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苦しかった日の思い出

毛利 武彦


僕は初年兵であった。物凄く忙しく何も考えてなど居られなかった。或る日それは騎兵隊の烈しい厩作業の時のこと、僕はもう自分の意志と耐える力が極限にきてしまってゐる事を感じていた。けれど手足はまだ動いてゐた。

突如、どうしたことか酒保のラヂオがとどろいた。すぐに消されてしまったけれどそれはクラシックであった。誰のものかは知らぬ。ただ正に「音楽」であった。一瞬、その瞬間に僕はどれだけのことを感じ、どんなに遠い夢を見に行けたことか。汗と埃のなかに僕は疲労を陶酔してゐた。けれどなほ手足は動いていた。

台湾も屏東迄くると南十字星が見えた。僕たちのゐたところはそれから3里も奥だったが、40歳以下の人たちは皆「今は山中」とか「菜の花畑に」等をちゃんと唱う。連春といふ女の子は15であったが、水牛の番をしながら講談を読んでいる程でほんとに綺麗な日本語をしゃべってゐた。

或る静かな夜、隊に一つのポータブルが朱欒ザボンの樹の下に持ち出された。「東京音頭」なんか鳴り出すと部落の人は珍しがってバナナの林の中に佇んだ。子供達は僕達と仲が良かったので皆すぐ傍に寄ってきた。連春は恥ずかしそうにポータブル蓄音器のハンドルを廻してゐたが、時々「2拍子よ」等と云って手で拍子をとった。その可憐な姿を青と染ますばかりに月の光が射し込んで、まるで妖精の森のやうであった。もと匪賊の本據であったとかいふ辺鄙な部落でのことである。

台湾先住民高山族の山で「第5」を聴いた。当時僕はマラリヤ患者であった。北部台湾の山の中ウライといふ所に陸軍病院があって民家が山霧の切目に望まれた。そこの院長がポータブルと色々なレコードを持ってゐると知った時は嬉しかった。頼んで院長の留守に独りでそれをいぢらせて貰ったのだった。「フィンガルの洞窟」とかいふメンデルスゾーンがあった。しかし何よりも素晴らしいのはワインガルトナーの「運命」であった。何度それをかけたことであろう。そしてあの、一度すべての叫びが消えて、音がほとんど聞こえなくなるところ、針を持ち上げてはそこへ戻し、耳をつけるやうにして繰り返し聴いた。

ちょうど沖縄の全員玉砕45年6月23日が伝えられ、僕の弟もそこに居た筈であった。



表紙・徽章デザイン: 毛利 武彦

編者注:「楽友」新・第2号(53年3月29日発行)から転載。筆者は塾校・美術科教諭でいらっしゃいましたが、当時の塾校では音楽と美術を併せて選択することはできなかったため、音楽愛好会員で毛利先生の授業を受けた者はいなかったと思います。

 しかし岡田先生が近しくしておられた関係で一般会員まで親しみを感じ、種々ご厚誼を賜りました。とても温厚な紳士で常にやさしい笑顔をたたえ、何でも快く引き受けてくださいました。この一文もそうですが「楽友」への寄稿をはじめ新・創刊号以後の「楽友」表紙デザインと本文中に挿入する多数のイラスト作成、さらには定期演奏会プログラムの表紙デザインその他に非常なご協力をいただきました。確か、楽友会発足を記念して造られたバッジも毛利先生にお願いしてできたものでしょう。男子会員はそれを制帽の横につけ、得意げに通学したものでした。
 

ここに転載した「楽友」は、毛利先生初のデザインによる新・創刊号の表紙と、その裏表紙に印刷された楽友会員章ともいうべきバッジのイメージ(CHOR)です。(オザサ)

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