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「慶應讃歌」の想い出

 

平岡 養一


「慶應讃歌」を書いた当時の日本は、まだ終戦後の混乱抜けやらぬ時であった。疎開先から追い出されて家がなくて困っていた私たち一家は、野球部の先輩であるS氏のご好意で同家にご厄介になっていた。野球部の選手たちや相川君をリーダーとする当時の応援指導部員がしばしばその客間を賑わしていて、私もよく皆に木琴を聞かせたり、久しぶりに慶早戦の気分に浸っている中に、私の心の中に産れたのがこのメロディーであった。

最初は慶早戦の応援歌として考えたのだったが、折あたかも本塾の90周年を迎えて学校も塾生も張切っていたので、それならばこの歌をその記念として母校に献納しようという気になり、自分のメロディーに自分の思うまま、第一節は敗戦日本の将来の再建を若き塾生に期待して、第二節は慶早戦の勝利の喜びを歌い、そして第三節は学窓を出た我々塾員たちがいつまでも母校を偲び、塾員であることを終生の誇りとして歌えるものとして書き上げたのがこの歌詞である。

本塾も90周年から、100周年を経て新しい世紀へと輝かしい歩みを踏み出しているとき、私のこの歌が尚母校に歌われているのを聞くのは喜びの極みであり、いつまでも母校を讃える歌として残っていってくれれば、作者として本懐これに過ぎるものはない。

 「永遠に讃えん 我が母校」


編者注:
作者:平岡養一(1907-1981)氏は、年配の塾員なら誰一人知らない人はない著名な世界的木琴奏者で、愛塾精神に富み、さまざまな機会にその美しい音色を聞かせてくださいました。特に、この「慶應讃歌」は第二の塾歌といわれるほど皆に愛唱され、三節全てを暗譜で歌える人も少なくありません。来る10月19日に行われる150年記念の「慶應讃歌グランド・コンサート」でも、大々的に合唱されるはずです。また、これをゆっくり演奏すると葬送曲にふさわしい荘重な響きがあるので、塾員葬儀の際にもよく用いられます。(オザサ)


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