年
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月 |
日 |
年齢 |
略 歴 |
1900 |
9 |
12 |
〜17 |
兵庫県神戸市で、富裕な米穀物肥料卸売業の「有馬商店」当主・有馬藤次郎と母・とみ子の5男として誕生(明治33年)。恵まれた環境で自由奔放な幼・少年時代を過ごし、入江小学校の恩師・青木児(ハジメ)から小・中学時代を通じて強い音楽的感化と薫陶を受けた。 |
1919 |
4 |
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18 |
北大付属予科に入学。札幌市内の私塾で声楽レッスンを受け、練習に励む。1年で中退。 |
1920 |
4 |
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19 |
慶大文学部予科に転学。ワグネル・ソサィエティーに入部。外山国彦(明治〜昭和期のバリトン歌手・音楽教育者。指揮者・外山雄三の父)他の指導を受けて音楽に熱中。音楽家になること、オーストリアに留学することを夢見て3年で中退。帰郷。長兄宅に寄宿して甥や姪の面倒を見ながら、東京音楽学校(現芸大)を受験したが2度失敗。音楽会を開いて独唱を披露するなどして、気ままに過ごした。
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1923 |
6 |
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22 |
1年志願兵として姫路の連隊に入隊。虫垂炎を患い3カ月で除隊。帰郷して楽典とドイツ語学習に打ちこみ、留学準備。
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1925 |
9 |
15 |
25 |
オーストリアに向け、神戸港より出国。同年暮れにマルセイユ経由でウィーン到着。 |
1926 |
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26 |
ウィーン国立音楽院声楽科入学(大正15年)。親元からの潤沢な仕送りと円高の恩恵を受けて音楽院=ウィーン生活を満喫。音楽三昧の日々と豪遊で交友を広めた。大使館付き武官・山下奉文(後の「マレーの虎」)や指揮科のカラヤンとの出会いは後に大きな意味をもつ。いつしか病魔に襲われ喀血。休学してスイス・ダヴォスで転地療養。1年で軽快しウィーンに戻ったが喉の筋肉と声帯が結核菌に侵され声楽を断念、作曲科に転科。同科留学中の尾高尚忠と親交を結ぶ。しかし肺結核が再発し、スイスのアローザで再び転地療養。その間に卒業制作の「ピアノ5重奏曲」を完成。看護婦との恋愛事件を起こして同地を追われ、ウィーンの森にある高級サナトリウムに転院快癒。復学して同科卒業。
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1928 |
9 |
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28 |
ウィーン大学哲学部音楽科在籍。 |
1934 |
3 |
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33 |
同大学で哲学博士号取得(主専攻・音楽学、副専攻・民俗学)。大量の書籍を購入し、5月に帰国。日本はこの前年に国際連盟脱退。暫時軍務に服して入隊。 |
同 |
10 |
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34 |
テノール歌手として楽壇デヴュー。個人リサイタルや慶應ワグネル・ソサィエティー等との協演、さらには朝鮮演奏旅行(35年10月)等を行う。以後も声楽家としての活動を続けたが、喉の損傷の影響でかつての声域と声量は戻らなかった。一方、ウィーンで培った豊かな人脈、学識・経験がものをいい、楽壇の相談役的存在となった。先ずは当時内紛の絶えなかった新交響楽団(N響の前身)の演奏支援活動に参与。来日したジンバリストやルビンシュタインの通訳も務めた。音楽批評、随想、論文執筆にも力を注いだ。
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1936 |
4 |
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35 |
(昭和11年)2.26事件起きる。東京高等音楽院(現・国立音楽大学)の教師に就任。新響の内紛収まり、NHKと専属契約。10月にローゼンシュトックが専任指揮者に就任。この年はピアノのケンプ、指揮のヘルベルトとレプナー、チェロのフォイヤーマン等、ドイツ・オーストリア系の音楽家の来日が相次ぎ、有馬は通訳としても多忙を極めた。
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1937 |
5 |
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36 |
客演指揮者ワインガルトナー招聘と通訳、接待に尽力。7月:日中戦争始まる。
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1938 |
3 |
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37 |
民間伝承の会による「日本民俗学講座」で「民謡音楽」を担当。4月:国家総動員法公布。11月:日独文化協定成立、ユダヤ人を敵性外国人とみなしての排斥機運高まる。 |
1939 |
6 |
23 |
38 |
明治生命講堂で最後の声楽リサイタル開催。洋画家・和田三造令嬢・佐與と結婚。9月:ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦始まる。
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1940 |
5 |
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39 |
(財)日独文化協会主事に就任。ユダヤ系ドイツ人・ローゼンシュトック追放の圧力に抗して擁護。その演奏会を継続。また多くのユダヤ系演奏者を受け入れ、新響の演奏水準を高めた。11月:紀元2600年記念式典、奉祝音楽会。
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1941 |
1 |
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40 |
新響機関紙「フィルハーモニー」新年号の巻頭言執筆。また戦時体制下で音楽関係者を一元化した新組織・日本音楽文化協会の委員に就任。12月:日本、米英両国に宣戦布告。太平洋戦争開戦。
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1942 |
4 |
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41
〜42 |
新響が「日本交響楽団」と改組・改称。初代理事・事務長に就任。ちなみに当時のコンサート・マスター日比野愛次氏は、楽友会6期の学生指揮者・故日比野隆哉君(当時4歳)の厳父。有馬は若手日本人指揮者を重用し、其々ワインガルトナー、ローゼンシュトックに師事した専任指揮者・尾高尚忠、山田和男を盛り立てた。4月:日本本土に初空襲。6月:日本軍、ミッドウェー海戦で敗退。11月:長男大造誕生。
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1943 |
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43 |
米英音楽禁止、学徒出陣、極端な物資不足など世上不安と軍の圧力が強まる中、有馬は軍上層部への画策によって日響の楽員を確保。定期演奏会を継続(他のオーケストラは活動休止)した。ただし、全楽員は国民服にゲートル着用、開演前には総員起立で皇居遥拝と君が代演奏を行った。
9月:イタリア降伏。 |
1944 |
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44 |
2月:軍命令でローゼンシュトックは軽井沢に強制疎開。4月:日響・新人・高田信一を専任指揮者に加える。日本人だけで定期演奏会を継続。8月:二男大翼誕生。小学3年生以上の学童集団疎開始まる。歌舞伎座、宝塚歌劇団など休止。防空頭巾携行と女性のモンペ姿が常態となる。
