=天皇)ノミメグミヲ コノオショクジ(食事)ニイタダイテ ツヨイチカラ(力)ヲヤシナヒマス

A アヤニカシコ(畏)キ スメラ(天皇)ミコト(命)ノミメグミ(御恵)ヲ コノショクモツ(食物)ニイタダ(戴)キテ ミタミ(御民)ワレ(吾)トミ(身)ニタマ(魂)ニ ツヨ(強)キチカラ(力)ヲヤシナ(養)ハン

☆就寝前:「児童五省」

@ ミクニ(皇国)ノコ(子)トシテ ハ(恥)ヂルコトハナカッタカ

A ヘイタイ(兵隊)サンニ モウシワケ(申譯)ノナイコトハナカッタカ

B オヤ(親)ニ シンパイ(心配)ヲカケルコトハナカッタカ

C カラダ(軆)ノグアイ(具合)ヲ ソコナフコトハナカッタカ

D ケフ(今日)ノツトメニ オコタ(怠)ルコトハナカッタカ

【東京第一師範学校男子部付属国民学校「児童手帳(44年9月交付)」より】

☆随時:「望楠学寮かぞへ歌」(上記校の一次疎開先「浅間温泉」で作られたもの。「望楠(ぼうなん)」とは戦時中「忠君愛国」の象徴的存在として崇めた楠木正成・正行(まさつら)親子の、有名な「桜井の別れ」の故事にちなんで名づけられた、同校疎開施設の総称である)。

一つとや 日の出といっしょに とび起きて 乾布摩擦だ 元気よく

二つとや ふたたび会わぬぞ 父母に このたたかいに 勝つまでは

三つとや みんなで頂く 朝ごはん 今日もいくさだ 頑張ろう

四つとや 四つの学寮 望楠寮 心を一つに 暮らしませう

五つとや いつでも温泉 わいてます からだを丈夫に きたへませう

六つとや むかふのお山に 雪がふる 子どもは風の子 とびまわる

七つとや ななたび生まれて 米英を ほろぼす覚悟で はげみませう

八つとや やさしい先生 寮母さん 何からなにまで ありがとう

九つとや 心は青空 ほがらかに 勝ちぬく子どもは 泣きませぬ

十とや  父さん母さんごきげんよう 浅間の子どもになりました

☆番外:「屁の歌」(なぜか皆よく放屁した。その度にこれを唱えて笑いあった。それは緊張をほぐす、唯一の慰めだったかもしれぬ)。

第一歌: 屁にはブースーピーの3種あり。ブーは音高かけれど匂いなし。

スーは音無しけれど匂い濃し。ピーは少々水気あり!

●授業や自由時間はほとんどなく、教員や寮母は食料調達に奔走し、最年少児童すら山から薪を運んだり、近隣の農作業を手伝ったりするなど、勤労奉仕に明け暮れた。遊ぼうにも遊具はなく、少しでも空いた時間があれば飢えをしのぐためタニシ、イナゴ、鼠、蛙、蛇等を捕まえて調理した。しかしその大半は上級生の口に入った。力の弱い下級生が食べることができたのは桑の実、野イチゴ、アケビ、山菜など、その場ですぐ口に入れられる植物だけだった。

●こうした生活は45年月8月の終戦と共に終わる、はずであった。が、誰もすぐには帰京できなかった。交通網は寸断され、多くの校舎や住居は甚大な被害をこうむっていた。家族の死亡や離散によって連絡がとれず、帰京しても行き場のない児童がたくさんいたのだ。

それでも大半は11月末頃までに帰京した。が、引取人のない孤児や障害児等の「引き揚げ」が完了したのは、49年5月28日である。それも全てが円満に帰宅できたわけではない。上野の地下道をはじめ、巷には浮浪児があふれた。例によって公的資料はないが、新聞資料などを総合すると、そのほとんどは10歳前後の児童で、約4万人が集団疎開中に戦災孤児となり、その大半が浮浪児になったと推定されている【前掲「学童疎開の記録(1)」323ページ】。

そして今

それから65年。戦争や疎開の記憶は日々に遠のく。だがそれ等は忘れたいけれども忘れ得ぬ苦いしこりとして、心の底に澱(オリ)のように溜まっている。そしてある時、例えば公園で無心に遊ぶ子どもたちの姿を見ている時、あるいは戦争文学や映画や音楽に接した時、ふと大粒の涙になって浮かんでくる。

●楽友会のシニアOBが集うOSFという男声合唱団で、井上陽水の「少年時代」を練習していた時も、そうだった(以下はその歌詞の一部)。

♪なつがすぎ かぜあざみ だれのあこがれにさまよう
あおぞらに のこされた わたしのこころはなつもよう・・・
めがさめて ゆめのあと ながいかげが よるにのびて
ほしくずのそらへ ゆめはつまり おもいでのあとさき・・・♪

戦争や疎開といったことばの一文字もないこの歌詞、そしてごく自然な抑揚のメローディーに万感がこもる。そう感じた時、突然涙がこみあげてきた。これが歌われた同名映画の原作【前掲「長い道」】は、縁故疎開した親友の兄貴(故・柏原兵三氏)が、実体験をもとに書き著した芥川賞受賞作品であった。

●その晩帰宅したら、偶然にもOSF仲間の島田孝克君(6期)から、疎開の思い出を綴った一文が届いていた。それを一読した途端、ある考えが閃いた<そうだ、みんなの戦争・疎開体験を聞いておこう!>。

島田君は終戦時、幼稚舎の1年生だった。そうすると楽友会1期生は6年生だったはず。各期の人々の体験談を知れば、学年別・学校別のさまざまな疎開の実態、そしてそれを各人がどう受けとめ、どう生きてきたかが分かってくる。それによって、自分だけの幼く、被害者意識で埋もれた戦争や疎開の記憶やトラウマを修正し、克服できるかもしれないと思ったのである。

●その願いに応じて寄せられた体験記でこの特集「疎開」を編んだ。当ホームページには、既にAnthology⇒記念文集に池田弥三郎(「あるレコードの記録」)、毛利武彦(「苦しかった日の思い出」)両先生の兵隊体験、それに「楽友会初代会長・有馬大五郎先生の略年譜」に同先生の戦時体験、さらには演説館(FORUM)の「N先生」や「祖師・成田為三先生と『浜辺の歌』」に成田・岡田忠彦両先生の戦時体験も載っている。ぜひ皆様にこれらを味読していただきたい。 

そして、その感想記でも独自の体験でも随筆でも何でも結構。幅広い年代の、さまざまな戦争への思いを、どんどん寄せて頂けることを、祈るような気持でお待ちする。(2010年8月10日・ポツダム宣言受諾記念日)


参考文献

重要な参考資料は本文中に記したが、本文中に掲載しきれなかった良書、特に多くの実録写真を掲載してある書籍は次の通りである。

1. <グラフィック・レポート>東京大空襲の全記録(石川光陽著/森田写真事務所編/岩波書店/92年刊:戦前からカメラマンとして警視庁に奉職した著者が、職務上撮影し得た生々しい、時には酸鼻を極める写真の数々が収録されている)


炎上する銀座鳩居堂付近


地下鉄 銀座駅昇降口へ救助隊

2. 【図説】戦争の中の子どもたち(山中恒著/河出書房新社/89年刊)

3. 【写説】戦時下の子どもたち(太平洋戦争研究会編/ビジネス社/06年刊)

4. 子どもたちの8月15日(岩波新書編集部編/岩波書店/05年刊:写真はないが、33名のさまざまなジャンルで活躍する著名人が、子ども時代に迎えた終戦時の体験記集)


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