記念資料集Archive)

N先生*1
 

岡田 忠彦 


中学の先輩の世話により上京。その先輩の紹介によるO先生*2のその又御紹介により、自分がN先生宅*3の門を叩いたのは、太平洋戦争酣の頃であった。瀬戸内海の温暖で又、物資豊富な田舎町に育った中学4年生の襟章・制服・制帽姿の自分にとって、この大東京の潮の如き人波は大きな脅威であった(尤もこの時は2回目の上京であったが・・・)。そして三つ子でも「大きくなったら何になるの?」と尋ねると「兵隊さん」と答へた時代であったから、「音楽学校志望」などというのは幅のきかない事夥しく、学校に於ては落第生の如く扱はれ、世の人からは非国民呼はりされた。全くもって頭の上がらぬ時代であった。

かくの如き不肖の息子をもった父母に、堅く誓ひを立て別離の駅頭に立てば、別の車窓には歓呼の人波に送られて陸士、海士に入学する友人達の姿があった。こうした雰囲気の中で、父子共に云い様のない罪悪感に包まれながら、別れの言葉を交はしたのである。

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この様にして上京した自分にとっては、O先生こそ唯一の頼みの綱であった。O先生の紹介状を大切にカバンの楽譜の中に挟み、先輩S氏に伴はれ、N先生宅を訪問したのである。道中、S氏から、N先生が弟子に対して非常に厳格である事、そしてその反面、弟子たちの私生活に対して、細々と思慮を御払ひになること又、長年の神経痛の為、歩行が御不自由である事等を聞かされた。そして勝手に先生の風貌を脳裏に描きつつ、おとなしくS氏の後について行ったのである。


新婚当時、文子夫人と京都嵐山で

その時S氏の云った事で今でも忘れられないのは「先生はレッスンについては常に厳格なもので、以前(神経痛を煩はれる前)は、先生の意に背く様なことをすると、その怒声は襖を破るほどだった」といふ言葉である。浅学少壮、中学4年生の自分の様なものは、若しや先生の怒りにふれ、入門どころか「此の時代に君のように浅学で、又若い者は弾丸の一つでも造った方が国の為になる・・・音楽をやろうなんて以ての外だ」と反対にお怒りを頂戴するのではないか・・・いや、O先生がその恩師に責任を以て紹介して下さったのであるから・・・と又、望みの糸を手繰ったりしながら遂にN先生の門前の人となってゐた。

門札には、今まで活字によって拝見してゐた御名前が毛筆で清楚に書かれてゐた。お宅は純日本式の2階屋で、少しばかりの庭園を距てゝ、高い板塀がそれを囲み、正面の2枚の引き戸を開け、両側の高い竹垣の間を抜けて玄関に行く様になってゐた。そしてS氏の開ける引き戸の鈴の音に「遂に来たぞ、己の全力を尽くしてやろう」と、自分もまた心の鈴を鳴らしつゝ玄関に立ったのであった。

やがて、奥様らしい和服姿の、典型的な(典型的といふのは、質素で清潔で穏かで礼儀正しいことを云ふ)日本婦人の御挨拶と御案内で、2階の応接間兼音楽室に通され、簡易な籐造りの応接セットに腰を下ろした。室内の装飾と云へば、壁に掲げられたベートォヴェンのデス・マスク唯一・・・その下にピアノ1台、別の壁には畳から天井まで楽譜・書物の類が特大の書棚*4に整頓され、その左に普通の机、椅子が、又次の先生の御研究を待って居る・・・と云った様子であった。

間もなく、御不自由な足を引きずり、小さくヨイショヨイショと呟きながら階段を上って来られる先生の気色が伝はり、愈々先生の御入室を御待ちすべく今一度制服を正したのであった。やがて和服姿で坊主頭の先生が静かに襖を開けて入って来られ、少し高い(テノール)声で、

