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想いいずるがまゝに

 

今橋 昭子
会誌係の方から会の発足以来の発表会を振り返って何か書くようにと依頼されましたので、思いだすがまゝに綴ってみます。

今年(56年)の12月の発表会(定期演奏会と云うらしいですが)が第5回目と云うのですから、私は今迄に4回の発表会ステージに加わってきたことになる訳です。第1回は、神田のYWCAホールで「天地創造」と「四季」からの抜粋を行い、第2回目が相互ホールでのフォーレの「レクィエム」、3回目は山葉ホールでフランクの「ミサ曲」を、そして第4回の去年が想い出も新たな、あの青年会館で行われたモーツァルトの「戴冠式ミサ」。

こうして平面的に並べて書いてしまえば何のことはないのですが、どれもこれも私達にとって想い出深いものばかりで、話せば長いことなのですが、中でも最も対照的に浮かんでくるのは、何と云っても第1回と第4回です。

第1回は、楽友会史上最高に傑作な(?)演奏会で、今思っても頬のあたりがムズムズするような、何となくほほえましいものでした(と云っても、その時はおかしいどころか泣きたい程でしたけれど・・・)。あの頃、私達は楽友会としてまとまった成果を発表しようと、とても張り切っていました。それ以前にも合唱祭や読売ホールで「天地創造」全曲を歌い、日比谷で「第九」を他の合唱団と合同で歌ったりしたことはありましたが、「楽友会」となってはじめての発表会、しかも今後の伝統を築く為の土台になるものだと思うと、希望と不安の混じりあった気持で発表会を迎えたものでした。

12月の暮近くでかなり寒く、事前の練習の疲労と寒さの為か、風邪をひき喉がイカレタ人も随分いたようで、大丈夫かしらという不安と、よし、しっかり歌おうという緊張に震えながらステージに立ちました。幕がスルスルと上がると、たいして広くない客席に、あそこに一かたまり、こゝに一かたまりという数えるほどの人数、その頃中等部生だった妹の顔が前の方の一群に・・・と思っていると、その頃から急に頬がほてり出し、それが歌い始めると尚更上気してくるのには全く閉口しましたが、でもその割に気持ちは上がらず、指揮棒をにらむ様にして、全部暗譜で歌い通しました。

と、ここまでは立派なのですが、それからが傑作で、最後の混声合唱の部で「天地創造」の28番の時、これも最初は順調にすべり出したのですが、各パートがかけあいになるあたり、その間に間奏が少しあったように思いますが、練習の時は何でもなくサラッと歌っていたのに、やっぱり皆上がっていたのでしょうか、後2小節でソプラノが出るのだと思って、おもむろに唾をのみ込んで用意した時、後ろの方でサラサラと歌い出したのです。それも1人2人でなく殆どの人が・・・。最前列の真中近くにいた私はびっくり仰天、体中の血が逆流したかの如くに赤面して隣の小林さんと顔を見合わせ、どぎまぎしながら自分達だけでちゃんとした小節(少なくともその時そう信じていましたが、私も上がっていましたからどうだかわかりませんが)から歌い出したのですが、2、3人の声は前から歌っている威勢のついた声と混じりあって何とも奇妙な音となり、とてもそのまま歌い続けることはできず一旦歌うのを止め、汗をポタポタ流しながら懸命に合図して下さっている岡田先生の棒にすがりつく気持で伴奏の成行きと、他のパートの成行きに耳を澄ましました。

ちょっとアルトの方を見ると、やはり一番前で懸命に歌っていた重本さんも真っ赤な顔をして小首をかしげて口ごもっている様子。その時アルトも、アルトの中で二つ三つに分かれて混戦していたと後で聞いたのですが、あの時の混乱はもうダメだと思う悲しさと、何とかうまくまとめたいと願う気持ちで渦巻いていたように思います。

