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あるレコードの記憶

 

池田弥三郎


宮古島に上陸して後、私の属していた中隊は、おおよその揚陸作業を終えると、主力をもって弾薬を入れる穴を掘ることになり、一部の兵力を海近くに残して、集積した糧秣と弾薬との監視にあたらせることにして、島の奥の方へ出発していった。此任務を、命ぜられた私は、二名の兵をやって、近くの部落の中で、適当な宿舎になりそうな民家を探させた。

「分隊長の悦びそうな家を見つけてきた」。やがて帰って来た二人はこう報告した。

三間しかない小さい家だが、奥の座敷の壁にギターなどがかけてあって、利口そうな少女がいる家だと言う。私達は大急ぎでその日の仕事をかたづけて、交代で監視する兵を残してその家へ出かけて行った。善良そうな父親と、話に出た少女と二人だけの家で、庭に面した板の間のひと間を、快く用立ててくれた。少女は沖縄本島の女学校の生徒だが、夏休みで帰ってきてゐると言った。私も部下の兵も、みんな東京の者だと言うと、忽ち初対面の警戒も羞恥も捨てて、少女は、いろいろな本を持ち出して来たり、レコードをかかえて来たりして、しきりに親愛の情を示してくれた。


1942年関東軍の精鋭
山砲上等兵時代の筆者
「三田育ち」の自選写真集より
少女が持ち出してきたレコードの中に、黒いアルバムに入った、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトがあった。私は思いがけない時に、思いがけないものを見た思いであった。

Felix Mendelssohn

「蓄音機はありますか。あれば、これをかけたいんだけれど」

私がこう言うと、少女は、早速、奥から、ラッパのついた、古風な蓄音機を持って来てくれた。鳴りさえすれば、音質などどうでもよかった。私は戦争に出てから四年も経って、東京に残してきた友人や家族にめぐりあった様な気持ちで、この、優雅きわまりないコンチェルトを聞いた。
 
私はティボーが日本へ来た時に日比谷の公会堂でこの曲を聞いた。そして興奮して、帰りに銀座の山野に寄って、このレコードを買った。その時分、私はアパートに一人住まいしていたのだが、レコードをかかえて帰ってみると、私の部屋の明かりがついている。Sと言う仲の良い友人が来ていて、私の帰りを待っていた。

「ちょっと話があるんだが」と言いかけるSのことばを無視して、「まあ、メンデルスゾーンを聞けよ」と、私はティボーの演奏会のことなどを、べらべらとしゃべりながら、Sの話したい気持など全くかまわずに、ポータブルを持ち出して、それをかけた。

第一楽章が終わって、ふと気がつくと、Sはあお向きにねたまま聞いていたが、目に一杯涙を浮かべていた。「どうしたんだ」。うかつな私も、さすがにSの話と言うのが、何か容易ならぬ事なのだと気がついた。
 
Sは、前の年に父親を失って、それ以後、全く家の収入が絶えた為に、慶應の予科を途中で止めなくてはならなかったが、友人たちで相談して、遺族の生活を支えた残りの、僅かな不動産からのみ入りと、足りない分をみんなで合力したりして、その日までどうやら学校を続けて来たのだが、母親が人にだまされて、住んでゐる家まで人手に渡ってしまったので、もはや一家離散する外なく、学校も思い切る以外に道がなくなった。そういう話に来たのだった。Sと私とは、幼稚園から小学校、中学校、大学と一緒に来た、友人同士であった。

「どうしてもだめか」。

「うん、もうどうにもならない」。二人ともそのまま久しく無言で向き合っていた。

「もう一度かけてくれよ、それを」。私達は、もう一度メンデルスゾーンを聞いた。

Sはそれから苦しい生活を送った。そして三、四年の後、やうやく安定した職に就いたのだが、その時には、肺をおかされていた。私は招集を受けて、病床のSと、あわただしい別れをして出て来たが、翌年、私がまだ満洲にいる中に、Sは死んで了った。

少女の父親の出してくれた泡盛を飲みながら、私はやや感傷的になって、私がメンデルスゾーンを聞きたかった訳はこうだと、少女に、Sのことを語った。少女は涙をためて、私の話に耳を傾けていた。

私達は、四十余日にわたる輸送のために、殆ど全員が、半病人みたいになっていたが、その疲労しきった所を、次々にデング熱に犯された。私もやがてこれにかかって、ひどい熱を出した。だが私は責任上、命令受領に中隊本部まで行かなくてはならなかった。或日、一里半の道を、夢のような気持で乗馬で行ってみると、作業命令が急に変わって、本部は飛行場近くに移動していた。はじめての道を迷いまよいして本部に着き、命令を書き取った時には、私は意地にも動けない程に、疲れ切っていた。私は馬の背に、はい上る様にして乗って、宿舎の方に向かった。もうとっぷりと暮れていた。真暗な夜道であった。月がない上に、すっかり曇っているので、ほんとうに、真の暗であった。気を張り詰めてはいたものの、ともすれば睡魔に抗し得ずに、ガクリとしては、その都度びっくりして目をあけた。その度に私は自分の馬が、しっかりした足取りで歩いていることを知っては、くびを叩いてやるのだった。