「コンチワ、イラッシャイ」

と大きく、神経質そうに輝く眼差で、この田舎中学生に対しても、簡単ではあるが丁寧なご挨拶をされ、椅子をお勧めになるのであった。お互いに腰を降ろすと(降ろすと云っても自分は両脇から汗が流れ、顔は紅潮し、眼鏡は曇るといった状態・・・)、自分の差し出したO先生の紹介状を丹念に御覧になり、

「では、これを書いてみて下さい」

と、いきなり簡単なコラールを書かされた。まるで初等の知識しかない自分の書いたコラールを、ピアノに向かってゆっくりウンウンと低い小さな声で肯き乍ら、2,3回御弾きになり、

「では次にこれ唱って下さい、小さい声で結構・・・」と1枚の譜を御示しになった。調子は忘れたが、多分6/8拍子で簡単な近親調への転調を含む旋律だったと思ふ。歌い了ると、又例によって暫く瞑目して、

「ウン、ウン・・・」

さて先生の頭の中を駆け廻っているものは・・・、とハンカチで顔の汗をぬぐってゐると、やがて又、

「ではピアノを聞かして戴きませう」

「曲は何ですか?」

「ハイドンのソナタです」

田舎製ハイドンを展開部迄弾き了ると、小さく私の肩を叩いて、

「もう結構・・・どうぞ腰を降ろして下さい」

と再び椅子を勧められ、御自分もテーブルの中心へ中腰で椅子を引寄せられた。もう「ウンウン」の瞑目はなく、S氏も椅子を引寄せて煙草を燻らし始めたのであった。この御二人の寛がれた様子に、<あゝこれで漸くテストは了ったのだな>と額や手の汗をふいてゐると、

「広島ではどなたについてゐましたか?」

「ハイ、僕の中学校のY先生と、和声は女学校のS先生です」

「ピアノは何時から始めました?」

「昨年の夏休暇からです」

「そうすると約1年半ですね」

「ハイそうです」

「お父さんお母さんはご健在ですか」

「ハイ」

「御兄弟は」

「男3人です」

「貴君は何番目ですか」

「2番目です」

「そうすると貴君は相続人ではないから、音楽の勉強が出来るわけですね」

と仰言った先生の御顔には微かに安堵の色が浮かんだように見えた。又続けて、

「下宿大丈夫ですか」

「ハイ伯母の家ですから」

 すると再び緊張した面持で、

「東京はだんだん物資が無くなってきました。田舎の様にはいきません。当分辛いでせうが」

「ハッ、その覚悟はして居ります。伯父は軍人で不在の処へもって来て、伯母が私の音楽をやることに大賛成してくれてゐますから・・・何とか頑張る積りです」

漸く先生の御様子から不安の色は消え去り、御歳より20歳以上も老けて見える御顔に慈父の如き温情と厳しさを浮かべて、

「ではこれから僕の本で和音をやります(S氏に向かって)貴方僕の本貸してあげて下さい。一生懸命やりませうね」と仰言るのであった。

「火曜と金曜の午後2時にいらっしゃい。東京寒いですから、風邪ひかぬ様にね」

「何卒宜しく御願い致します」

S氏と共に簡単なご挨拶をし、再び苦しそうに階段を御降りになる先生のヨイショヨイショの呟きに従って玄関まで降りた。

「寒いです。スッカリ支度して下さい」

先生が立ったままで仰言ると、奥様も何時の間にか先生の後ろでエプロンをはづしながら、御座りになり、

「そうです、お寒いですからどうぞ―」

S氏も御言葉に従って外套を着始めたので、自分もそれにならって金ボタンの外套をつけた。そして、

「もう道解ったでせう?一人で来られますね」という丁寧な御言葉に送られて玄関を出た。

戸外に出ると、入門を許された喜びと、入学試験を約3ヶ月後に控えた危篤状態の病人にも等しい青二才の少年を、実に懇切丁寧な態度と御言葉を以て御引受け下さった先生への感謝で胸が一杯になってしまった。そして暫しその門前に歩を留め、再び先生の質素で清澄な表札や御家をめつつ

