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特集「学生指揮者の弁」

指揮台の上にて 

 

十合 啓一(会友)


一昨年編注:49年/筆者、高校2年生の時、放送*1の練習の時に、岡田先生から「私のいない時でも、練習しておいてもらえると良いのだが」と僕に指揮法の序の序の口の話をしていただき、2度ばかり練習したのが、僕として指揮棒を振る最初となった。その後、全然自分で指揮の勉強をしていないので「指揮法の指の字も知らないくせに、棒を振ったりして、甚だ出しゃばりだ」といわれるだろう、と始終気にしていた。いい訳をするやうだが、僕が自分から指揮をしてみたいと思ったのは去年の日吉祭の時が最初で、それまでは岡田先生がこられない時などに止むを得ず、代わりにやったまでのことで、僕が指の字でも知っていたら、喜んでやっていたらう。

正直な事をいふと、去年の合唱祭*2の前日、6月17日に三田の体育館で練習した時、岡田先生から「私は後ろの方で聞いてみたいから、君チョット振ってくれないか」といはれた時は「困った!大変な事になったぞ」と思った次第である。といふのは「グローリア」も「走れ駒よ」も振ったことはないし、また、そのつもりで注意して見ていなかったことも勿論だが、それよりも百数十人もの混声合唱団の前で・・・と思ふと急に気おくれがしたのだった。

案の定、指揮台、否、腰掛の上に立って見ると、僕がアガったことは確かだし、また「走れ駒よ」ではどちらに向いてEinsatzを送ったらよいのかまごついたのである今その時の様子を思ひ出すと、自分でも吹きだしたくなる。ところが落ち着きをとりもどし得たのは、恥ずかしい話だが、歌っている諸君、特に女声諸君の殆どが楽譜に首を突っ込んでいるのに気がついた時からだった。

その翌日当日の朝最後の練習の時、藤本君が振らされたそうだが、彼のことだから僕のやうなつまらない心配は全然しなかったらうが、返すがへすも残念だった。

幾ら指揮法の勉強をしていないとはいっても、度々指揮をさせられている中に、だんだん解るやうになってきて、<やってみたい>と思ふやうになってきた。我々がコーラスをやるのと何ら変らない心境である。夏休みに「天地創造」の練習をした時も何度かさせられ、振り方に困ったり、小川先生*3のピアノと合はなくて困ったのは常時のことだった。

秋の日吉祭*4は生徒の行事で、ちょうどよい機会だから普段の望みを実現させようと思って岡田先生にお願ひしてみた。

 「日吉祭の時には、僕に少しやらしてください」すると、

「良いことだから、ぜひやってみたまへ」と先生にいはれたやうに記憶している。それで、自分で易しそうな曲を選んで、いざ練習してみるとどうだらう。自分がどうにかピアノをたたいてきれいだなと思った曲とは、全然別の曲のやうである。まだ練習不足だからだらうと思ってゐたが、その後2,3度やっても相変わらず・・・。

練習を終へて三田から一人で帰る途中<よく歌へないのは歌ふ方にも責任はあるが、それよりも皆から音を引出せない自分の責任の方が遥かに重い。できもしないくせに、とんだ事を・・・>とつくづく悟ったのであった。いさぎよくここで引込まうかとも思ったが、ここで崩れてしまっては何もならないし、初めから上手くいく筈はない、苦難と戦っていかなくては・・・と思ひ、どうしてもやり抜かうと決心して、ある日岡田先生に1、2時間教えを乞ひ、基本を始めからやり直して、もっと大きく振る事などをいろいろ注意して頂いた。外はとっぷりと暮れて、広い日吉の音楽教室に先生と二人きりは、さすがに淋しいものであった。

次の練習が10月14日に三田であったが、岡田先生から「私は三田へ行けないが、練習しておくやうに」といはれ、習ったばかりのことを注意して振る練習をしたが、あの驚くべき長い全曲*5、容易なことではない。しかし、たった一度でもコーチを受けた事は僕にとってどれだけプラスであったか。帰りにK君から「君、随分うまくなったよ、急に」と、Y君から「大きく振るやうになって、ずっと歌ひよくなったよ」といはれた時はうれしかった勿論、両君の言葉を善意に解釈して

しかし、例へ半日でも1時間でも指揮棒を振ることは非常につらいことだと初めて知った。その日の練習が何時間だったのか覚えていないが、肉体的にも精神的にも相当に疲れた。振り方を間違へないやうに、皆が疲れないやうに気をつけたのは勿論だが、それより実に情けないことは渡邉先生*6のピアノに、皆のコーラスに、僕の方から気を配ったことだった。手足はだるくなるし、途中で抜け出す人がいるのを見ると、自分も同じ合唱団の一員で、長時間歌ふのはつらい事だと知っているし、皆の気持ちはよく解るが、頼まれた責任もあり、途中で止めてしまっては何にもならないし、たったこれだけのことができないやうでは・・・と思ふし、両方にはさまれた立場はつらかった。