その中に、私の耳に、じつにはっきりと、メンデルスゾーンのヴァイオリン・コンチェルトが聞こえて来た。あの美しい第一楽章の旋律である。ああ、Sが又レコードをかけているな。こんなことを私は考えていた。ヴァイオリンの弦の、あの典雅な顫動を、私はまざまざと聞き続けていた。

馬のいななきに、私はハッとして我にかえった。馬は歩みをとめていた。私はいつの間にか、馬の背にうつ伏せになったまま、深い眠りに落ちていた。それでもさすがに手綱をはなさず、たてがみにしがみついていた。いったいどこに来たのか、訳らなかった。ただ、どうも民家の庭先のような感じであった。

馬のけはいを感じたと見えて、ガタリと戸をあける音がして、人が出て来た。やはり、人家の庭にはいっていたのだ。

「ここはどこですか」 私は声をかけた。

「ああ、分隊長さん」 聞き覚えのある少女の声であった。馬は高熱の私をのせたまま、間違いなく宿舎まで帰って来たのだ。

「あんまり帰りがおそいので、本部に泊まったんだと思って、戸を閉めて了って、今みんなでレコードをかけていたんです。分隊長の好きな、例のメンデルスゾーンを」

あとから出て来た兵の一人がこう言いながら、手綱をとって、厩の方に去った。私は少女の肩に支えられながら、はいずるように中にはいった。
 
私のデング熱も下火になった頃、命令が出て、私達は本体に合流した。それからまもなく連日の烈しい爆撃がはじまった。私達は毎日まいにち珊瑚礁の地磐を、一寸二寸と掘り進めて行ったが、時々は、兵達と、少女のことやレコードのことを語り合っていた。それから、少女が一日に一度は必ず奏でたギターの曲を、あれこれと口ずさんだりした。少女は秋になって沖縄本島の女学校へ帰って行った筈であった。だから秋になって那覇が空襲で全滅した時に、或いは死んで了ったかもしれなかった。

 少女はしかし生きていた。秋になって、連日の強風で、那覇への船が一日のばしに出航しないでいる中に、那覇がひどくやられてしまって、もはや学校へは帰れなくなっていた。少女は学校をあきらめて、そのままこっちに残っているとの事だった。私達は港に使いに行った兵の一人から、少女の消息を聞いて祝福しあった。

少女が死んだ事は、沖縄失陥の後、私が少女の家を去ってから、殆ど一年に近くなった頃、所用で町に出た時に、挨拶に立寄って、其時はじめて父親から聞いた。流れ玉の様に飛んで来た敵弾が、ミシンを踏んでいた少女を即死させて、天井から屋根を抜いたと言う事だった。まだそのままになっている天井の破れから屋根の穴が見えて、真青な空がのぞいていた。少女のギターはそのまま壁にかかっていたが持ち主が撃たれた時に、破片を受けて、胴にまるい穴があいていた。

私をのせて、少女の家まで無事に運んでくれた馬は、終戦後の糧秣窮乏のどん底に、中隊命令によって殺され、私達はその肉を食べてしまった。そして私は、無事に、召集以来、足かけ六年目に、東京に帰って来た。

私の僅少なレコードのコレクションは、殆ど戦災で焼けていた。避難先へ辿り着いた其夜、残ったほんの僅かなレコードを、押入れからとり出した私は、その一やまの一番上に、メンデルスゾーンのアルバムを見出した。だが、いろいろな荷物の下に積みこまれていたこのレコードは、惜しい事に、その第一枚目がピンと半径だけ裂けていた。カタッカタッと言う不愉快な音のまじるのを我慢して、私は家に帰りついた其夜、真先にこのレコードをかけた。アパートで、Sと此のレコードをかけて以来、長いながい月日が過ぎていた。けれども、すべての事が、つい昨日の様に、まざまざと思い出されるのであった。私は、嘗てSがした様に、あお向きにねながら此曲を聞いていた。涙があふれ出て来るのを、私はとどめる事が出来なかった。


編集部注:
この一文は「楽友」創刊号(51年3月発行)から、そのままそっくり転載したものです(ただし、原文は縦書き)。岡田先生によれば、後年、文学部教授として、また国文学者・民俗学者・随筆家として幅広く活躍された著者の池田弥三郎先生は、戦後の一時期、中等部主事を務め、女子高の中村校長、塾高の安西副主事と共に、両校による混声合唱団の創設を積極的にご支援くださった貢献者のお一人、ということです。なお、岡田先生ご自身も、その池田主事の要請をうけ、当「楽友」創刊号発刊当時は、中等部の音楽教諭を兼務していらっしゃいました。楽友会3期の篠原初子、佐々木高さん達が中等部3年生の頃のことでした。


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