<そうだ、ここまで来たなら後は自分の努力唯一・・・これのみに問題はかかっているのだ>と堅く心に誓ってS氏の後を追ったのである。

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こうして始まったN先生のレッスンは懇切を極めたものであった。あの特徴のある言葉、そしてあのアクセントで御自身の著書である和声学の書物を、まるで小学生にお伽噺をする様にゆっくりと噛んで含める様に御読みに・・・いや御読みと云うより御話になって、それをこちらで「ハイ解りました」と申し上げる迄繰返されるのであった。

そのレッスンの最中の先生の御姿、特に御顔はお伽噺のおぢいさんのそれの様に、千変万化するのであった。お伽噺のおぢいさんならば、聴き手の笑ひや悲しみを即座に反映しなければならない筈であるが、先生の表情の変化は「分からせやう」との一念に燃えての大真面目の御芝居であったから、笑ふことに於ては人後に落ちず大声を張りあげる自分である丈に、御老体を鞭打っての熱意溢るゝ御教授ぶり・・・大真面目の御顔の御芝居を、もしや笑ったりしては失礼にあたると思い、笑ひをかみ殺すのに一苦労も、二苦労もする時があった。

次に和声やその他の宿題となると、前にも述べた如く、一つひとつ入念に御自身でピアノを弾きながら御覧になるのである。そしてミスとか少しでも奇抜なことをしやうものなら

「私の手・・・これより先動きません・・・」

この短く厳しい御叱責に、一瞬にして自分の背中を冷汗が駆け廻るのであった。そして先生は暫く瞑目、沈黙の後、研ぎ澄まされた様に美しく削られた2Bの鉛筆で、必ず丁寧に訂正してくださるのであった。自分は

<先生、その先はもう解ってゐますから自分で書きます>と云ひたいことも屡々だった。又、同じミスでも上の様に厳しく鋭い場合と、御自身例の小声で「ウンウン」と頷きつつピアノで訂正し乍ら終わりまで弾かれて、後からミスの個所を指摘され、

「ああこれはホントに惜しいですね・・・」

と一緒になって真に痛恨の情を漏らされる時があった。同じミスでも、その価値の相違によってその作品の価値が決定されるのだ・・・すなはちミスに対する先生の態度によりその作品の価値が違ふ、ということが解り初めたのは何ヶ月か後のことであった。そして又これはごく稀であったが、

「兎も角スバラシイ・・・兎も角スバラシイ・・・」

と呟き乍ら子供がお菓子でも戴いた時の様に歓喜の情を示される時もあった。それはその宿題の中に多少のミスはあっても、何か先生の歓びの弦を鳴らす様なものが流れている時であった。たとえ全然理論上のミスがなくても、その歓びの弦にふれる様なものが流れてゐなければ、無言のままか、余程奮発されても「いいでせう」と唯一言、全く無表情なのであった。・・・であるから中学校に於ける今迄の様な授業や、先生に対する考へ方は一変してしまった。先生と生徒は一対一であり、自分の勉強、不勉強が、直接、以上に述べたような結果を生むのであるから、些かの不注意も怠惰も許されない訳であった。

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やがて学校への入学も許された。先生はその不自由な御体にも関らず、あの長い道中を、都電や省線等の連絡の階段ではゆっくりと休みながら、一本のステッキを頼りに注意深く「くにたち」駅まで御通ひになるのであった。そして駅からは、途中の疲れを幾分でも御休めになるため人力車に御乗りになり、必ず定刻迄には御出校なさるのであった。最上級生から吾々まで僅か4人のN教室生の為に・・・そして誠に失礼でありますが、電車賃や人力車代にしかならぬ(之は他の先生から、学校の財政が困難な為「大部分の先生が学校の為に奉仕してゐる、マア、吾々のサラリーは足代だと思へば間違いない」と聞かされて居た)報酬のことなどは、少ない弟子達や学校に対する愛情と強い責任感で超越されていらっしゃったのである。

そして教室に於ける先生の御教授ぶりは、御宅に於けるレッスンの時と少しも変らぬものであり又、前に述べた様な条件を克服されたものである丈に、精魂のこもったものであった。であるから御教授の日には、N教室は先生の人力車の影が玄関に現れる迄に、常に掃き清められてゐた。この清掃は誰云ふとなく行はれ、上級生下級生の区別なく、4人の者皆の協力で行はれた。そして隅々迄行き届いたものであった。

