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或邦楽家の話

 

池田弥三郎


十四五年程前、まだ大学の学生だった頃の私が、一時期、かなりしたしく行き来して、そのまま、いつとはなしに遠ざかってしまった一少女があった。行き来をしなくなってずい分になるし、その上、間に戦争がはさまったりしたので、殆ど全く記憶から薄れてしまっていて、そのままで行けば、おそらく、忘れたままに、思い出すこともなく過ぎてしまっただろうと思う程、はるかな過去のひとこまとなっていた。だからつい一週間ほど前、だしぬけに手紙を貰った時には、差出人の名だけでは、急にはその人の事が、頭にうかんで来なかったのも無理のないことであった。

手紙には、ある邦楽の演奏会の招待状とプログラムとが這入っていて、その外に、走り書きの様な、達者なペン字の手紙が入れてあった。

名前だけでは、もはや御記憶にないかもしれないがと、私に思い出させる為の、二つ三つの話を記したあとで、どうやら其道で、立って行けそうになったので、人様のお勧めもあり、同封の様な会を催すから、是非お出向き頂きたい、私がこう言いう道で立つ様になったのも、一番初めに、貴方に御相談した事を、今に忘れる事が出来ないでいるので、どうかお聞きになって頂きたい。それに演劇関係の雑誌などで、お名前を時折拝見するから、満更御迷惑とも思われないので、会が余り人少なでも張り合いがないから、こちらでは、いらっしていただけるものと思っている、と言った様な文面であった。

私は職業的な批評家でもないし、とりわけ邦楽の演奏会などは、観客席が華やか過ぎて、身の置き所がない気がして、殆ど出かけて行った事はなかったが、ちょうどその日は、夜会があって、その前の二、三時間をつぶすのには、足の方の都合もよかったので、半ばは義理で、半ばは入り混じった興味で、会場に出かけた――――。

私が、その人から嘗て相談を受けたと言うのは、少し女の人らしい誇張だと思うが、或いは、それは、私の方の過小評価で、本とうは、私が思っている以上に、その人は私の意見を真剣に求めて、私のことばに耳を傾けたのかも知れない。演奏会の客席についている中に、次第に鮮やかになって来た私の記憶では、当時私はそれ程真剣な相談とも受けとらず、従ってやや無責任な出たとこ勝負みたいな事を答えたのである。それを、ことば通り真正直にうけ取られたのだとすると、そして十四、五年も経ってから、その責任を問われるのは、幸い、それを後悔していないで、寧ろ私に感謝している気持が、先の手紙で感じられたので、まだしも助かる気がしたものの、どうもやはり迷惑な気がするのを、おさえる事が出来なかった。

私はピアノを習いたいと思うのだが、母はそれを絶対に許してくれないばかりでなく、小さい時から、殆ど無理やりにやらされて来ている長唄で身を立てさせようとしている。これからの世の中では、段々、三味線などやる女の人も減って行くだろうし、たとい私が一かどの者になって、母の実家の方の名をついでみた所で、それで世渡りなどできるものだろうか。

 ――――こんな様な相談を、相談という形でなく、私にもちかけて来たのだった。

「それは勿論、迷わずに、長唄をやった方がいい」

私は言下にこう答えたそうである。演奏会のあと、こっそり帰ろうとする私を、目ざとく見つけて、お弟子さんにつかまえさせてその人は、次の会に急いで行こうとする私を、お手間はとらせないからと、会場の外のロビーでお茶を勧めながら、その時の話を楽しそうにするのだった。

 「それで迷っていた私の心がきまったんですわ」

まだ何にも知らない学生の私が、十五、六歳の少女に、そんな自信たっぷりなことばを、臆面もなく申し述べたのだ。今ならば勿論絶対に言いっこない、そんな、責任の伴うはっきりしたことばを、若いと言う事は為方のないものだ、何も顧慮することなく言い放ったらしいのだ。だが、人生の事は、往々、そうしたことに、却って救いがあるのかも知れない。人生の経験を積んだ、行き届いた、従って力弱い忠言よりも、未熟で乱暴だが、その代り力強い断言の方に、却って迷いが晴れて、一途な道を歩く力を与えられる事も多いのだろう。だが私の場合は、どこまでも、それはけがの功名だった。一少女の前に、得意気に放言する一大学生。私は、今改めて感謝している人の前で、却って冷汗の出そうな思いであった。

私が育った頃の、東京の下町では、洋楽の稽古をさせる家庭は殆ど稀であった。私の親類一統を見廻しても、私と同年輩の従姉妹達の中で小さい時から、ピアノやヴァイオリンを習った者は一人もいない様だ。ことに下町だからそうなのだろう。近代生活の点では、植民地的な東京の中で、下町の家庭生活は、むしろ頑強に、古風な生活を守り通そうとしてきた。そうした頑迷な位の根強い生活も、さすがに今度の戦争が打ち破ったかに見えるけれども、それも今俄かに判断を下す事ができない。ましてその頃のことだから、おけい古といえば邦楽のけい古にきまってゐた。併しその中でも、多少のうつり代りはある様で、私の家などが、その典型とは言えないにしても、ごくあり触れた下町の一家庭として例にひけば、私の祖母も母も叔母も、清元を習ったのに、私の姉は長唄であった。同時に、私と同年輩の従姉妹達も、皆長唄であるのにみても、一代の間に、下町の家庭から、清元が減り長唄が増していった事は言えそうである。姉がまだ嫁に行かない時分、姉は、私は清元を習いたかったのだが、清元は粋すぎるからいけないと言われて、どうしても、習わして貰えなかったと言っていた。祖母も母も、孫であり娘である私の姉に、自分たちの清元を、もはや不適当だとして習わせないだけの、時代の変化があったのである。研精会の隆盛と言うものが、家庭に長唄を浸透させることに、大いに拍車をかけたのは事実であろう。だが、それについても、研精会派の名取りになった姉はいつも言っていた。

