記念資料集有馬語録)

楽友会初代会長・有馬大五郎先生の略年譜


有馬大五郎楽友会会長(中央)
楽友会第1回発表会 YWCAホール 1952/12/26

岩城宏之氏の著した「チンドン屋の大将になりたかった男−N響事務長 有馬大五郎(NHK出版・2000年刊)」を読むと、改めてその偉大な人物像が彷彿としてよみがえります。

有馬先生は身の丈6尺(約182cm)、体重30貫(約113kg)をこえる偉丈夫であったばかりではなく(クロニクル「音楽愛好会と楽友会の併走時代(2)」に掲載の、上の記念写真参照。隣の岡田先生さえ小さく見えます)、真の日本文化と豊かな国際的教養を身につけた偉才であったことがよく分かります。と同時に、この偉才がその生涯をかけて育てたNHK交響楽団が今日、世界に冠たる一流のオーケストラに発展した背景事情も明らかになります。先生こそ「戦争の20世紀」を生き抜き、日本に真の音楽文化を根付かせた希代のIntendant(総支配人、総監督)でした。

ここに上掲書を基にまとめた略年譜を掲げ、先生が楽友会に寄せられた数々の玉稿の心髄を、探るよすがとさせて頂くゆえんです。(編集部オザサ)

年齢
略         歴
1900
9
12
〜17
兵庫県神戸市で、富裕な米穀物肥料卸売業の「有馬商店」当主・有馬藤次郎と母・とみ子の5男として誕生(明治33年)。恵まれた環境で自由奔放な幼・少年時代を過ごし、入江小学校の恩師・青木児(ハジメ)から小・中学時代を通じて強い音楽的感化と薫陶を受けた。
1919
4
 
18
北大付属予科に入学。札幌市内の私塾で声楽レッスンを受け、練習に励む。1年で中退。
1920
4
 
19
慶大文学部予科に転学。ワグネル・ソサィエティーに入部。外山国彦(明治〜昭和期のバリトン歌手・音楽教育者。指揮者・外山雄三の父)他の指導を受けて音楽に熱中。音楽家になること、オーストリアに留学することを夢見て3年で中退。帰郷。長兄宅に寄宿して甥や姪の面倒を見ながら、東京音楽学校(現芸大)を受験したが2度失敗。音楽会を開いて独唱を披露するなどして、気ままに過ごした。
1923
6
 
22
1年志願兵として姫路の連隊に入隊。虫垂炎を患い3カ月で除隊。帰郷して楽典とドイツ語学習に打ちこみ、留学準備。
1925
9
15
25
オーストリアに向け、神戸港より出国。同年暮れにマルセイユ経由でウィーン到着。
1926
 
 
26
ウィーン国立音楽院声楽科入学(大正15年)。親元からの潤沢な仕送りと円高の恩恵を受けて音楽院=ウィーン生活を満喫。音楽三昧の日々と豪遊で交友を広めた。大使館付き武官・山下奉文(後の「マレーの虎」)や指揮科のカラヤンとの出会いは後に大きな意味をもつ。いつしか病魔に襲われ喀血。休学してスイス・ダヴォスで転地療養。1年で軽快しウィーンに戻ったが喉の筋肉と声帯が結核菌に侵され声楽を断念、作曲科に転科。同科留学中の尾高尚忠と親交を結ぶ。しかし肺結核が再発し、スイスのアローザで再び転地療養。その間に卒業制作の「ピアノ5重奏曲」を完成。看護婦との恋愛事件を起こして同地を追われ、ウィーンの森にある高級サナトリウムに転院快癒。復学して同科卒業。
1928
9
 
28
ウィーン大学哲学部音楽科在籍。
1934
3
 
33
同大学で哲学博士号取得(主専攻・音楽学、副専攻・民俗学)。大量の書籍を購入し、5月に帰国。日本はこの前年に国際連盟脱退。暫時軍務に服して入隊。
10
 
34
テノール歌手として楽壇デヴュー。個人リサイタルや慶應ワグネル・ソサィエティー等との協演、さらには朝鮮演奏旅行(35年10月)等を行う。以後も声楽家としての活動を続けたが、喉の損傷の影響でかつての声域と声量は戻らなかった。一方、ウィーンで培った豊かな人脈、学識・経験がものをいい、楽壇の相談役的存在となった。先ずは当時内紛の絶えなかった新交響楽団(N響の前身)の演奏支援活動に参与。来日したジンバリストやルビンシュタインの通訳も務めた。音楽批評、随想、論文執筆にも力を注いだ。
1936
4
 