自分は直接先生の御言葉から「清潔」と云ふことを拝聴したことはないが、先生の人格・生活様式・作品その他先生を中心として現れて来るすべてのもの・・・発散してくる香り・・・から直接に我々の五感を通して教へられたことは「凡てに常に清潔でありたい」と云ふことであった。これは実に一歩の妥協も許さない先生の鞏固たる生活信条であり又、これこそ先生の芸術に典雅な香りを添えてゐるものであった。

さて、木造家屋は特にさうであるが、水を使って掃除をすると木の香りや土足で汚れた床から立ちのぼる一種異様な匂ひが水の乾くまでするものである。或る日、N教室のレッスン前すっかり清掃成った時、この事に気付いたS氏は家庭から香水入り線香を持参し、これを燻らして先生を御待ちしたのであった。

やがて例によって「コンチワー」と軽い会釈で這入ってこられた先生は、

「クサイデス・・・クサイデス・・・」

と小声で呟き乍ら、ピアノに向かはれる前に静かにガラス戸を開けて席につかれたのであった。そして、下級生から一人づゝ教室に這入って始められるレッスンであったから、先陣を承った私は別に何も叱られた云ふ程ではなかったが、全く恐縮の外なかった。後で先生は香水の様な虚栄・虚偽・虚飾の類は許されない御方なのだとS氏と語り合ったのである。

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こうして学校と御宅での私のレッスンは一段と進んで来たのであるが、その内に御宅の方に御伺いするのは午後5時となり、奥様の御心尽くしの御夕食を先生と共に戴き、暫く雑談の後レッスンの始まるのが習はしとなった。先生の御郷里は秋田なので、食後に申し上げる瀬戸内海地方の私の話には特に興味がおありになるらしく、あの籐椅子から1段と乗り出して童顔に微笑をたゝえながら、私の言葉の合間に今でもハッキリ聞こえて来る独特の言葉・・・「イカニモ・・・イカニモ」を連発されるのであった。

「僕、瀬戸内海未だ見たことありません。ドイツへ行く時も帰った時も夜船で通った丈です。貴君と一緒に是非一度瀬戸内海見物しませうね・・・」

「ハイ御案内させて戴きます」と御約束はしたものゝ当時の情勢では到底その様なことは許されず、日々ニュースは玉砕の報を告げてゐたのであった。

休暇で帰省した時など、内海地方の名産を携へて帰り、僅かに先生の内海見物の夢をお慰めしてゐたのである。お土産の中で一番喜ばれたものは、私の郷里の町の瑠璃園なる屋号の一人のお祖母さんが代々受継いだ、梅の葉に丹念に包んだ梅の肉を砂糖汁に漬けた、一名「瑠璃の君」と云ふ御菓子であった。これは玉露の茶菓子としてその風味の絶なることを激賞されてゐた。併し一人のお祖母さんが造るのであるから自らその量に限度があり、一般には余り知られて居ない様だ。

先生は私の帰省となると

「お父さんお母さんにヨロシクネ。お家に帰ってから余り食べると体コワシマスヨ・・・」

そして微笑をたゝえながら

「サウサウ貴君の田舎の先生にはコレサシアゲテ下さいね」

と仰言って御自分の作品の出版の楽譜に「拝呈―Y様―N生」「拝呈―S様―N生」といちいちサインされるのであった。そして御土産まで戴いて帰るのであるから、今度は先生への御土産となるとまた大変で、私の上京の日が近付くにつれて、家の者は色々と集めて来ては首をひねって私と熟考に熟考を重ねて選択したものであった。又、物資の欠乏が吾々のその日その日の生活を脅かす様になると、私の顔色が少し疲れて見えたのでせうか、いつもの様にレッスンを済まして玄関まで送って下さり、