「どうも私は研精会は嫌いだ。あんまり長唄をお上品にしてしまって、あれは山の手の音楽だわ」

私の長唄に関する知識など、なにもない。だから十四、五年も前の、大学生だった私が、どう言うつもりで、その一少女に、長唄を勧めたのか判らない。でも、色々とその人と話している中に、その時分の私が、ずいぶん生いきな事を話したことがはっきりして来た。

長唄は、その名から言っても、江戸の歌舞伎の劇場音楽なのだ。だから歌舞伎劇の舞台に出場しない事を誇りとし、出場する事をいさぎよしとしないで、謂わば長唄の歴史を無視した研精会の長唄は、上品に、澄んで来るかもしれないが、その代わり、空虚な寂しいものとなって行くだろう。そういう妙な倫理観は、却って長唄自身を自殺させることになる。

私には、歌舞伎劇と言うものが、五十年や百年で、全く日本の演劇としての生命を失うものとは思えない。従って長唄も、そう簡単に消滅して、洋楽にとって代わられるものとも思わない。私自身は、邦楽のレコードを買うよりは、むしろ洋楽のレコードを買いたいと思うし、自分の意志では、歌舞伎よりも新劇を見にゆく事が多いが、まだまだ私の年代の中に、洋楽がすべての家庭に密着し、生活の中に浸透して行く様なまでには、なりっこはないと思う。

 ―――――そんな様なことを、その時の私は言った様である。

これらのことは、今も、さして変えなければならないとは思わないが、さて、長唄で身を立てる事を決意して十五年、今有望な新人として、その成績を問う最初の機会に恵まれた、嘗ての一少女と、テーブルをはさんで逢い見ながら、やはり私は、そこに十四、五年の歳月を思わないではゐられなかった。新しい決意と抱負とを持って、これからの、おそらく予約せられた幸福な将来を歩もうとしている此人が、今もし、十四、五年前の一少女だった時に抱いた不安と同じ心持を訴えて来たら、今の私は何と答えるだろう。またもし此女の人に娘があって、もし其娘の将来について以前と同じ相談をしかけて来たとしたら、私は何と言って答えるだろう。

音楽についての日本人の家庭生活が、そう急に変わるとは思われないと、以前の私はその人に言った。そして、ほぼそのことば通り、相変わらず、歌舞伎劇は、新劇と比較にならぬ数の観客を月々動員し、中年以上の日本人は相も変らぬ三味線音楽の愛好に落ちて行く様である。かくいう私などが時に邦楽のレコードを買って帰る様な事があったり、そう言う自分を一方でははじらいながら、散歩の途中で、聞きとめたおけい古の三味線を、ふと立ち留まって聞いていたりする。私などの年代に育った者は、また、四十前後になると、邦楽の方に、洋楽より以上に惹かれて行くのだろうか。先日乏しい生活のなぐさめに、妻が三味線を買って来たのを、強いて咎めだてしようと言う気もおこらなかった私である。しかしその私も、同時に、例えば塾の女子高等学校に、課外として長唄の練習をする機会を設ける事には、真向から反対するであろう。大学に、大学生の長唄の演奏の研究会がある事などは、どうも私の感情に逆らうものを覚えさせるのだ。又少しこれとは別の理由もまじって来るが、芸術大学に昇格した音楽学校がとうとう邦楽科を設けたことも、笑うべき見識の無さだと思っている。

私の勧めで、その道に進んだことを、純粋に悦んでいる人を前にして、私は丁寧に、その日の演奏会の、盛況であった祝いを述べ、将来の多幸であることをも併せ願って、辞し去ったのである。


編集部注:
★ これは「楽友・第二号(51年8月発行)」からの転載です。編集委員は掲載順に、川島修(2期)、筑紫武晴(1期)、楠田久泰(2期・故人)、若杉弘(3期)他7名の方々でした。

★ 編者は今、深川・木場で暮らしています。隅田川畔の名所旧跡を散策するうちに永井荷風、久保田万太郎、佐藤春夫といった三田文学の巨匠たちの、下町情緒を映した文学を耽読するようになりました。そして、その系譜を受け継ぐ池田弥三郎(1914〜1982)先生が、2回も「楽友」誌に寄稿しておられたことを知り、驚き、かつ非常な喜びに浸されました。いかにもこの2篇には、チャキチャキの江戸っ子先生らしい平和と音楽への愛、それに「音楽愛好会」への期待がこめられているように思えます。あえてここに転載させていただいた所以です。(オザサ)

編集部注(その2) 本サイトを開設した時、当時のパソコンの画面サイズに合わせて表示サイズが幅650ピクセル程度で文字のサイズも小さいものでした。年々、Displayのサイズが大きくなると相対的に文字が小さく見えるようになりました。おまけにわれわれ編集部の人間も細かい字は見づらくなり、文字サイズも大きくし、表示の幅も標準750ピクセルに変更しました。古いページも更新してきましたが、ページ数も余所のHPとは桁違いです。

このページも更新がされないままになっていました。改めて、池田弥三郎先生の文を読みながら直しているところですが、長唄の話が出てきました。何十年前のことでしょう。昭和20年代から30年代だったと思います。カッパの両親は長唄でした。ある発表会に連れて行かれたのですが、その時、池田弥三郎先生がお歌いになりました。楽友会の古い世代の方で弥三郎先生の長唄を聴かれたことがある方がいらっしゃるでしょうか。おそらく、カッパは超珍しい経験を持っている人間です。いや、かっぱです。(2016/10・かっぱ)


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