記念資料集有馬語録)

「楽友」の発表会を観て

有馬 大五郎(楽友会会長)


将来の日本を背負って立つこの若い人たちが、何をするのかということが興味の中心である。音楽を好むものが集まって合唱をする、演奏する。そうして効果が最上のものであることが、この人たちのねらいであることもよく分かっている。また、その熱意と純粋性があってこそ始めてできる催しものである。

それで私は誰にも負けないように手をたたいた。この人たちの目指す演奏の目的が達成されていたからである。そうしてその技術をもってして他の合唱あるいは演奏団体に交わって付き合っていけるからである。実は私の見たいところはそこにあった。この人たちは音楽を通じて社会に接触面をもとめ、しかもその要求が容れられているのである。大した仕事をしているのである。と考えていくと合唱の中でときに聞こえてくる奇声などは一寸も気にならなかった。逆に専門家の演奏会にその奇声と取組んで批評を書く私がとみにいやしい人間に思われて恥ずかしかった。近頃全くもって追うた子から教えられる。

我々のやっている西洋音楽なるものは日本人全部の所有物ではない。字に書くように西洋人のものである。その間の距離を大きく認めざるを得ない。それでも私どもはこの職業が好きで堪らんのである。そこで「好きで堪らん」からする仕事の外に、今一つやらねばならぬ仕事が自ずとできてくる。それは今日残念ながら大きく認めざるを得ない日本人全部との距離を短縮することである。この第二の仕事は何とまあ、「楽友」人、言葉を換えれば「塾人」にうってつけであることか。この若い人たちが20年、30年の後にどんなことをして日本人文化に貢献するかと思うと頼もしい限りである。

音楽専門家であると宣言した途端にその人の芸術は絶対的なものとして、一応自己を前に出して突っ張らねばならぬ端目に置かれる。これも文化事業への一役ではあるが、客観性をもった広い文化圏への貢献でない場合が往々にして見受けられる。

この専門家と日本大衆との間に立って、広い範囲の文化地帯で両者の斡旋をし、その距離を狭めてくれる役割を将来に、否、現に今私の目の前でやってくれている人たちを非常に尊いものに思えたのである。

よい声を出し、よい音を出すことに専念している「楽友」たちが意識していないところで大きな仕事をし、将来さらに大事業を行う準備をしているということを考えてもらいたいと思う。そうしてその根拠が強化されればされるほど「楽友」の芸術精進が一層深められていくのである。これは信じてもらいたい。

舞台で幕を開閉したり、解説その他場内放送をしたり、ピアノを抱えてその位置を換へたり、写真を撮ったり、プログラムを作成したり、「楽友」たちの手によってあらゆることが行われていることも嬉しいことであった。人間、社会人としてやらなければならぬことならさっさと若い時に、こだわりなく経験してしまうことである。どこに立たされても驚かない人間になって貰いたいのである。

若い「楽友」たちが何をするかという興味をもって発表会に臨んだ私は、無上の喜びを感じたと同時に、なぜ私が喜んだかを分かってもらいたさにこんなことを書いてみたのである。(筆者は本会会長)


編注:

@これは機関誌「楽友(新・第2号/53年3月刊)」の「第1回発表会(後に『楽友会第1回定期演奏会と改称/52年12月/YWCAホール)特集コーナー」に掲載された、「『楽友』の発表会を観て」と題する寄稿文をそのまま転載したものです(ただし旧漢字、旧かな遣いは、読みやすいように一部校訂しました)。

A著者については「記念文集」のページにある「楽友会命名の由来と歴代会長」の項で紹介してありますが、その風貌や他の玉稿は同ページの「有馬語録」や「クロニクル」の第1回発表会での記念写真をご参照ください。

B先生は塾文学部とワグネルに所属しておられましたが中退し、その後9年間ウィーンに留学して声楽と作曲を学び、最終的にはウィーン大学で哲学博士号(音楽学)を取得されました。帰国後はN響の前身・新響⇒日響と深く係わり、戦前・戦中を通じての演奏活動継続と維持発展に偉大な力を発揮し、戦後は国立音楽大学学長またN響事務長として日本の音楽水準向上や、岩城宏之氏を見出す等多くの楽人の育成にも多大な貢献をされました。その岩城氏が著した有馬先生に関するとても興味深い評伝があります。それを読むと、上の一文を書かれた先生のお気持ちやその背景がよく分かります。ご一読をお勧めします:「チンドン屋の大将になりたかった男−N響事務長 有馬大五郎(岩城宏之著/NHK出版/00年刊)」。

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