練習を終えたトタン僕は芝生に転がった。腰と手足の痛さ・・・慣れないせいだらうし下手な証拠であらう。それにしても指揮者として、また種々の点で岡田先生が一通りならぬ苦労をしておられることを察することができた。

僕の棒はいくらか上手になったらしかったが、遂に最後まで僕の棒に乗ってもらへなかった一曲日吉祭で歌ったがあった事は、僕にとっていつ迄も後味の悪いものだ。原因がどこにあるかは諸君の考へに任そう。しかしこの指揮者?としてのデヴューは、僕自身近頃のFreude喜びの一つである。

指揮台に上がって色々見たこと感じた事で、自らを省みて、今更ながら岡田先生に良心の呵責を感じる思いであった。後ろの方でひそひそ話をして居る人、時々こちらの様子をうかがって急に歌ひ出す人、歌って居ない人、楽譜に首を突っ込んで居て、めったにこちらを見ない人、かういふ人達は女声に多く、半ば堂々と話したり、怠けたりする人は男声に多い。今まで僕もその一人であった・・・。中にはいつもこちらを良く見、注意して歌って居る人も僅かであるが居たし、いつも定まってまばたききもしないで僕の棒を見て歌って居るので、時々視線が合ふと僕の方がたぢたぢとさせられるアルトも居た。皆がその位に、楽譜に首を突っ込まなくても済むやうになってくれたら大したものだが・・・。全体的に皆口が開いて居ない。実に小さな口だ。あれでは声の出やう筈がない。その点では男声は比較的に良かった。

歌っている途中で重要なEinsatzを送る時、そのパートの人が注意して見て居てくれるとホッとするが、見て居ないと<折角大事な所を合図しているのに駄目だなぁ>とがっかりする。そういった好ましからざる諸事の目に入るのが嫌で、音だけ聞いて居る方がよく解るから、僕は度々目を閉じる。

しかし指揮をしてゐて、自分の思ふ通りに音と美しいハーモニーが、きれいに高く低く、或いは強く弱く流れるその時は非常に嬉しいもので、目を閉ぢて棒を振りながら、自分は雲に乗って空高く飛んで居るやうな気になることもある。が、その逆のことが少なくないことも事実である。指揮台に上がると、このやうに種々のことが解る。

Chor Freude*7に於いては、指揮者は居なくても良いくらいだ。まして僕みたいなのは不要。皆の気が合へばコーラスも合ふようになる。何時だったか、村田武雄先生*8が「合唱指揮者不要論」のやうな事を云はれたやうに覚えてゐるが、指揮者がゐなくても全員が心を合はせ、各自が歌ひ法を理解して正確に歌っていけばできると云ふ位の気構へが欲しい。しかし、指揮者の居る時に彼を眼中におかないのでは困る。指揮者には絶対の信頼をかけ、タクトに従っていくべきだ。と同時に指揮者も又、皆から信頼されるよう努力しなくてはならない。又一方、誰でもが簡単なコーラスの指揮位できる様に勉強してほしいと思ふ。一人ひとりが指揮者の苦心のある所、希望する点を良く理解し得るならば、より完全なる合唱団になり得られると固く信ずるものである。

現在女性の指揮者は2日間に亘った合唱祭*2でわずか二人しか見られなかった程少ない。もっと多く出現しても良いと思うが。僕も機会があれば、今後も勉強したいと望んでゐる。

「楽友」創刊号(51年3月)

編集部注:

*1,*2,*4については当ホームページ「楽友会クロニクル」⇒「楽友会前史(3)」に掲載してある一覧表をご参照ください。

*3の「小川先生」とは中等部の音楽教諭・小川京子先生のことで、女子校の初代音楽教諭・渡邉恵美子先生と共に、この時代から楽友会草創期にかけて、度々ピアノ伴奏等で諸活動にご協力くださり、また中等部の初代音楽部長として、佐々木高、篠原(旧姓:小島)初子(共に3期)といった優秀な卒業生を、楽友会に送りこんでくださいました。

*5の「全曲」とはハイドンのオラトリオ「天地創造」のことで、これも「楽友会前史(3)」の一覧表をご参照ください。

*6の「渡邉先生」とは*3に記した渡邉恵美子先生のことで、詳しくはこの「記念文集」中の「子供の情景について思うこと」や、同じAnthology中の「追悼文集」にある「渡邉先生の思い出」をご覧ください。

*7の「Chor Freude」とは、筆者のご記憶によれば、*4の「日吉祭」で、音楽愛好会の演奏とは別に、各パート3〜4名から成る男声4部合唱として出演したグループ名称です。そのメンバーは全員が会誌「楽友」を創刊した高校3年生で(氏名は「楽友会前史(4)参照」)、その後、高校卒業までの半年間学内外で活躍し、日本橋・三越本店ではパイプ・オルガンのあるギャラリーで、平岡養一さんの木琴演奏に続き、3曲ほど歌ったこともあるそうです。

*8の「村田武雄先生」については「記念文集」⇒「楽友会命名の由来」の「注」をご覧ください。 (オザサ)

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