追悼文集

合宿のスナップ

渡邉恵美子


夕暮れのヴェランダから、数人の男声合唱が聞こえてくる。なかなかよいハーモニーである。ハーモニーは暗い木立のなかへ消えていく。飽きる気配もなくコーラスは続く。延々と・・・

夕食後のひと時、3階の展望室からまたしてもハーモニーが流れ出した。今度は別のメンバーらしい。バスは相当低い。まさに和音のひびきの楽しさと楽しき学生時代のひと時の中に陶酔している姿だ。

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朝食後の清々しい森の中から、慌ただしくバスに揺られてコーラス練習の小学校に向かう。

ハーモニーは小学校に着くのも待ち切れず、誰の喉からともなく流れ出て、たちまちバスは音箱と化す。やがて野口英世博士の母校へ着く。「正直・忍耐・目的」という博士の字の額が印象的である。聞くところによると、この額は野口博士が米国留学から帰国されて帰郷された折に、母校で講演され、その時に黒板に白墨で書かれた文字の上に、当時の校長がうすい紙を当てて墨でなぞったものをこの額にしたのだそうだ。

全く田舎の木造の質素な校舎、練習場にあてられた体育館の窓からは青々とした水田を隔てて磐梯山が見える。この体育館と戸一重で続いている音楽室に「皇太子殿下御生誕記念」と金文字もやや古びた山葉のグランドピアノを見出した時、私の胸にピンときたものは何であったか。読者の皆様のご想像に難くないことと思う。

さて、岡田先生の指揮によって、吉田幸子氏の伴奏で混声の練習が始まる。全員が一心不乱、あらん限りの声を出して歌っている。たちまち岡田先生の額は紅潮し、玉の汗が飛ぶ。リストのローマニー・ライフの曲の昂調と共にコーラス員も興奮の態である。

やがて3時間近くも練習してから、オニギリ2個に梅干しにキャラブキ少々という世にも質朴なお弁当。

お昼休みの後、今度は男子・女子別々に男声コーラス、女声コーラスの練習。喉も体も疲れて再びバスに揺られて宿舎に戻ったのは4時近く。

もうヘトヘトかなと思いきや、ものの1時間もたたぬ間に、またしても流れるハーモニー、楽しきかな合宿!!と歌っている如く。

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 さらば合宿、玄関前の広場で歌う「蛍の光」に惜しみ切れぬ名残りを惜しむ。さてこれからいよいよ発表会場のある会津若松市に向かうのだ。バスはヒヤリとするような急なカーヴを曲がり、青田の果てしなく続く田舎道、秋草の乱れ咲く野の中を延々と走る。今夕の発表会を控えて自重してか、誰も歌はない。

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地方ならではの公会堂である。中等部の音楽教室と同じベンチが並んでいる。見れば見る程、よごれた公会堂である。下駄で木の床を歩く音がガラゴロガラゴロ聞こえるのも珍風情である。

私どもの感謝措く能はぬ穴沢先生と会津音楽協会のご尽力によっての事であろう、1階も2階も満員の聴衆は道路まではみ出した程であった。愛好会メンバーの熱演は聴衆に随分感動を与えた如く、しばし激しい拍手が鳴り止まなかった。これでヤレヤレと重荷を下ろした全員は、会場より東山温泉までのバスの中をFreude schoener Goetterfunken・・・と、がなりつづけた。

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かなりな大人数にもかかわらず、病人も出ず、また、愛好会の汚点となるような事も起こらず、無事に合宿と発表会を終へ、各自其々貴い想い出を胸中に蓄えて解散できたことを心より悦ぶと共に、来年の合宿へのよき反省のよすがとなり、来年はよりよき合宿を実現されることを祈ってやみません。(53年9月7日)


おもしろかったこと

 

渡邉 鎮夫

8月7日
上野から東北本線に乗って猪苗代湖のそばにいきました。KEIOのお兄さんやお姉さんがたくさんいました。僕はそこでクワガタ虫5匹、カナカナ蝉2匹とトンボを沢山とりました。

行った夜、大きなお部屋でみんなで遊びました。西瓜わりをしました。沢山の人が代わりがわりやったけれど、中々われませんでした。最後に誰かわりました。われたときみんながワァーッといいました。ぼくは東京に帰ったらしようと思いました。

その次の晩、花火をやるのでお兄さん達と湖水のそばにいきました。うちあげをやりました。火の玉がスーッと上がって空の上でパッとわれて湖水の上におちました。それから、ネズミ花火をやりました。ぼくはブランコにのって見ていました。そしてお兄さんにかた車をしてもらって帰りました。

8月9日
音楽会にいく時、ぼくは二人のお兄さんと先に宿屋を出ました。バスにのって音楽会をやるところにいきました。ぼくは聞く人の所にすわっていました。お兄さん達は横のドアからステージのうしろに入っていきました。お兄さん達は沢山コーラスをやりました。

 「水はこまるよ」というのと「ごんべさんがたねまく」というのがおもしろかった。それからおしまいに「ハーイ」というのもよかった。

音楽会がすんでからみんなで写真をとりました。それからバスで東山温泉に帰りました。そしておふろに入ってねました。                おわり


編集部注:
@ 合宿については、いずれ改めて年代記に詳述しますが、今回は渡辺恵美子先生のご逝去を偲び、急遽、先生が「楽友」誌にお寄せくださった玉稿2編と、葬儀で喪主をつとめられた先生のご長男・鎮夫氏の、幼年時代のかわいい日記をご紹介します。

A 「子供の情景」についてはその出典を上の本文注に記しましたが、この「合宿のスナップ」と「おもしろかったこと」は「楽友」新・第3号53年11月からの転載です。1953年、楽友会は初めて女声を加えた夏季合宿と、その成果を現地で披露する機会を与えらました。上の2文はその時の感想記です。渡邉先生は、お二人のお子様―鎮夫君と優子さん―をお連れになってのご参加でした。

B 写真@はその時の宿舎を西側からみた景観で、今は国指定の重要文化財「旧高松宮翁島別邸・天鏡閣」として知られる福島県の史跡となっています。

昭和天皇・皇后がここで新婚の1ヶ月間を過ごされたことでも有名だそうですが、楽友会合宿が行われたのは53年8月3日から11日までのことで、そうとは知らず無邪気に遊びました。


@旧高松宮翁島別

A「護国堂」⇒
(クリックで拡大)

C この天鏡閣は展望台も備えた瀟洒な洋館で、総勢68名が宿泊できましたがピアノがなく、練習はかなり離れた猪苗代町立翁島小学校に貸切バスで移動して行われました。先生の文中にあるように野口英世博士ゆかりの学校で、校庭には博士の記念像もありましたが、戦時中の名残の「護国堂」がそのままになっていました。鎮夫君と「お兄さん達」は休み時間に、そこでよく一緒に遊びました写真A。戦時中なら不敬罪で全員逮捕です。


B罰ゲーム

D 天鏡閣にはピンポン台を備えた娯楽室や、食堂を兼ねた大きなホールがあり、そこでよくレクリエーション大会をやりました。写真Bは、鎮夫君が興味を示した、西瓜わり競争の後の罰ゲームです。割ることのできなかった人は、手を使わずに皿に盛られた西瓜を平らげなければなりませんでした。後ろで笑っている伴君1期/大学2年は「お兄さん」というよりも、既に先生のような、オジンのような風貌です。でも、高校生が一緒なので、酒は飲めませんでした。(09年1月記)

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