それでも岡田先生の好リードで、最後に4パートが合う所だけは器用に(?)合わせて、最後のクライマックスはその汚点を少しでも拭おうと心底から一生懸命声をはり上げて歌い、どうにかなぐさめの(私にはそう感じられた)激しい(?)拍手をもって幕を閉じたのですが、岡田先生は勿論のこと、皆汗でびっしょりでした。皆一応がっかりして、あそこがどうでこうでと云いあっていましたが、終わってしまえばどうしてあんなことになったのかしらと何だかおかしくなってきました。でも一生懸命にご指導くださった岡田先生に対しては、何だか申し訳ない気持ちで一杯でした。

ところが客席で聞いていた妹に帰り道「どうだった?最後のあれ、すごくめちゃめちゃでおかしかったでしょう」と聞くと「そうでもなかったわ、唯、随分難しい曲だと思ったけれど」ですって・・・。これが現在の楽友会員なのですから、その鑑賞力は大したもの(?)だと思いますネ。とにかくこの発表会ほど想い出深いものはありません。聞きに来てくれる人は、父母兄弟それに親しい友人の類、至って家庭的な小規模なもので、非常に心安く気楽な代わりに、この様に打っても響きが鈍い様な、何となく頼りない感じもありました。寒い中を聞きに来て下さった重本さんのお母様もあの混戦にはお気付きにならなかったそうで、唯、私も重本さんも火事見舞いの金太郎の様に真っ赤になって、まるで自分達二人だけで歌っているような顔で、気の毒な位、力んで歌っていたといわれ、さもありなんとふき出してしまいました。

このちょっぴり苦く、かなり滑稽な第1回の想い出に比べて、去年の第4回は申すまでもなく感激も新たな、発表会始まって以来最高の盛会であったと思います。もっとも第1回の時は最上級生が大学1年で、高校の3学年と共に全体で4学年だったのに、第4回では大学4年から高校1年迄、我々「楽友会」の誇るべき7学年が全部そろった最初の年であった為、質量共に会が最初の頃よりはずっと大きくなってきていることは事実でしょうし、又、この位の発展はむしろ当然かもしれませんが、YWCAよりも遥かに広い青年会館の客席にぎっしり満員の顔を開幕と同時に見た瞬間、胸のたぎる様な喜びと誇りとが体中をかけめぐる様な気持でした。最初の発表会の頃の私なら、このようなヴォリュームある客席の雰囲気に押されて完全に上がってしまったと思うのですが、そこは6年間の訓練のお陰ですっかり心臓の方も鍛えられ、最初の混声を歌い出す前に、2階の正面近くに女子校の先生方のお顔や、1階の前方にお友達、それからいつもニコニコと親切な、そしてご自分でもヴァイオリンを弾く塾僕のおじさんの顔などをすばやく見つけてしまったほどです(でもステージに立ってからキョロキョロみまわすのは、みっともよくありませんネ)。

最初の信時潔の曲集は私の大好きなものばかり、あのハーモニーのすばらしさは歌っている私自身をもうっとりさせ、ステージの上だということも忘れてしまった程です。この曲ばかりでなく、ブリッテンも又、最後の戴冠式ミサ曲も夢中で歌いながらも、唯自分の音だけをがむしゃらに出して怒鳴るのではなく、ハーモニーする喜びを体でひしひしと感じながら、実に楽しく歌えたことが何よりもうれしく感じました。と云うのは、第3回目までは唯、自分の音を忠実に出すのに一生懸命で、その上、ステージの上では自分も上がっていますから、ハーモニーを楽しみ、曲を味わいながら歌えたことは一度もありませんでしたから・・・。後で伺ったのですが、作曲者の信時さんもいらっしゃっていたそうで、第1回の発表会のあの寂しい客席に比べて、何とはり合いのあるステージだったことでしょう。「戴冠式ミサ曲」ではワグネルのオケの賛助出演を得たことも影響したとは思いますが、しかし各方面から我々楽友会というものが認められて来たことは事実でしょう。