「チョットマッテ・・・若い人、特に青い物食べなければなりません。僕ほうれん草少し作ったから差し上げましょう」と仰言るのであった。

<イイエ結構です。私こそ先生の為に買出しをして差し上げなければなりません>と喉元まで出たが、峻厳なる父の様な御言葉に

「ハイ、有難うございます・・・」

と戴いて帰る他無かった。その後、私も学校の帰りに農家へ行って少し野菜を分けて貰ひ、レッスンの時御届したら先生も素直に御受取下さった。

こうしてゐるうちに時局は増々急を告げ、B29の偵察が始まる様になると、どの家も疎開の大騒ぎ。が、何回レッスンに行っても先生の御家の御様子は一向変わってゐなかった。ドイツ遊学の時持って来られた貴重な書籍・楽譜等*5は、依然としてお行儀よく並んでゐるのであった。

「先生、疎開を僕に手伝はせて下さい。何時参りませうか」

と居たゝまれず申し上げても只

「アリガトウ・・・アリガトウ・・・」

だけである。あれ程物事に敏感な先生が吾が子の如く可愛がって下さる私に、何故疎開の手伝ひをさせて下さらないのだらう?未だ少年の域を脱して居らなかった私は、その疑問を解くことはできなかった・・・が、再三の私の申し出に御答え下さった、先生の次のような御言葉により解決を見たのである。

「度々有難うございます。僕今迄貴君に御願ひ出来なかったのは・・・余所の家の荷物を背負された貴君の姿を御覧になったお父さんお母さんの御気持ちを思ふと、どうしても御願ひ出来なかったのです・・・ではこれ丈で良いですから貴君の御好意に従はせて戴きませう」。

先生と共に御二人の衣類を大風呂敷一パイに荷造りし、やがてその包みを背負った私の姿を御覧になると、

「タイヘンダ、タイヘンダ、用心してね・・・」と溜息を漏らしながら見送って下さり、詳しい地図を渡されるのであった。郊外・日野のX邸まで道々、一つの荷物を運ぶにもこの人間愛に満ちた先生から受ける感激と幸福感とで胸が一杯であった。

そして生活―作品―芸術の一体化こそ、より高きものへの創造と人格建設への道ではないか・・・と、背中の荷物の重みが段々肩に喰ひ入って来るにつれて、厳しく私の心に訴えるものがあった。

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かくするうちに、当時の不利な戦況から来る生活苦は日一日とその度を加へ、前に述べた御登校の先生御愛用の人力車も、何時の間にかその姿を消してしまひ、駅からのあの長い一本路を、肩に奥様の作られた廃物利用の防空頭巾を掛けて御歩きになるのであった。この痛々しい御姿は、吾々N教室は勿論、見る者をして憂愁の情に心を曇らせずには置かなかった。授業以外の時間、学校工場に働く吾々は、窓越しに校門の道路に沿った低い土塀の彼方を歩いて来られる先生の御姿を見付けると同時に、作業を捨てゝ御迎えに走ったものである。

併し、この様な状態は、急速に敗色を帯びて来た戦況の為長続きしなかった・・・と云ふのは、御宅があの空爆で容赦なく廃墟の一つと化してしまったからである。吾々はB29の空爆の隙間を縫って、先生や奥様の身を案じつつ駆けつけたのである・・・が、不幸中の幸いとでも云うか御二人とも御体は無傷で助かり、煙のくすぶって居る道をリヤカーに乗って、O先生宅に一時身を移されたのであった。そしてO先生御夫妻の温情溢るゝ御もてなしに数日の疲れを休められた後、愈々秋田の郷里に御帰りになることになり、2、3の大包みをO先生、S氏、私の3人で抱へて上野駅に御見送りしたのであった。そして、青森行急行の二等車の窓から先生と奥様をやうやく抱込んだのであるが、車中は混雑を極めて居り、身体も自由に出来ない程であったので、余りにも御優しくこの様な雑沓に耐えられそうもない奥様のことが気に懸るのであった。そしてこの様な状態で秋田に着く迄に、若しや空爆でもあってはといふ不安が大きかった。