35
(昭和11年)2.26事件起きる。東京高等音楽院(現・国立音楽大学)の教師に就任。新響の内紛収まり、NHKと専属契約。10月にローゼンシュトックが専任指揮者に就任。この年はピアノのケンプ、指揮のヘルベルトとレプナー、チェロのフォイヤーマン等、ドイツ・オーストリア系の音楽家の来日が相次ぎ、有馬は通訳としても多忙を極めた。
1937
5
 
36
客演指揮者ワインガルトナー招聘と通訳、接待に尽力。7月:日中戦争始まる。
1938
3
 
37
民間伝承の会による「日本民俗学講座」で「民謡音楽」を担当。4月:国家総動員法公布。11月:日独文化協定成立、ユダヤ人を敵性外国人とみなしての排斥機運高まる。
1939
6
23
38
明治生命講堂で最後の声楽リサイタル開催。洋画家・和田三造令嬢・佐與と結婚。9月:ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦始まる。
1940
5
 
39
(財)日独文化協会主事に就任。ユダヤ系ドイツ人・ローゼンシュトック追放の圧力に抗して擁護。その演奏会を継続。また多くのユダヤ系演奏者を受け入れ、新響の演奏水準を高めた。11月:紀元2600年記念式典、奉祝音楽会。
1941
1
 
40

新響機関紙「フィルハーモニー」新年号の巻頭言執筆。また戦時体制下で音楽関係者を一元化した新組織・日本音楽文化協会の委員に就任。12月:日本、米英両国に宣戦布告。太平洋戦争開戦。

1942
4
 

41
〜42

新響が「日本交響楽団」と改組・改称。初代理事・事務長に就任。ちなみに当時のコンサート・マスター日比野愛次氏は、楽友会6期の学生指揮者・故日比野隆哉君(当時4歳)の厳父。有馬は若手日本人指揮者を重用し、其々ワインガルトナー、ローゼンシュトックに師事した専任指揮者・尾高尚忠、山田和男を盛り立てた。4月:日本本土に初空襲。6月:日本軍、ミッドウェー海戦で敗退。11月:長男大造誕生。
1943
 
 
43
米英音楽禁止、学徒出陣、極端な物資不足など世上不安と軍の圧力が強まる中、有馬は軍上層部への画策によって日響の楽員を確保。定期演奏会を継続(他のオーケストラは活動休止)した。ただし、全楽員は国民服にゲートル着用、開演前には総員起立で皇居遥拝と君が代演奏を行った。
9月:イタリア降伏。
1944
 
 
44
2月:軍命令でローゼンシュトックは軽井沢に強制疎開。4月:日響・新人・高田信一を専任指揮者に加える。日本人だけで定期演奏会を継続。8月:二男大翼誕生。小学3年生以上の学童集団疎開始まる。歌舞伎座、宝塚歌劇団など休止。防空頭巾携行と女性のモンペ姿が常態となる。
1945
 
 
45
B29による連日の猛爆にもかかわらず日比谷公会堂と内幸町のNHK放送会館は無事だった。そこで日響の定期演奏会と海外向け生演奏も続いた。楽員も聴衆も、一面の焼け野原を徒歩で通った。4月:米軍沖縄上陸。5月:ドイツ無条件降伏。6月:日響は尾高指揮によるベートーヴェンの第6と第8さらに第9交響曲を連続演奏して夏休みを迎えた。7月:鈴木首相、ポツダム宣言「黙殺」を表明。8月:広島・長崎に原爆、ソ連が参戦。天皇が「終戦の勅書」放送。連合軍総司令部横浜に設置、米マッカーサー元帥が最高司令官に着任。9月:無条件降伏文書調印。日響第135回定期演奏会(尾高指揮・ベートーヴェンの交響曲第3番 英雄他)。その後直ちに有馬は軽井沢にローゼンシュトックを迎えに行き、10月の定演ではその指揮で、「敵性音楽」視されていたチャイコフスキー「ピアノ協奏曲第1番」、ドヴォルザーク「交響曲第9番 新世界から」等を上演せしめて前途を祝した。
1946
 