その途中に幾多の難関と起伏を味わいながらも、第1回より第2回、3回目よりは4回目と、年々幾らかずつでも充実し向上してきたわけですが、第4回演奏会が最高とは云えないにしろ、一応私が感じたようにかなりよかったのなら、そこには今春ご卒業になった筑紫さん、長谷川さん、伴さんたちのそれこそ超人的ご指導があったことをどうしても忘れることはできません。昨年は初めてオケをつけて混声の大曲をいたしましたので、コーラスにオケにと、岡田先生のご苦労も一通りではなかったことと思いますが、特に女声コーラス株が昨年のブリッテン以来上がってきたのは、これらの先輩諸兄の、それこそ一人ひとり手をとるように、発声から音読み、フィーリングに至るまで、こんこんと教えて下さったご指導と、選曲が良かったことと、そして会員一人ひとりの努力の結晶に他ならないでしょう。


第4回定期で演奏されたブリテンの「キャロルの祭典」
女声合唱の記念碑的上演でした。誰一人楽譜にかじりついている人はいません。
指揮:筑紫武晴君(1期)、ハープ:山畑松枝さん(客演)

山畑先生の美しいハープの音に合わせて、心の底から力一杯歌えたあのブリッテンの「キャロルの祭典」は今でも最も強く心に残っています(男声コーラスはよく聴けないで本当に残念でした)。技術的には多々不充分な点があったにせよ、幾つかの段階を経て、色々な体験を生かして、とにかく第1回の発表会とは比べものにならない程の成果を、あの第4回発表会で収め得たと思います。しかしこれとても決して最高点に達したというわけではなく、あくまでも発展の途上なのですから、今年の12月の発表会をよりすばらしいものにする為に、今後できる限りの努力と熱意を注ぎたいと思います。

でも去年の最上級生があまりにエラかったものですから、今年の最上級生たる私共の無能(勿論、有能な方も沢山いらっしゃいますが)が情けなくなりますが、7年間もお世話になったこの楽友会での最後の発表会ですもの、いかなる犠牲(?)を払っても、できる限りの努力は惜しまないつもりです。秋はとかく色々と行事も多いですし、又、コーラスは楽しむためのもので、苦しんでまでも・・・とおっしゃる方もいらっしゃるかもしれませんが、事前の練習が苦しければ苦しいほど、大きな喜び、楽しみとなって帰ってくるものです。そしてコーラスは1人や2人では出来るものではない代わりに、1人でもぬければ必ず全体の調和にひびいてくるのです。つまりAさんが練習をさぼればAさんが出て歌っている場合とは違うものになってしまうのです。大げさな様ですが、これが4人5人となると、確かに大変な損失でコーラスこそ一人ひとりが重要人物、つまりスターなのだと思います。

今年の第5回発表会もすぐ目前に迫っております。とかくゆるみがちな手綱をしっかりとひきしめて、発表会当日ベスト・コンディションでのぞめるよう、皆で一人ひとりが自覚をもって磨きをかけていきましょう。駄文、悪文で恐縮ですが秋の夜の長いままに、多分最後となるでしょう「楽友」への投稿の栄を得させていただきました。


編者注: 
★ 著者は女子高1期生(楽友会2期・ソプラノ)として、前掲の「混声合唱に想う」の著者・重本さん(アルト)と共に女声陣の牽引車として大活躍し、今日の楽友会の基礎を築かれたお一人です。あらゆる練習に無遅刻、無欠席でいらしたと伝えられています。第1回と第4回の演奏会の内側から見た情景が、鮮やかに甦る一文です。お人柄については「追悼文集」コーナーの拙文「アコとカクテル」をご参照ください。

★ なお、文中<第1回発表会の「天地創造」28番>とあるのは、現在一般的に使用されているハイドン全集版の第2部・終曲(第26曲:合唱と3重唱)のことで、3重唱は村瀬和子(S/3期)、長谷川洋也(T/1期)、佐々木高(B/3期)の諸君が熱唱されました。

★ 本文は「楽友」第9号(56年11月刊)からの転載ですが、表紙デザインは毛利武彦先生(慶應高校美術科教諭)、会誌係は斎藤成八郎(3期)、福井幾(3期)、今橋道子(6期/現姓・森田/著者の妹)、吉田節子(6期/現姓・後藤)の諸君と記録されています。(オザサ)


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