やがて御二人の御安泰を祈るうちに、列車は秋田の郷里に向け・・・いや、結果は先生の冥土へ旅立たれる列車となったのであるが・・・静かに動き出したのである。先生はお別れに、

「オカダさん大変有難う・・・又必ず帰って来るからね・・・」と仰言った。そしてこれが最後の御言葉となってしまった。

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先生を失った第一乙種合格の私は、何時来るとも知れぬ召集を待ちつつ、同僚数名と学校工場と化した教室で細々と勉強を続けてゐたが、どういふ手違ひか、召集資格を有する級友には一人残らず令状が来たのに、私だけはそれを受取らないうちに終戦を迎へてしまった。

やがて先生は、敗戦後の混沌とした東京に約束通り御帰りになったのである。私は、以前の如き師弟一体となって進む、リズムに乗ったレッスン再開への歓びに燃えて、とるものもとりあえず駈けつけたのであるが、待ってゐたものは・・・あゝ何と云ふ不幸なことであったらう。 

帰られた先生の旅の疲れの御寝みは、そのまま一瞬にして・・・御永眠(脳溢血)と化してしまったのである。以前と少しも変らぬ美しい童顔・・・黙して語らぬその枕の下に、私は絶望、悲嘆の激しい閃光の明滅に己を忘れ、涙に暮れたのであった。(以上、「楽友」創刊号/1951年3月発行から、原文のママ転載)


編集部注

*1 これを拝読すると、無性に「N先生」がどなたかを知りたくなります。そこで、あるいはこれを書かれた当時の著者のご意向には添わないかもしれませんが、あえて編者の分かる範囲で、不明部分の謎解きをさせていただきました。以下はあくまでも編者の推測としてお読みください。

「N先生」は明らかに、「浜辺の歌」の作曲者として著名な成田為三(1893年12月15日〜1945年10月29日享年51歳)先生でしょう。

それは、このホームページのクロニクル・コーナー「岡田忠彦先生登場」に、ご本人が「成田為三、岡本敏明、尾高尚忠、大中寅二、岡田九郎の諸先生の薫陶」を受けたと記しておられ、その中にNという頭文字をもつ先生は他におられないからです。

*2 「O先生」は少し迷います。前記5名の恩師中、N先生以外はすべてOという頭文字が付くからです。

けれども、古い楽友会員なら、すぐこれが「岡本敏明(1907年3月19日〜1977年10月21日享年70歳)」先生のことだと分かります。 

岡本先生は、著者・岡田先生の音楽上の長兄ともいうべき方で、成田先生の一番弟子として、著者のみならず、草創期の楽友会も数々の恩恵をうけ、その発展に多大のご援助を賜ったお方だからです。

*3 「N先生宅」は現在の北区・滝野川にありました。しかし、終戦を4ヶ月後に控えた『1945年4月13日の空襲で焼失』と記録されています。

*4 この「特大の書棚」は、『成田先生の高弟であった岡本敏明先生にとって憧れの的であり、器楽曲や管弦楽曲など種類別に分類・整理された書棚の寸法を測らせてもらい、自宅にも同じ大きさのものを備えた』ということです。岡本先生がいかに成田先生に心酔されていたかが分かるエピソードです。

*5 しかし、その書棚に収められていたはずの「ドイツ遊学の時持って来られた貴重な書籍・楽譜等」や『成田先生自作の合唱曲や管弦楽曲の殆どは戦火で失われてしまった』ということです。現存する楽譜は約300曲しかありません。

*6  前*3、*4、*5の注記中『』で括った部分は、成田先生の故郷である北秋田市にある「浜辺の歌音楽館」の名誉館長・後藤惣一郎氏の講演録(08年7月)から、そのごく一部を転載させて頂いた引用文です。

なお、この音楽館(88年完成)開館の際には岡田先生ご夫妻も招かれ、かつて成田先生に頂いた記念の楽譜類を寄贈されたということです。ここに掲載したお写真は、同館の開館20周年を記念して出版された「公式ガイドブック(秋田文化出版株式会社)」から転載させていただいたものです。(オザサ)

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