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1945 |
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45 |
B29による連日の猛爆にもかかわらず日比谷公会堂と内幸町のNHK放送会館は無事だった。そこで日響の定期演奏会と海外向け生演奏も続いた。楽員も聴衆も、一面の焼け野原を徒歩で通った。4月:米軍沖縄上陸。5月:ドイツ無条件降伏。6月:日響は尾高指揮によるベートーヴェンの第6と第8さらに第9交響曲を連続演奏して夏休みを迎えた。7月:鈴木首相、ポツダム宣言「黙殺」を表明。8月:広島・長崎に原爆、ソ連が参戦。天皇が「終戦の勅書」放送。連合軍総司令部横浜に設置、米マッカーサー元帥が最高司令官に着任。9月:無条件降伏文書調印。日響第135回定期演奏会(尾高指揮・ベートーヴェンの交響曲第3番 英雄他)。その後直ちに有馬は軽井沢にローゼンシュトックを迎えに行き、10月の定演ではその指揮で、「敵性音楽」視されていたチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」、ドヴォルザーク「交響曲第9番 新世界から」等を上演せしめて前途を祝した。 |
1946 |
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46 |
占領軍の干渉を受けつつも、日響演奏活動を活性化。 |
1947 |
6 |
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同 |
東京高等音楽学校を国立音楽学校と改名、校長に就任。 |
1948 |
5 |
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47 |
(昭和23年)同校の財団法人化で理事長に就任。 |
1949 |
12 |
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49 |
日本放送協会会長賞と文部大臣感謝状を受ける。 |
1950 |
4 |
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同 |
国立音楽学校が「国立音楽大学」となるに伴い学長に就任。 |
1951 |
2 |
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50 |
同大学が学校法人の認可を受け理事長に就任。8月:日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組・改称、理事・事務長職を継続。9月:クルト・ウェスを常任指揮者に招聘。
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1952 |
3 |
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51 |
母とみ子死去。5月:日本音楽教育学会理事に就任。6月29日:慶應義塾楽友会発足に伴い初代会長に就任。この年、有馬はN響の演奏レヴェル向上のため、ウィーンからコンサート・マスターとしてパウル・クリング、ハープのヨゼフ・モルナール等4名の客員奏者を招聘し、楽員を補強した。
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1953 |
10 |
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53 |
N響、ジャン・マルティノン招聘(初のフランス系音楽家)。
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1954 |
4 |
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53 |
同、カラヤン招聘、通訳として同道。 |
1955 |
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55 |
7-9月:ヨーロッパ楽界視察旅行。12月:日独協会理事に就任。N響のウィーン少年合唱団招聘に通訳として同道。 |
1956 |
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56 |
N響、イタリア歌劇団と初公演。指揮研究員制度を設けて外山雄三、岩城宏之を任用。
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1957 |
3 |
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56 |
放送文化賞受賞。N響、ロイブナーを常任指揮者に招聘。4月:「日墺協会」理事に就任。N響事務長を辞任。
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1958 |
2 |
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57 |
「国立劇場設立準備協議会」委員 |
1959 |
12 |
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59 |
「芸術教育振興委員会」「ドイツ留学生選考委員会」各委員 |
1960 |
8 |
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59
〜60 |
前年12月中旬から当年2月まで渡欧して下準備した「N響世界一周演奏旅行」に同行出発し、11月上旬帰国。11月19日:国立音大創立35年、大学移行10周年記念式挙行。
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1961 |
6 |
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60 |
(昭和36年)N響副理事長に就任 |
1962 |
9 |
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62 |
N響「東南アジア演奏旅行」に同行し、10月中旬帰国。 |
1963 |
4 |
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62 |
N響に東京芸大指揮科卒、元慶應義塾楽友会員(3期)・若杉弘を指揮研究員(95年から正指揮者待遇)として任用。
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1965 |
7 |
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64 |
「オーストリア科学文化一等勲章」受章。 |
1966 |
4 |
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65 |
5月末までN響に同行して「北中南米演奏旅行」。 |
1967 |
11 |
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67 |
「ウィーン市文化勲章」受章。 |
1968 |
10 |
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68 |
「日墺協会」会長に就任。 |
1969 |
2 |
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68 |
N響「ソウル公演」に同行。3月:ドイツ連邦共和国より「一等功労十字章」受章。 |
1971 |
2 |
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70 |
N響「台北公演」に同行。 |
1973 |
2 |
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72 |
N響「沖縄公演」に同行 |
1979 |
4 |
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78 |
国立音楽大学名誉教授・名誉学長となる。 |
1980 |
10 |
3 |
80 |
(昭和55年)脳血栓のため国立市の自宅で永眠。青山斎場でN響、国立音大が合同音楽葬を執行。またN響は日本演奏旅行中のウィーン・フィルハーモニーと合同で追悼演奏を行った。
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