 
46
占領軍の干渉を受けつつも、日響演奏活動を活性化。
1947
6
 
東京高等音楽学校を国立音楽学校と改名、校長に就任。
1948
5
 
47
(昭和23年)同校の財団法人化で理事長に就任。
1949
12
 
49
日本放送協会会長賞と文部大臣感謝状を受ける。
1950
4
 
国立音楽学校が「国立音楽大学」となるに伴い学長に就任。
1951
2
 
50
同大学が学校法人の認可を受け理事長に就任。8月:日本交響楽団が「NHK交響楽団」に改組・改称、理事・事務長職を継続。9月:クルト・ウェスを常任指揮者に招聘。
1952
3
 
51
母とみ子死去。5月:日本音楽教育学会理事に就任。6月29日:慶應義塾楽友会発足に伴い初代会長に就任。この年、有馬はN響の演奏レヴェル向上のため、ウィーンからコンサート・マスターとしてパウル・クリング、ハープのヨゼフ・モルナール等4名の客員奏者を招聘し、楽員を補強した。
1953
10
 
53
N響、ジャン・マルティノン招聘(初のフランス系音楽家)。
1954
4
 
53
同、カラヤン招聘、通訳として同道。
1955
 
 
55
7-9月:ヨーロッパ楽界視察旅行。12月:日独協会理事に就任。N響のウィーン少年合唱団招聘に通訳として同道。
1956
 
 
56
N響、イタリア歌劇団と初公演。指揮研究員制度を設けて外山雄三、岩城宏之を任用。
1957
3
 
56
放送文化賞受賞。N響、ロイブナーを常任指揮者に招聘。4月:「日墺協会」理事に就任。N響事務長を辞任。
1958
2
 
57
「国立劇場設立準備協議会」委員
1959
12
 
59
「芸術教育振興委員会」「ドイツ留学生選考委員会」各委員
1960
8
 

59
〜60

前年12月中旬から当年2月まで渡欧して下準備した「N響世界一周演奏旅行」に同行出発し、11月上旬帰国。11月19日:国立音大創立35年、大学移行10周年記念式挙行。

1961
6
 
60
(昭和36年)N響副理事長に就任
1962
9
 
62
N響「東南アジア演奏旅行」に同行し、10月中旬帰国。
1963
4
 
62
N響に東京芸大指揮科卒、元慶應義塾楽友会員(3期)・若杉弘を指揮研究員(95年から正指揮者待遇)として任用。
1965
7
 
64
「オーストリア科学文化一等勲章」受章。
1966
4
 
65
5月末までN響に同行して「北中南米演奏旅行」。
1967
11
 
67
「ウィーン市文化勲章」受章。
1968
10
 
68
「日墺協会」会長に就任。
1969
2
 
68
N響「ソウル公演」に同行。3月:ドイツ連邦共和国より「一等功労十字章」受章。
1971
2
 
70
N響「台北公演」に同行。
1973
2
 
72
N響「沖縄公演」に同行
1979
4
 
78
国立音楽大学名誉教授・名誉学長となる。
1980
10
3
80
(昭和55年)脳血栓のため国立市の自宅で永眠。青山斎場でN響、国立音大が合同音楽葬を執行。またN響は日本演奏旅行中のウィーン・フィルハーモニーと合同で追悼演奏を行った。

「有馬語録」目次へ

有馬先生の昭和24年当時のお写真が「なぜ国立音楽大学は国立にないのか?」という2年に亘る連載コラム(今でいうブログ)に掲載されているのを見つけました。国立音楽大学名誉教授小山章三氏が依頼を受けて1999年〜2001年にかけて書かれています。有馬先生の写真のページ2箇所にリンクを張っておきますが、トップページからお読みください。興味深い話の連続です。(編集部わかやま)

http://www007.upp.so-net.ne.jp/kunion/onngakukaido21-27.htm

http://www007.upp.so-net.ne.jp/kunion/ongakukkaidou49-.htm


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